2010年10月11日(月) その2からの続き
県道311号をしばらくそのまま往くと、赤根屋地区に入る。左手に、お地蔵様入り口と書かれた案内板があり、入っていくと確かにお地蔵様が鎮座していたが、その裏手に墓標のようなものが見えたので、元の県道に戻って裏側から見ると、藪の中から「千人亡者供養塔」と書かれてあるのが見えた(写真上)。
何でも、慶応4年(1868)の大水害で、阿武川沿いに打ち上げられた大量の水死人の供養塔らしい。ナマンダブナマンダブ…
その先の緩やかな登り坂の途中に、地味な村界標が建っていて(写真中)、手前が地福村で、向こう側に回って見ると徳佐村と刻んである。
昭和の大合併とかで、篠生村・生雲村・地福村・徳佐村・嘉年村が合併して阿東町が誕生したのが昭和30年のことだから、この村界標はその前に建てられたことになる。
その先の県道沿いは、いわゆる「りんご園」ストリートで、右にも左にも多くのりんご園が営業中だ。九州ナンバーの車も多く、家族連れで賑わっている様が、なかなか活気があって宜しい。
この週末は、「元気がでるっちゃフェスタ」なるイベントが行われているようで、りんご狩りだけではなくて、いろいろな催しがこの地区一斉に行われているみたいだ。ひょっとすると、SLの「やまぐち なにわ」号なる重連運転も、これと結託しているのかぃナ?
左手の小高い丘の上に船方農場が見えてくると、国道315号に突き当たるので、その交差点の少し手前から右へ降りていき、国道の下を潜る。更に嘉年踏切でJRを横断し、その先二つ目の十字路を左折すると、徳佐の旧メインストリートに出る。
旧阿東町役場の向かいに、椿家本陣門が残っていて(写真下)、代々徳佐村の大庄屋であった椿家の威光を示す堂々とした門構えだ。
徳佐地区には、徳佐八幡宮や静御前伝説など見所も多いが、次回にゆっくり回ることとして、今日は徳佐駅から山口線で帰宅することにした。長門峡駅付近の寄り道を含めて、6時間39,085歩のウォーキングであった。
県道311号をしばらくそのまま往くと、赤根屋地区に入る。左手に、お地蔵様入り口と書かれた案内板があり、入っていくと確かにお地蔵様が鎮座していたが、その裏手に墓標のようなものが見えたので、元の県道に戻って裏側から見ると、藪の中から「千人亡者供養塔」と書かれてあるのが見えた(写真上)。
何でも、慶応4年(1868)の大水害で、阿武川沿いに打ち上げられた大量の水死人の供養塔らしい。ナマンダブナマンダブ…
その先の緩やかな登り坂の途中に、地味な村界標が建っていて(写真中)、手前が地福村で、向こう側に回って見ると徳佐村と刻んである。
昭和の大合併とかで、篠生村・生雲村・地福村・徳佐村・嘉年村が合併して阿東町が誕生したのが昭和30年のことだから、この村界標はその前に建てられたことになる。
その先の県道沿いは、いわゆる「りんご園」ストリートで、右にも左にも多くのりんご園が営業中だ。九州ナンバーの車も多く、家族連れで賑わっている様が、なかなか活気があって宜しい。
この週末は、「元気がでるっちゃフェスタ」なるイベントが行われているようで、りんご狩りだけではなくて、いろいろな催しがこの地区一斉に行われているみたいだ。ひょっとすると、SLの「やまぐち なにわ」号なる重連運転も、これと結託しているのかぃナ?
左手の小高い丘の上に船方農場が見えてくると、国道315号に突き当たるので、その交差点の少し手前から右へ降りていき、国道の下を潜る。更に嘉年踏切でJRを横断し、その先二つ目の十字路を左折すると、徳佐の旧メインストリートに出る。
旧阿東町役場の向かいに、椿家本陣門が残っていて(写真下)、代々徳佐村の大庄屋であった椿家の威光を示す堂々とした門構えだ。
徳佐地区には、徳佐八幡宮や静御前伝説など見所も多いが、次回にゆっくり回ることとして、今日は徳佐駅から山口線で帰宅することにした。長門峡駅付近の寄り道を含めて、6時間39,085歩のウォーキングであった。
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