アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

マニラでのお気に入りのショット

2008-11-30 18:59:50 | フィリピン-マニラ

 調子に乗ってもう一枚…(^^;)。 これは、もう七年も前の2001年3月、「スクォーター・エリア」と呼ばれる貧困層の子供たちにカトリックの教えを施しているという知人が、その子供たちを私の家に連れて来てくれた時の「ウェルカム・キッズ・パーティ」の時に撮った写真で、マニラでのお気に入りの写真の一枚です。

 最初、車椅子の私の姿を見てビックリし、緊張していた子供たちでしたが、歌やダンスを楽しみ、一緒に食事した後ではもうこの笑顔…。白い歯が見えない子供はいませんよね…。(^0^^0^^0^)

(ラス・ピニャス市ピラール・ビレッジで…足を覆う緑色のタオルが派手^^;)  

ピラール・ビレッジには計3年間住みました。中流家庭(一部上流?)の住宅地の中に、貧困層のエリアも多くみられましたが、私にはお互いの弱い部分を埋め合って、うまく共存しているように映りました。

  もう引退しましたが、私の大好きな女性シンガー「Donna Cruz -ドナ・クルーズ」の生まれ育ったビレッジで、実家は歩いて数分の所でした。が、それは偶然で、決して「追っかけ」ではありませんよ(^0^)。 代表曲は『Only me & you』…結婚・引退後、現在はセブでお住まいです。


ダバオ市ミンタルのNTC(障害児通所センター)

2008-11-28 21:02:37 | フィリピン-ダバオ

 キリスト教徒が9割を占めるフィリピンでは「‐ber」の月(Septem-ber・9月からDecem-ber・12月まで)、つまり9月に入るともう「もうすぐクリスマス…」と巷のムードが高まっていきます。「クリスマスまであと27日!」といった具合に、フィリピンでの年末カウントダウンは新年よりもクリスマスの方が重視されるようです。

  ダバオ市で過ごした4年間、NTCという障害児通所センターに関わらせていただきました。その施設があるミンタルという場所は、百年以上も前に多くの日本人がダバオに移住後、マニラ麻(アバカ)栽培で繁栄し、「多くの民が集まる(溜まる)所となるように…」という願いが込められ「民多溜」(ミンタル)と名づけられました。 そんなダバオの平和と繁栄を破壊したのが太平洋戦争でした。皮肉にも、地名に込めた人々の願いとは別に、激戦地となったミンタルには、現在、整備された、日本人、日系人、フィリピン人戦争犠牲者の共同墓地があります。

 <写真> 2005年12月 ダバオ市 NTCクリスマスパーティ

 

 「それから、知人にオードリーという理学療法士を紹介してもらい、週に一度、在宅でのリハビリを受け始めた。オードリーもまた、渡米の準備を進めながら、市内の「マハリカ基金」(Maharlica Foundation)という福祉団体で、リハビリのボランティア活動をしていた。一二月中旬、オードリーは、ダバオ市郊外のミンタル(Mintal)という所にある、障害児通所センターのクリスマス会に私を誘ってくれた。「ネイバーフッド・セラピー・センター」(Neighborhood Therapy Center‐略してNTC)という、できてまもない小さな施設だった。

 ミンタルは、以前日本人もたくさん住んでいた所で、多くの人が集まるようにという願いを込めて「民多溜」と名づけられたそうだ。戦時中、激戦地となったミンタルには日本人墓地があり、こちらのお盆に当たる万聖節の前日、一〇月末に一度お墓参りに来た所だ。ダバオで亡くなった日本人と日系人、そして戦争で犠牲になった人たちのために共同墓地が設けられていた。フィリピンイーグル公園で有名なカリナンに向かうハイウェイをしばらく上っていくと、丘陵地の緑に囲まれた中にそのNTCの建物があった。

 ニパ(Nipa)と呼ばれる植物で編んで作られた壁に、ココヤシの葉でふいた屋根という素朴な建物の中から、にぎやかな声が聞こえてくる。創設まもない、そのこじんまりしたセンターには、中に入り切れないほどの子供たちや家族、スタッフが、クリスマスを祝うために集っていた。オードリーが、設立者のマァム・ベイブス(Ma’am Babes)を紹介してくれた。Ma’am はMadam(マダム)の略で、スタッフや周囲の人は、敬意を持って、三十歳半ばの彼女をそう呼んでいた。ご自身も理学療法士で、マハリカ基金の職員である彼女は、自分の住む地域に、学校へ行けない、リハビリを受けられないたくさんの障害児がいることに心を痛め、個人でその通所センターを立ち上げられたのだった。Neighborhood(ご近所、お隣さん)という名称にも、そうした願いが込められているのだろう。彼女は、半年前に私がMKDで障害者問題について話した時に参加していたそうで、すでに私のことを知っていた。

 中へ入ると、そこにはダウン症、小児麻痺、ポリオ、自閉症、水痘症、そして知的障害と、様々な障害をかかえた子供たちがいた。私の、あごで動く大きな電動車椅子にびっくりして泣き出す子供もいた。パーティが始まり、まず家族がダンスで場を盛り上げる。そこへダンスの得意なダウン症の男の子が、我慢できずにその特設ステージに上がって踊り出し、場の緊張がほぐれた。次から次へと歌やダンスが飛び出し、ゲームではクリスマスギフトがみんなに渡されていく。子供たちも次第にリラックスし、笑いの渦が起きていった。そのパーティを企画したのも、やはりボランティアでそのセンターと関わっている、若い理学療法士や教師たちだった。そのNTC通所センターでは、子供たちに見合った授業を週に二回、そしてリハビリは週に三回無償で提供していた。学校(普通学級)には受け入れてもらえず、お金のかかるリハビリも受けられなかった子供たちである。子供を外へ連れ出しても、周囲の人から「お宅の子はどうしたのか?」と特別な目で見られたり、不愉快な扱いを受けたりといった経験は、ほとんどの家族が持っていた。そのため、それまで家からほとんど出たことのない子供もいたという。 ところが、そのNTCができたことにより、それまで社会との接点がほとんどなかった子供たちと家族の輪が広がり、大きなコミュニティができていったのだ。そして、それを支える心温かな若いボランティアたちは、いつも笑顔を絶やさず、楽しみながらそこでの活動に参加しているようだった。

 パーティの最後に、子供たちから「どうか私たちを憐れみの目で見ないで下さい!」(Please don’t take pity toward us!)というメッセージが会場に発せられた。障害を負った子が「スペシャル・チルドレン」と呼ばれる所以は、神様が人々に「愛」(God’s Love)を示すために遣わされた、意味のある子供たちだからである。そこにも、キリスト教の教えが深く根づいていることが伺える。ほのぼのとした、暖かい雰囲気のパーティだった。」

(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻第4章より抜粋)


バギオ-Baguioとダバオ-Davao

2008-11-26 14:11:50 | フィリピン-ダバオ

 ルソン島北部のバギオ市とミンダナオ島南部のダバオ市…。

 距離的にはずい分離れていますが、実は歴史的なつながりがあります。  

 バギオ市につながる道路の一つに、ベンゲット道路(通称ケノン道路)という曲がりくねった道路があります。

 19世紀末の米西(アメリカとスペイン)戦争後、アメリカ領下となったフィリピンで、バギオを避暑地にしようと、1900年頃バギオに通じるこの道路の建設工事が始まりました。1903年、この難工事に日本人の力と技術が必要だと、千五百人ほどの日本人がバギオ入りしました。そのベンゲット道路は、その二年後に完成しましたが、急で崩れやすい崖など難所を任された日本人従事者の約七百名もが命を落としたとも言われています。

  その道路建設に従事した日本人を支え続けた太田恭三郎という方が、工事終了後、約千人の日本人をミンダナオ島のダバオに送り、アバカと呼ばれるマニラ麻農園の経営に関わらせ、大成功を収めた、という歴史があります。戦前の平和な時代、ダバオには二~三万人の日本人が住んでいたそうです。

 よって、バギオとダバオは、どちらも日本と深いつながりがあり、日系人も多いのです。

 <写真> 2004年8月 ダバオ市 Kadayawan(収穫祭)のパレードとステージ・パーフォーマンスを終えたハイスクールの生徒さんたちと…。


イゴロット民族のパーフォーマンス-Igorots' Performance

2008-11-23 18:38:25 | フィリピン-バギオ

 "Wow! Philippines" Cordilleras' Best 2008...出演前、緊張した面持ちのハイスクール・パーフォーマーたちと…。

 写真ではよく分かりませんが、男子はほぼ勇壮な「ふんどし」姿でした。フィリピンには多数の少数民族があり、希少かつ貴重な文化が今も継承されています。このパーフォーマンスはIgorots(イゴロット民族)の伝統的な文化で、男性の民族衣装はBahag(バハッグ)、女性のはTapis(タピス)という衣装だそうです。

 

 <つぶやき>ああ…今日は久しぶりのアップ…。ご無沙汰しました。床ずれってのは厄介ものです、まったく…(まだ完治せず)。

  ブログって、間が空くと結構大変かも…ネ。「ほそーくアイして…ながーくアイして…」ってコピー、確か大原麗子だったか…。ブログも、「ほそーくてもいい、ながーく続けること」が大事なのかも…。  正直言って、ブログ、まだよく分かりません…。が、編集画面に移ると「閲覧数」「訪問者数」とかが出てきて、「これだけの人が見てくれてる」と思うととっても励みになります。


Wow Philippines!

2008-11-23 18:26:34 | フィリピン-バギオ

 昨日は、JANL(北ルソン日本人会)からのお知らせメールで、バギオ・コンベンション・センター(Baguio Convention Center)での“Wow! Philippines – Cordilleras’ Best”という、コルディリエラ地方の山岳民族のステージ・パーフォーマンスのコンテストを観に行ってきました。

 床ずれ治療のため、しばらく家でムズムズしていましたが、陽気につられてつい…。「チラッと」見に行くつもりが、しっかりハマってしまいました…。結局、コンテストに参加したハイスクール6校、カレッジ3校の全てのオリジナル・パーフォーマンスをすべて見てきました。ファンタスティック、幻想的で魅惑的なムード、演出に圧倒され、引きつけられました(写真)。

 今日は、その“ワーオ!フィリピン-コルディリエラズ・ベスト”の一環イベントとして、朝早くから街のメインストリートでパレードがあり、JANLの皆さんも北ルソン日系人会とともに参加されたようです。


ドリーのその後…

2008-11-18 16:43:00 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)

 拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』を読んでいただいた方、また金沢滞在中にお世話になった方にも、著書(下巻)の中の最後の専従介護者「ドリー」のその後についてチラッと触れたいと思います。

 去年の4月、ドリーの同行を得、ダバオを引き払って日本に戻り、6月末まで金沢に滞在しました。床ずれが完治した後、彼女の都合に合わせてマニラに戻った後、日本大使館の近くの、やはり家具付きのコンドミニアムに半年近く住みました。その後、前記、ラス・ピニャス市の平屋に移った訳ですが、ドリーはそのラス・ピニャスに引っ越して三か月後の2月末に私との雇用契約を終え、4月にクウェートに渡りました。

 私の人生の一つの節目の時期に、ちょうど一年間私の生活をサポートしてくれました。その間、彼女自身の身に、実に様々な出来事が降りかかり、私もできる限りの精神面でのサポートをしてきたつもりです。

 ビコール州マヨン火山近くの出身で、体はきゃしゃながら気丈なドリーは、マニラに戻ってしばらくして新しいボーイフレンドと出会い、同年末あたりから、叔父のいるクウェートに仕事を求めてエージェンシーに斡旋を申し込んでいたのです。マニラは、彼女にとって心地よくはなかったようです。コンピューターが得意でない彼女からはここしばらく連絡はありませんが、便りのないのは無事な証拠と、クウェートで元気に働いている彼女の姿を想像しています。

  それにしてもたくましきかな、フィリピーナ!!!過去の私の女性専従介護者のうち、フィリピンに留まっているのはわずか二人です。現に今、バギオで関わってくれている3人全員(ドライバーのレオも含めて)が、「一度は海外へ働きに出たい…。」という希望を持っています。フィリピンの人口約8千万人の1割「8百万人」が海外に出ているという現実、今はそれも仕方のないことなのでしょうが…。 ドリーを含め、やむなく慣れない海外で暮らしている以前の介護者たちの健康と無事を祈るのみです。

 <写真> 2007年5月 ドリー in 金沢(金沢カトリック教会前の高山右近像前)

  さて、ちょっとした床ずれでも、初期のケアが大切。私は、もう少しの間だけベッドの上で過ごす必要がありそうです。体位交換で「♪みーぎーを向いてーもー、ひだぁりーを見―てもー…」、我慢、我慢!

 友人が、明後日の夜、バギオカントリークラブのレストランへ「モンゴリアン・バーベキュー」を食べに行こうと誘ってくれました。それまでには…(無理^^;)。モンゴリアン・バーベキュー?バギオは外国人も多くインターナショナルです。


少女エッツェル

2008-11-16 14:43:24 | フィリピン-マニラ

「床ずれ」で思い出しました…。

 マニラのラス・ピニャス市には、小さな友人のエッツェルがいます。彼女は、2000年12月に、ケソン市からラス・ピニャス氏に移った時、家の近くのピラール教会で「サンパギータ(Sampaguita)」というジャスミン系の香りの強い小さな白い花の首飾りを売っていました。3歳の時から家計を助けるために…。そのために学校も一年休学したという彼女は10歳でした。母親はいるが、父親は顔も知らないと言います。

 私は浄土真宗徒ですが、カトリック教会にはよく介護者たちと足を運びます。時々教会に通っては、ミサに、彼女から買ったサンパギータの首飾りや花を捧げたりしていました。サンパギータはフィリピンの国花で神に捧げられます。

 ところが、その2001年という年は、お尻右横にできたロウコウという床ずれの一種に悩まされていて、7月末にこちらで簡単な外科手術を受けました。その後一か月ほどでロウコウは完治したのですが、その間、エッツェルは「イッシンおじさんはどうして教会に来ないの?」と、私の介護者に住所を聞いて弟やいとこと花束を持ってお見舞いに来てくれたのでした。7年余り前のことですが、鮮明に覚えています。(写真-黄色のTシャツ)

 その後、よくお花を持って訪ねてくれるようになり、私も「メリエンダ」と呼ばれるおやつを用意したりしましたが、いつも10分といないのです。「教会に戻ってお花、売らないと…。」 それから約半年後、病弱の母親に会い、彼女がハイスクールを出るまで学費をサポートしたい、と申し出ました。フィリピンにも里親制度はたくさんありますが、彼女はその里子のような存在です。

 今年、彼女はめでたく、デビュー(Debut)という18歳の成人のお祝い(男子は21歳)をし、現在はラス・ピニャス市長ネネ・アギュラー奨学制度により、大学でコンピュターグラフィックを勉強中です。

 去年、日本からマニラに戻ってから「ラス・ピニャス市」を選んだのは、エッツェルや今借りているコンド・ユニットのオーナーで、フィリピンで最も親交の長いロレンツォという友人が近くにいたから…でした。

  そういえば、去年4月にダバオを引き払って日本に帰ったのも、床ずれによる体調悪化が最大の理由でしたが、本当に気をつけないと…。

  昼食後、もう一度コンピューターに向かいました。これからベッドに移り、体位交換してもらいます。夜は佳境に入った『篤姫』を…(^^)。ちなみに今日のお昼は、先日のマグロの刺身とレタスとオニオンのスープでした。

 ちなみに賄い(献立や買出し、料理)も、ほとんど自分でやります。もちろん、料理は介護者に作ってもらう訳ですが、野菜をあまり食べない(日本人の約6%)お国柄で、自分の健康を維持するためにも…。料理もたくさん覚えました。ほとんど「○○もどき」…ですが…(^0^)。

(フィリピン時間1時半過ぎ-日本より1時間遅れ)


電化製品

2008-11-16 13:02:19 | フィリピン-バギオ

 三日前にバギオで初めて受け取った一ヶ月分の電気料金の請求書は「1,325ペソ」(約2.650円)でした。マニラではメラルコ(Meralco)という電気会社で、必要最低限ですがエアコンを使っていたので多少料金も高額でしたが、ここバギオでの初めての電気料金は3~4割安くなりました。ここはベンゲット電気会社(Benguet Electric Cooperative Inc)です。

  ちなみに、バギオへ来て買った電化製品は、Panasonicの二そう式洗濯機・5㎏(約12,000円)、Kolinのルームヒーター(フィリピン製、約3,800円)と、DVD・CDプレーヤー(中国製、約3,400円)です。日本でなじみのないVCDのほか、MP、TVゲーム、カラオケもOK(マイクジャック2)です。6,800曲入りのKaraokeのDVDまでサービスしてくれました。

  ラス・ピニャスの家の電化製品と言えば…エアコンに扇風機2つ、冷蔵庫、テレビ、介護者用のラジカセ、そしてコンピューター、ケア用品…という必要最低限のものでした。が、一応持ってきたエアコンと扇風機は、ここでは今のところ使う必要がありません。今の、友人のコンド・ユニットには、電子レンジやオーブントースター、冷蔵庫にテレビ、電気ポットや炊飯器、温水器もあり、とても助かりました。

 実は、一昨日の朝、車椅子に移乗する際(リフトを使っています)、ベッドのシーツが濡れていて、少し血が滲んでいるのを見つけました。介護者の見てもらうと、やはりお尻下の右脚の付け根の皮膚が少しめくれていました。それから今日まで、晴天下、三日間家で大人しくしていたので、ほぼふさがりました。今朝は、日勤のカティが家からグアバ(Guava)の葉っぱを持って来てくれ、それを煮沸し、その煮汁を患部につけてもらいました。殺菌効果もあり、傷には最も良いとされています。


ラス・ピニャス…

2008-11-15 14:39:17 | フィリピン-マニラ

 早いもので、マニラ南部のラス・ピニャス市から、ここバギオに引っ越してちょうど一か月になります。今は時々寒く感じることもありますが、体はすこぶる快調です。血圧も体温も平常の値で、とにかく夜はぐっすり眠れます。

 マニラでは「ダラーッ;;」とした感じだった私の体が、バギオへ越して来てから、少し「シャキッ!!」とした、といった表現が適当かもしれません(^^)。

 写真は、バギオの前に一年近く住んでいた「バンガロースタイル」と呼ばれる平屋の写真です(今年1月撮影-介護者マリアさん)。 トタン屋根で天井が低いので、かなり暑さがこもりました。ですから、早朝の室温(最低室温)も30℃前後・・・という酷暑の中での生活な訳です。これまで十年に及ぶフィリピンでの生活で、借りた家のほとんどはこのスタイルでしたが、このラス・ピニャスの家はネットで見つけたということもあって、家賃が二万円を切り、これまでで一番安い家でした(2LDK、床面積70㎡、築35年)。

 そこでの一か月の生活費は、介護者等のお給料etc.を除けば、家賃を含めて約四~五万円でした。

 余談ですが、「ラス・ピニャス-Las Piñas(スペイン語)」は、英語で「The Pineapple」(ザ・パイナップル)で、パイナップル畑が多かったことから名づけられたそうです。

 ちなみに「松の木」は「pine tree」です。


青天の海

2008-11-13 15:21:58 | フィリピン-バギオ

 今日は五日ぶりの晴天で、朝、近くを散歩してきました。

 南シナ海が見える丘に行くと、眼下には雲が少し…。そしてその奥(雲の向こう)に南シナ海が浮き上がっていました。写真で、海と空の境界線が分かりますか?

 壮大な風景を眺めながら、この地で眠っている祖父への思いを巡らせました。切り花農家の一農民だった祖父が戦争に駆り出され、このバギオ近辺で命を落としたのは63年も前のことで、もちろん私はその遺影でしか知りません。ですが、去年亡くなった祖母からいろいろと話を聞いていた私には、それほど遠い存在には思えません。不思議な因縁を感じます。

 祖父から受け継がれている私の命…、海には、何かそういう「命」について考えさせられる力があるような気がします。