霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

石州街道二回目(長門峡⇒徳佐)その2

2010年10月11日 | 石州街道
2010年10月11日(月) その1からの続き

右手に少し離れていたJRの線路が、またすぐ側を走るようになると間もなく右に名草駅が見えてくる(写真上)のだが、ここも駅名の看板は無くて、一日二便のコミュニティバスのバス停表示で、かろうじてここが名草だと分かる。

さくら小学校辺りからようやく地福地区へ入るが、昔はそこそこに賑わいのある町だったであろうことを忍ばせる通りではある(写真中)。写真の左手に続く土塀の家は、この通りでも一際目立っていて、さも格式がありそうな家構えだ。

中心部を通り過ぎようとしたすぐ左側に、「隠れ切支丹墓標」なるものが建っていた(写真下)ので立ち寄ってみた。
説明板によれば、江戸時代初期に毛利領では幕府の意向でキリシタン迫害が激しくなり、山口の宮野にいた約2000人の信者が神父と共に逃れて来て、この地に潜伏したらしい。
写真に見える石室型の三基の墓標は、いわゆる「切支丹墓」と呼ばれ、旧阿東町各所に散在していたそうだが、これらに関する史料や言い伝え等は、現在は全く残っていないそうな。
日本人の信者達はもちろんだが、遙か異国の地で果てざるをえなかった神父(ポルトガル人かな?)の想いは、どのようなものであったろうか。迫害の脅威にさらされ悔恨の念を持ち続けたのか、はたまた、生死の境を彷徨う苦境の中にあっても信者達との殉教の想いで充足していたのか。
オイラには当然知るよしもないが、懇ろに手を合わせて墓標を後にした。

その3に続く


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