アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

バギオの夫婦松?

2009-01-31 09:55:27 | フィリピン-バギオ

 バギオでは、そういえば「ココヤシ」の木が見当たりません…。標高1500mの山岳都市バギオからハイウェイで下っていくと、ようやく少しずつココヤシの木が見られるようになるのです。もう十年間も生活の場としているフィリピンで、ココヤシの木が見られないのは何とも不思議な気がします。

 その代わり、年間を通して涼しいバギオでは「松」の木-Pine treeが至る所で見られます。それも、日本ではあまり見かけない松の葉などもあり、いくつかの種類があるようです。

 先日、ふと車の中から外を眺めていると、ちょっと変わった姿かたちをした二本の松の木が目に入りました。よく見ると根元と、地上数メートルのあたりで二本の松の木がくっついていました。金沢出身の私はすぐに、日本三大名園の一つ「兼六園」にあった「夫婦(めおと)松」を思い出しました。これは、おそらく私だけしか知らないバギオ市の夫婦松、いわば「カップル松」なのでしょうし、誰にも気にとめられることなく生きてきたのでしょうが、私には、その姿が妙に引き付けられました。

<写真> TESDAバギオの近くでたまたま見つけた「Couple Pine Tree」-named by Isshin


 金沢の兼六園には、以前名物の「夫婦松」がありました(下の写真)。
 左側のクロマツ(雄松)と右側のアカマツ(雌松)のうち、左側のやや痩せた雄松の方は、2003年6月に松くい虫にやられて200年の樹齢を全う、伐採されてしまいました。
 


 さて、バギオ市では、いよいよ明日2月1日から3月8日まで、約一か月と一週間(!)、フラワーフェスティバル
PANAGBENGA(パナグベンガ)」が開催されます。
 日に日に暖かくなってきているように感じます。


インドネシア・フィリピン人の介護福祉士「候補者」

2009-01-29 18:31:16 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)

 昨夜のNHK「ニュース7」で、インドネシア人介護福祉士候補生がいよいよ介護現場での研修に入ると報じられていました。昨年8月、北京オリンピック直前に、オリンピックムード一色の日本に、オリンピックとは無縁かのようなインドネシア人看護師と介護士2百名余りが入国、半年に及ぶ日本語研修を終えての次のステップに入ったわけです。その介護現場(特養老人ホーム)に向かうバスの中で、「(まだ日本語がうまく話せないから)シンパイ。」と言う男性と、「ダイジョウブ、ダイジョウブ…。」と笑顔で自分に言い聞かせているかのような女性の対照的な表情が印象に残りました。

 日本人でも合格率が約50%の介護福祉士の国家試験の受験条件の一つには、「3年間の介護現場での実習」があり、彼らはそれを経て、3年後に「一度だけ」「日本語で」受験するチャンスが与えられる、ということになります。彼らが与えられている猶予期間は4年間ですから…。「その一度の受験にパスできなければ、自国へ帰る」という条件のもとで日本にやってきた訳ですが、その高すぎるハードルをクリアできる人は、まずいないか、いてもごくわずかでしょう。
 
まるで、当初から、4年経過後にインドネシア人介護福祉士の誕生と、その後も日本にとどまって介護福祉士として働いてもらうことを期待していないかのような、厚生労働省の厳しすぎる条件提示です。

 しかし、私は、NHKのインタビューを受けているそのインドネシア人の表情を見ていて、少なくとも、受験までのこれから3年間は、お年寄りの介護現場に、何らかの良い足跡を残してくれるだろうことを期待させられたのです。実際の介護現場では、言葉の壁や習慣の違い等により、様々な問題が生じるでしょうが、それらも良い意味で、日本の介護現場に問題を提起することにもなるだろうと思います。

 その南国の純粋な若者たちには、日本のお年寄りに通じうる何かを秘めているように思えたのです。言葉は通じにくくても、心は必ず通い合うはずです。そして、なぜか気持ちがワクワクしました。


 さて、フィリピンでは、4月の「看護師2百名、ケアギヴァー(介護士)3百名」の受け入れに向けて、フィリピン国内での公募や選考のプロセスが進んでいくことでしょう。
「看護師」は、フィリピンでの看護資格を持ち、3年以上の実務経験があること。一方のケアギヴァー(介護士)は、看護大学か、4年制の大学卒業者で、フィリピンの政府機関「TESDA-テスダ」(Technical Education and Skills Development authority-技術教育技能開発庁)の「ケアギヴァー認定証」があれば、日本の介護福祉士候補生として、「3百名」の枠に入るべく応募資格が与えられます。

 現在、バギオでの私の生活に、専従介護者として関わってくれているのは、結局、メディカル課程は出ていないが、マニラにいた時からもう1年間以上ケアをしてくれているマリアさんと、以前は助っ人として一時的に関わってくれていたジェンさんが、年末年始をバギオよりもっと北部の実家で過ごした後、バギオに戻って来てくれ、その二人に落ち着いています。二人ともステイ・イン・ケアギヴァーという形で、住み込みなので、私も助かるし、生活経費がかからず、お給料をそっくり貯金できる彼女たちにとっても好都合な訳です。

 それはさておき、ジェンさんは3年前に看護課程を卒業しており、今年は再度看護師国家試験に挑む予定でいるようです。その彼女も、「TESDA」のケアギヴァー認定証さえあれば、日本への「ケアギヴァー」としての応募する資格が生じることになります。今日、バギオ市内の「TESDA」に問い合わせたところ、担当者が今マニラに出張中で、来週帰ってきたら連絡してほしいとのこと。これはひょっとしたら、今からでも間に合う話なのかも…と胸を躍らせながらも、当の本人にはあまり期待しないように伝えてあります。でも、ひょっとしたら…。(また、事態が転じたら報告します。)

 

<写真> マインズ・ビューでイゴロット民族衣装をまとってポーズ…のジェンさん。

 …その後、フィリピン人介護福祉士候補生に関してもう少し調べてみると、ほぼ1年前の2007年12月に、「社会福祉士及び介護福祉士法等の一部を改正する法律案」が可決され、その中で准介護福祉士の資格が新たに設けられたようです。フィリピン人ケアギヴァーにも日本人と同じ介護福祉士国家試験を課しながら、不合格となっても「准」介護福祉士として日本で介護の仕事に就く道を開くということのようです。そこでは4年後の2013年までの期限付きの暫定措置と修正されたようですが、それだとこれから4年後ですから意味のない措置となりそうです。

<付記> 昨日付の、友人からのメールの情報によると…
「フィリピン側の申請窓口のホームページが動かなくなってしまい、申請できない状態が続いているようです。」


DUDF - 「Datu ウチダおとうさん」(ダバオ)

2009-01-25 15:05:55 | フィリピン-ダバオ

 ダバオ市にあるミンダナオ国際大学(Mindanao Kokusai Daigaku-略してMKD)は、将来の日比友好関係を担う人材の育成を目指して、国際学科、社会福祉学科、教員養成学科などの学科で、毎年多くの学生を迎え入れています。2002年6月開校の新しい大学ですが、例年、2月にマニラで開催される国際交流基金主催の「日本語スピーチコンテスト」でも、各部門で優勝者を輩出しています。

 http://jpva.org/mkd.html

 このMKDは、元JPVA副会長の内田達男氏夫人、故内田あや子氏の教育基金によって設立された大学です。ダバオ市から、日本人で唯一「Datu Uchida」という名誉ある称号を与えられている内田達男氏ですが、そのあたたかいお人柄から、ダバオの日本人、日系人、そしてフィリピン人からも「お父さん、オトウサン・・・。」と慕われています。

「二〇〇三年までJPVA副会長を務められ、ここ二十年以上も日系人のサポート等で地域に大きな貢献をされているダバオ市生まれの内田達男氏は、二〇〇二年、ダバオ市の最高栄誉賞と言われる『ダートバーゴ賞』を、日本人として初めて受賞された。そして、二〇〇四年には、独自に「ダート内田・デベロップメント・ファンデーション」(Datu Uchida Development Foundation‐略してDUDF)という基金を設立された。DUDFは、内田氏が長年活動を共にされてきたJPVAとは別に、フィリピンの子供達を対象とした、スポーツや音楽での交流による教育振興を主な目的に設立された団体である。ここでは内田氏のお孫さんで、野球の本場アメリカのベースボール・アカデミーで勉強してきた内田ユウスケ氏が、年に三、四回ダバオを訪れ、一ヶ月から二ヶ月をかけて子供達に野球を教えている。そして、様々な人たちの協力を得て、野球道具を現地の子供達に供給している。DUDFにも、活動に参加、協力される方々が、安全に心地よく過ごしてもらえるようにという内田氏らしい配慮で、小奇麗で安全な宿泊施設も備えられている。・・・
 
四月(二〇〇六年)、フィリピン日系人会インターナショナル小学校の卒業式の壇上で、内田氏がはなむけの言葉を送った。
『世の中は、いつも平和で安定したものとは限らない。不安の多い中で、人々がみんな臆病になっている時も、勇気を出して自ら一歩を踏み出さなければならないこともある。』
…ダバオ生まれで、戦禍を生き延びられた後、氏が十八歳の時に日本へ送還され、苦労を重ねてこられた内田氏らしい重みのあるスピーチだった。そのスピーチの間、静かに聞き入っている卒業生の表情が印象的だった。そして、日本での生活が落ち着いた時、脳裏に浮かんできたのが故郷ダバオで、当時窮境にあった日系人を何とかして救いたい、という熱い想いだった。」
(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻より抜粋)

<写真> 内田おとうさん、ダバシューさん(右)、MKD事務局長イネスさん(左から二人目)-2006年8月 ダバオ市の日比友好祭り(RP-Japan Festival)にて。


日本フィリピンボランティア協会(JPVA)の介護つきツアー

2009-01-23 17:24:31 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)

 フィリピンで「ケアギヴァー養成課程」(通常6ヶ月間)を修了しても、海外にケアギヴァーとして働きに出ることがそうそう容易でないことに気づいた人たちは、どうしているのでしょう。

 一つには、ケアギヴァーとして海外へ出ることを諦めず、そのためのプロセスを進めながら、当面は国内でケア(介護)の仕事に就くことを考えるでしょう。
 二つ目に、当初から「海外へ出る」ことを念頭に、履修期間が短期の「ケアギヴァー養成課程」を選んだものの、それが難しいとなると、別の職種で海外へ出ようとするでしょう。それは工場での仕事だったり、家事手伝い(ドメスティック・ヘルパー)だったり、レストランのウエートレスだったり、男性であれば建設現場での仕事だったり、多岐の分野に及ぶでしょう。最近は、金融危機、雇用不安の影響で厳しいようですが…。

 もともと、現政権下の一大国家プロジェクトとして始まった「フィリピン人ケアギヴァー養成」は、単に、「高齢化を迎え、介護の手が足りない先進諸国へケアギヴァーを送り出す」ということだけでなく、退職者を中心に、外国人をホスピタリティあふれるフィリピンに呼び込む、そのために仮に多少のケアが必要となったとしても、フィリピンにはケアギヴァーがたくさんいる、ということを示す目論見もあったのです。ですから、もう数年前から、「介護付き住宅」などのPRビデオを作ったりして海外にアピールしています。そして、もちろん日本人向けの介護付き(お風呂付)住宅もあります。
「海外へフィリピン人ケアギヴァーを送り出す」と同時に、「ホスピタリティあふれるフィリピンに多くの外国人を呼び込む」という二つの狙いの下で「ケアギヴァー養成」プロジェクトが始まった訳です。
 しかし、「看護師の養成」とともに、この歴史の浅い「ケアギヴァー養成」プロジェクトの方も、様々な問題に直面する中で見直されていくことでしょう。


 私が、ミンダナオ島のダバオで生活していた4年間(2003年2月25日~2007年4月22日)、マニラからダバオに移るきっかけとなり、その活動にも関わらせていただき、大変お世話になった「日本フィリピンボランティア協会・JPVA」(網代正孝会長・NGO)は、二十数年前、日系人会と連携してその窮状を打開しようとする当初の活動に始まり、現在に至っては、多方面の分野で、ミンダナオ島のみならずフィリピン各地で様々なプロジェクトを展開されてきました。環境問題への取り組み、社会福祉分野での地域社会への貢献、教育を通しての人材育成、7年前には、諸活動の集大成として、フィリピン日系人会とともに、故内田あや子氏基金によって「ミンダナオ国際大学」を開校させました。

 http://jpva.org/

(日本フィリピンボランティア協会のホームページ)

 その日本フィリピンボランティア協会は、日本の超高齢化社会を見通して、十数年前に(!)すでに、無償で「日本人向けケアギヴァー課程」を設けていました。履修できるのは、ダバオのメディカル課程を終えた人たちでしたから、提供した主な履修内容は日本語学習でした。「ケアギヴァー」という言葉が世間に認識され始める、はるか以前のことです。

 そして、今年もまた、ビザなどの問題がなく、海外に渡航・滞在できる日本人向けに、「短期滞在型の介護付き体験ツアー」が、年に5度組まれています。

 http://jpva.org/tour-k.html

「フィリピン人が日本に入ることが難しいならば、ビザ等の制限のない日本の人たちにフィリピンに来てもらおう」という発想の転換です。要介護度が高い場合など、状況によってはツアーへの参加を遠慮してもらうこともあるようですので、事務局に問い合わせるのが一番だと思います。中期滞在(1か月程度のミドル・ステイ)に関しても相談に乗っていただけることと思います。

<写真> 2004年3月 ダバオ市のJPVA「マリナオン・ドミトリー」にて   -「ケアギヴァー課程」履修生、スタッフの方々と。


 ちなみに、フィリピン人が渡航ビザを該当国大使館・領事館に申請せずに、直接観光ビザにより渡航できる国と地域は、タイ、シンガポールに香港くらいだと思います。


マニラからバギオへは、陸路のみ

2009-01-21 18:50:05 | フィリピン-バギオ

 今私が住んでいるバギオ市のグリーン・バレー(緑の谷)から、遠くにバギオ空港が見えます。(写真-中央にバギオ空港の滑走路)

 ただ、残念なことに、昨年10月から、プライベートでの利用以外には、国内線も「マニラ-バギオ」便を含めて一切運行されていません。下の
写真は、先日撮ったバギオ空港の、寂しげな滑走路です。ちょうど真向かい(滑走路中央の上方)がグリーン・バレーです。
  

 そして、その代替便として、ラ・ウニョン州のサン・フェルナンド空港には、マニラとの往復便があるとのことでしたが、先日訪ねてみたところ、そこもバギオ空港と同じで、現在はプライベート機以外で使われることはなく、事実上閉鎖されていました。

 ということで、マニラからバギオへ入るには、「自家用車、レンタカー、または高速バスでの陸路のみ」という状況です。ちなみに「マニラ(パサイ市)からバギオ市への高速バスの所要時間は約6時間で、料金は、エアコン高速バスで約5百ペソ(千円足らず)です。


 ところで、また、自分の不注意で床ずれ-Bedsoreができてしまいました(やや落ち込み中)。
 
昨年11月中旬にでき、約1か月かけて治癒した場所とは別の場所に…。ラ・ウニョンのビーチに行った翌月曜日の朝、お尻右横に見つかりました。一昨日、昨日と黄色い滲出液が出て、今日もまたベッドの上で過ごしています。大したことはないと、希望的観測。日本でいつもお世話になっているドクターの、優しくも、健康管理に関しては厳しいお顔が目に浮かびました。
 今回は、どうも先日手に入れたお気に入りのひざかけがやや固めで、風でめくれないようにとお尻の下に差し込んであった部分に圧がかかってしまったようです。体は正直ですね。

ベッドの上では、枕を積み上げて頭を高くし、お腹の上にキーボードを置いて割りばしで打っています(^^;)。 


<ひとり言>
 先日、観光ビザの60日間再延長にイミグレーション・オフィスへ行ってきました。昨年12月に移転した、新イミグレーション・バギオ出張所には、私の電動車椅子でも入ることができ、初めて委任状を書かずに、自分の手ですませることができました。
 
実は、その前の週に、移転場所を確かめに行き、介護者に申請用紙をもらってくるように頼んだところ(私は車の中で、車いすを固定してあったので)、オフィスから体格の良いおっさんが車の所までやって来て、「パスポート見せて。」と言われたので見せたら、「OK!大変そうだから、車から降りる必要はない。私が助けてあげるから…。ええーっと3,950ペソ、それに1,100ペソの追加料金だけだ。」…と言われた次の瞬間、そのおっさんの携帯電話が鳴ったので、これ幸いと私はそのままオフィスから離れました。1,100ペソは「イクスプレス(特急)料金」だったのでしょうが、5,050ペソ(約1万円)はいくらなんでも…。
 
1週間後、その時は車から降りて直接オフィス内に入ると意外と大きめのスペースに、韓国人らしい人が何人かいました。例のおっさんは、私がオフィス内まで入って来たことにギョッとした表情を見せながらも、今度は打って変わって私に近寄ろうともしません。受付の若い男性が申請を受理してくれたのですが、「イクスプレス料金」であろう1,000ペソを含めて「3,140ペソ(約6千円)」でした。そして、わずか10分余りで発行してくれました。
 
以前は、「イクスプレス料金を払うとすぐに(マニラでは約1時間後)出すことができるが…。」という打診がオフィスからあったのですが、今はもう当然のごとく請求され、もう料金の一部として組み込まれているかのようです。
 
それでも、約4千円得したような気分になった自分が、なんだか寂しく思えました。

 ちなみに、観光ビザを最大限どれだけ延長し、滞在できるのかを確かめると、やはり「2年!」でした。16か月を超える際には、その理由書(証明書)が必要になるようですが、それが通れば「2年」までのロング・ステイが観光ビザだけでも可能のようです。


フィリピン人介護士(ケアギヴァー・Filipino Caregiver)日本受入れ

2009-01-19 15:00:15 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)

 さて、一方のフィリピン人介護士(ケアギヴァー)に関してですが、これもまた看護師と同じように、受け入れる日本サイドが期待しているのは「介護福祉士」の資格を取ってもらい、「介護福祉士」を多く育てることよりも、介護現場で日本人介護員の補助的な役割を果たしてくれれば…、という程度の感覚なのでは、と想像されます。少なくとも、受け入れ当初は…。

 先日、『在日フィリピン人でヘルパー資格を取得した人がもう「千人」以上いるという事実!すごい数だと思います。』という記事を書きました。そのほとんどは、日本人男性と結婚し、日本で暮らすフィリピン人女性でしょう。ずっと日本で生活していて、日本語もある程度堪能で、日本の文化・習慣にもある程度通じている在日フィリピン人の人たちでさえ、取得した資格は「介護福祉士」資格ではなく、ヘルパー資格なのです。
 そのヘルパー資格も2級までで、「1級ヘルパー資格」を持つ在日外国人ヘルパーはほとんど見られないと思います。要は、インドネシア、フィリピンからの外国人ケアギヴァー(介護士)に、日本の資格取得を課すならば、それは「介護福祉士」資格ではなく、「ヘルパー2級」程度の資格で十分ではないか、ということです。もちろん、知識や技能はより高いに越したことはありませんが、大切なのは、様々な介護の現場で、どのくらい力を発揮できるかです。


 フィリピンでは、「ケアギヴァー課程」(介護士養成課程)流行りの中でもまた、「ケアギヴァー課程は出たものの…」就職できない人たちがたくさんいます。もっとも、初めから「6か月間」という短い課程を終えれば、海外へ「ケアギヴァー」として渡れる、という思惑の元にその課程を履修するのですから、それもまた看護師同様、海外へ出るための手段であったはずなのです。年齢に特に制限もなく、短期間で海外への道が開かれるのですから、多くの人が飛びつき、「ケアギヴァー課程」もここ数年間に多く産出されてきた訳です。ところが、そのカリキュラムがある程度の域に達している学校もあれば、「講義は週に一度、実習でも車椅子に触ったこともない…。」といった低レベルの学校もあるのです。
 海外へ履修生を輩出できるのは、一部の一流の学校で、ほとんどの学校は履修後「ケアギヴァー認定証」を渡して、それで終わりです。生徒募集段階では「あなたも6か月ケア(介護)の勉強をして海外へ行きましょう!」などというものの、実際には、そのケアギヴァー課程流行りを逆手にとった「ビジネス」の要素が強いのです。
 
もちろん、海外にいる家族、親せきの手助けで、また海外就労を斡旋するエージェンシーを通して等、実に様々なルートで「ケアギヴァー」として海外へ働きに出る人はたくさんいます。そこでうまくやっていける人もいれば、生活習慣の違いや。ケアギヴァーとしての知識、技能を問われ、解雇されることも少なくないようです。
 
イギリスは、ずっと以前からフィリピン人看護師を受け入れ、フィリピン人看護師にとっても憧れの国ですが、「フィリピン人ケアギヴァー」に関しては、フィリピン政府に対して「もっとプロとしての知識、技能を備えたケアギヴァーを!」と、ここ二、三年、受け入れを一時ストップしたり、養成課程のカリキュラムの充実や、養成期間の延長等を要請してきたりしています。「6か月間」のケアギヴァー養成課程が、「1年間」「2年間」の課程になるかもしれません。

(続く)


ほっと…ラ・ウニョンのビーチへ

2009-01-18 15:31:29 | フィリピン-バギオ

 今年に入って、バギオは記録的な寒い日が続いていて、先週はずっとニュースでも取り上げられていました。15日には最低気温「7.5℃」を記録。JANLからの情報によると、過去のバギオ市の最低気温記録は1961118日の「6.3℃」だそうです。

 でも、そのバギオ市内から来るドライバーが震え上がるほど、ここグリーン・バレーは寒い…標高差からしても3~4℃は低いでしょう。

 頸椎損傷の私の体は、体温調節が利きにくく、マニラにいた頃は、日中いつも体温が38℃を下回ることはありませんでした。バギオに来て、血圧は最高血圧値が30~40mmHg上がって「100-70mmHg」くらいに、そして体温も平熱に落ち着きました。ところが、ここ数日の寒さに体が敏感に反応し、冷や汗がよく出るようになりました。

 それで、昨日17日は、バギオを下り、お隣の「ラ・ウニョン州-La Union」南シナ海の海岸沿いで、少し自分の体をいたわってきました。
<写真> 南シナ海ラ・ウニョン州のビーチ

 バギオ市から「ナギリアン・ロード-Naguilan Road」を下ること約1時間半、「バゥアン-Bauang」という町に着くとムーッとした熱気。Tシャツの上に長そでトレーナー、マフラー姿がいかにも不似合な、久しぶりの南国の陽気でした。そこから少し北へと向かうと「サン・フェルナンド市-San Fernando City」がありますが、その間、美しいビーチリゾートがいくつもありました。エアコン・ケーブルTV付きの部屋(ツイン)が1泊約2500円から3000円ほどでした。
 
海岸線は、砂浜がずっと続いていて、ちょうど能登の千里浜海岸から能登半島を望んでいるような景色でした。しばらくそこで日光浴…(ちょっと異様かも…^^;)
 

 帰りは、マルコス・ハイウェイからバギオに戻りましたが、途中、パンガシナン州の湾に沈む夕日があまりに美しく…。

(左上にバナナの木の葉っぱ、手前に大きなシダ植物が見えます。)


フィリピン人看護師-Filipino Nurse

2009-01-16 17:52:33 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)

 海外へのフィリピン人看護師派遣の歴史は古く、その評判も良いというのは、やはり、そのホスピタリティあふれる国民性によるところが大きいのでしょう。もちろん英語が話せて、新しい環境への適応能力も高いということもありますが、大家族の中で自然と身についた他者への思いやりや優しさ、我慢強さ、南国育ちのおおらかさ…といったものが良いように働いているようです。

 ところが、ここ最近は、そのフィリピン人看護師を取り巻く状況も多少変わってきているようです。
 看護の人材が過剰で、「看護課程は出たものの…」行き先のない人が増えています。

 私は、マニラにいた頃、介護者を探すのに、たまに新聞の求人広告欄に「介護者募集」の記事を掲載(一行約2百円)しました。バギオに来る前の昨年8月、一度その求人広告を掲載したところ、「Wanted Caregiver」(ケアギヴァー募集)としたにもかかわらず、多くの看護課程出の応募者があったのです。看護課程を出ても、国家試験を通っていなければ未資格ですから、フィリピン国内であっても「看護師」として病院等で採用されることはありません。ですから、通常、私の所に応募してくる看護課程出の人は、まだ国家試験を通っていない未資格の人たちでした。ところが、その昨年8月のケアギヴァー募集広告に、以前はあまりいなかった正看護師の応募者が急に増えたのです。
 その時は、50件ほど応募の問い合わせがありましたが、「正看護師」の応募者2~3割(!)、「未資格」の看護課程出の応募者3割、「ケアギヴァー」の応募者が2~3割で、残りは「准看護師」「助産師」またはメディカル課程以外の応募者でした。

 看護課程を修了した後、国家試験を通るのも年々難しくなってきているのに、その国家試験をパスした「正看護師」の就職も難しくなってきているようです。病院やクリニックでの求人が少ないので、次に考えるのは「プライベートの看護やケア(在宅)」の仕事を探す訳です。

 でも、看護学校の実習以外に、看護職の経験が浅かったり、なかったり、というのはまだ「看護師」とは言えません。それに、看護学校卒業後、三年もブランクがあれば、看護現場への就職は技術的にも難しいでしょう。

 それでも、多くの人たちがハイスクール卒業後「看護課程」を選択するのは、それが最も安定した海外での就労の道だからなのでしょう。ハイスクールで成績優秀だった人たちが、家族の期待を背負って看護課程に進むのは自然な成り行きでもあります。

 その歴史あるフィリピン人看護師海外就労の状況も、現在の金融危機のあおりを受けているのは確かでしょう。
 また、一年半前のことですが、2006年6月の看護師国家試験での、「試験問題漏えい事件」により、欧米諸国のフィリピン人看護師への信用も多少落ちた感があります。

 看護師として海外へ出るのに、フィリピン国内での2~3年の実務経験が法律で義務付けられたのは、わずか四年ほど前のことですが、その時は、「優秀な看護師が海外に流出し、近い将来フィリピンに看護師がいなくなる」という懸念からでした。
 2005年度には、約千人の医師が、新たに看護資格を取得して海外へ出た、というデータもあります。その行先はほとんどが欧米なのでしょうが、フィリピンの医師資格があっても、欧米の病院では「准看護師」としてでしか働けない(!)からです。そのあたりは、はっきりと提示されています。だから、「医師」が「看護師」資格を取得し直して、海外へ出ようとするのです。そして、看護資格国家試験のレベルも上がっていきます。

 例年、フィリピンの看護師資格国家試験は6月と12月頃の二度実施されますが、昨年は11月29日、30日の二日間行われた看護国家試験に8万人以上が受験したそうです。そして、三ヶ月後の二月末に合否が発表され(遅い!)、約40%余りが合格する見込みです。


 
これは私の勝手な想像ですが、「外国人の看護師受け入れ」に関して、日本サイドが期待するのは、おそらく「正看護師」というより、「准看護師」レベルの人材なのではないでしょうか?
 インドネシアから、フィリピンから「現地の看護師」を受け入れ、日本語教育や現場研修を提供しながら、三年以内に日本の、日本語での看護試験にパスして、日本の医療現場で「正看護師」として働けるようになるインドネシア人、フィリピン人正看護師が、あなたには想像できるでしょうか?

 時間とお金を無駄に使うことを考えるならば、むしろ最初からきっちりと、外国人には「准看護師-Nursing aid」としての勤務を期待するなどと明示した方が、受け入れる側、送り出す側双方にとって、もっとクリアに、スムーズになるように思えるのですが…。


フィリピン人ケアギヴァー(介護士)と看護師

2009-01-13 20:39:55 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)

 まにら新聞によると、昨日12日、日比政府間経済連携協定(EPA)による、フィリピン人看護師・介護士(ケアギヴァー)の日本受け入れ規定に関する覚書がマニラで締結されました。これによって、日本サイドでは、医療・福祉施設など受け入れ機関の公募、フィリピンサイドでは、フィリピン人看護師・介護士の志願者の公募、候補者面接、それに続く候補者の日本派遣に向けた日程が大筋で決まったとのことです。
 フィリピンから看護師・介護福祉士候補者が実際に日本に入るのは、4月末から5月上旬の間となるようです。

 この覚書調印により目の前に迫ったフィリピン人看護師・介護士日本受け入れの話題は、フィリピンで最も大きなABS・CBNテレビ局の「TVパトロール」という夜のニュースでも「Trabaho sa Japan」(日本で仕事が…)というタイトルで、先ほど取り上げられていました。

「6か月の日本語研修の後で、看護師は3年以内に、ケアギヴァー(介護士)は、介護福祉士の資格を4年以内に日本語の資格試験でパスしなければならない。」という条件がかなり高い、と報じられていました。

 でも、その6か月の日本語・文化研修後、病院や介護現場での体験実習、勤務へと進んで行くのでしょうが、「看護師の月給7万6千ペソ(現在の通貨換金レートで約14万5千円)」、「介護福祉士の月給が5万7千ペソ(約11万円)」という金額に目を引かれたフィリピンの人も多かったことでしょう。現在円高という事情もあって、ペソ(フィリピン通貨)で伝えられると、こちらで暮らしている私にとっては、ずい分高額に感じられました。介護福祉士の月給でも、公にされているアロヨ大統領の月給とほぼ同じ!です。

 そして、今後、「あなたもケアギヴァーとして日本へ行こう」などというキャッチフレーズを掲げて、違法な就労斡旋エージェンシーや悪徳リクルーターが、ますます、さらに横行することが容易に予想されます。

  事実、日比間のFTA(Free Trade Agreement - 自由貿易協定)で、IT技術者とともに初めての人材受け入れが、日比政府間で協議され始めた数年前からすでに、「日本がフィリピン人ケアギヴァー(介護士)受け入れへ!」という情報を利用し、詐欺まがいの行為で儲けようとした、多くの名ばかりの「日本行きケアギヴァー養成学校」がフィリピンの全国至る所にできました。

 実際に正規のルートで日本に行ける見込みは、今年と来年とで「看護師400名・ケアギヴァー(介護士)600名」の千人が最大限ということです。誰でも日本へ行けるようなうまい話に乗って騙される、授業料だけ巻き上げられる、という被害者が今後ますます増えることでしょう。

 ちなみに、この「TVパトロール」ニュース番組は、夜6時半から8時までの約1時間半で、この「フィリピン人看護師・ケアギヴァー受け入れに関する覚書調印」により「志願者の公募がすぐ始まる」という話題は、ちょうど7時半(約1時間後)に、約2分間取り上げられました。


バギオの聖なる地にて-成人の日に。

2009-01-12 12:01:22 | フィリピン-バギオ

Congratulations on your Coming-of-Age!

I wish you a good health of body and mind, good fortune, and happy life…

May God bless you and loves you always.

 

<写真> バギオ市Lourdes Grotto(聖なる地)の聖母マリア像
     1907年に建てられた由緒あるマリア像だそうです。

     100段くらいの階段を登った所にあります。
     スロープもちゃんとありました。ご心配なく…。
    (
12日撮影)

 
  この写真は、イゴロット民族の人たちと…。
 私のひざかけは、このイゴロット民族のブランケットです。

 (JANLのSasaki-san, Salamat po for your information about this blanket.^0^)