アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

早咲き「大漁桜」-故郷の桜に向かひて言ふことなし

2009-03-31 17:51:27 | フィリピン-バギオ

 これは、先日、「金沢のサクラ」さんが送ってくれた、母校金沢桜丘高校のめずらしい「大漁桜」の写真です。彼もそうですが、同期生の卒業25周年を記念し、8年前に植樹されたものだけに、薄いピンク色の花が可愛く、愛らしく感じられます。大漁桜は、河津桜と並んで早咲きの品種で、この写真も3月18日に撮られたものです。校舎やグラウンドなど、懐かしーいスポットの写真を20枚も送っていただきました。
 
私の学び舎は、保育園以降大学まで5つの中で、当時の姿をとどめているのはこの高校の校舎だけです。あとは、みな新築されたり移転されたりで、写真と自分の記憶の中にしかありません。
 
本当に「サラマッポ!」(Salamat po!-ありがとうございます。)
 
(生徒玄関と大漁桜…この日は合格発表の日だったんだね。)

 「ありがとう」といえば、NHKの連続テレビ小説『だんだん』が終わり、昨日から『つばさ』がスタートしましたね。松江と京都を舞台とした『だんだん』のストーリーも面白かったですが、その音楽(村松崇継さん-たかつぐ)もすばらしいと思いました。ラストシーンの『いのちの歌』に胸が熱くなりました。
 余談ですが、「つばさ」は、私が教員になった初年の学級の学級通信の名前です。また、かつて多摩市(東京)でお世話になった、障害者の自立支援活動をしているNPOグループも「つばさ」でした。

 その金沢の初任校(小学校)の6年目に、私は3人の若い同僚と4年生約160名を受け持ったのですが、その時その学年の児童だったアライ君という男性が、数日前に突然私を訪ねてくれました。担任ではなかったし、23年も前のことですから、当時の面影も遠い記憶の中でうっすらと…。彼は、私のことを覚えていたばかりか事故で車椅子の生活になったことも知っていたそうですが、今ステイ中のダバオで、たまたま私の知人から、私がダバオで生活していたこと、そしてこのブログについて知り、何とミンダナオ島のダバオから、ここルソン島北部のバギオまで、高速バスとフェリーを乗り継いで、3日かけて訪ねて来たのでした。「ふるさとの なまりなつかし ていしゃばの…」。

 

 私の住んでいるグリーン・バレーでは、雲の中に入っていく不思議な体験に「オーッ!」と。チキンカレーにバギオの高原野菜のサラダをごちそうし、介護者たちと歓談しながら大相撲も見ました。「山本山」が「黒海」に、立ち合いでパ-ンと右ほほを張られた時、思わず介護者が「アライッ!」(Aray!)と叫び、アライ君は「はい!?」と返事をして大笑い…。「アライ」とはタガログ語で「痛い」という意味で、黒海の張り手があまりに強く「痛い(痛そう…)」と叫んだのでした。
 
昨日はお天気にも恵まれ、私自身3週間ぶりに車で外出、バギオの観光スポットや日本と関わりに深い場所をいくつか案内しました。
 
日本庭園で待ち合わせをし、まずはマインズ・ビュー(Mines view)で美しく連なる山々を見ました。二人の介護者もにわかツアーガイドになり、一緒に楽しんでいたようです。
 
それから隣町のラ・トリニダ-トまで足を延ばしました。ストロベリー・ファーム(イチゴ農園)や高原野菜の広がる観光スポットですが、ここも戦前は多くの日本人が農園を開拓、指導し、地域の発展に貢献した場所でもあります。
 私が以前来た時に入った、そのすぐ近くのレストランでランチタイム。そこのチャプスイという、新鮮野菜たっぷりの料理が美味しくて安いのです。約120円で、2~3人分はあるボリュウムです。アライ君は、それ以外にも、作りおきの十数種類の料理の中からいくつか選んで食べていましたが、どれもこの地方のイロカノ料理だったようです。はじめ豚足かと思っていたら、イロカノ出身のジェンさんによると、豚の顔(ぶ厚いスキン)入りのスープだそうで、歯のついたあごの部分もあったとか…!?それと豚のレバーの煮込み料理。極めつけは、やはり豚の顔の「耳」「鼻」「口」のコリコリ(?)した部分を、何と豚の脳ミソとこちらの甘―いマヨネーズで和えた「Dinakdakan- ディナクダカン」という料理!ジェンさんも少し食べたようですが、ビサヤ出身のマリアさんはちょっと…。時々お腹をこわすココナッツミルクだとばかり思っていた私は、全く興味がありませんでしたが…。
 最初、彼の体力に驚いた私は、そこで彼の食欲と、そして何よりその勇気に驚かされたのでした。

 

 まだ私の床ずれも持ちそうだったので、その後、ラ・トリニダードからバギオ市内に戻り、ジョン・ヘイ・キャンプに向かいました。太平洋戦争の、フィリピンにおける始まりと終わりとなった場所を、彼にも見せたいと思ったのです。市内からそこに通じる、松林に囲まれたロアカン通りは、まさに金沢の「奥卯辰山公園」そのもの、彼にも大ウケでした。(ローカルな話題です。)
 
そして最後に…「ケノン道路」。百年以上も前に、建設に従事した多くの日本人が犠牲となった難所を案内しました。
 
多少急ぎ足でしたが一通り案内したい所は回り、夕方、バギオ大聖堂まで彼を送った後、私たちも帰途に就きました。
 4泊5日のバギオ旅行を終えたアライ君は、明日ダバオに戻るそうです。
 Take care!


もう一つの「卒業式」-障がい児通所センターNTC(ダバオ)

2009-03-30 08:55:00 | フィリピン-ダバオ

 以前にも一度記事にしましたが、ダバオ市にある障がい児(スペシャル・チルドレン)通所センター「NTC」は、私がダバオにいた4年間、ずっと関わらせていただいた思い出の詰まった場所です。

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/e84f189a2e0d520a8aa0d22f074999b8

(以前のNTCに関する記事)

 ダバオ市内で、やはり障がい児にリハビリを提供しているマハリカ基金とともに、毎年この時期に「修了式-Recognition ceremony」がとり行われます。言ってみればそこの卒業式ですが、一年に一度、そこに通った全員に修了証書が渡されるので「修了式」といった方が良いでしょう。
 
(2004年の修了式-5年前の今日3月30日)
…私は初めての参列でしたが、ゲストスピーチを頼まれ、日本の障がい者支援制度が整ってきたのも、それほど昔の話ではないこと、当事者である障がい者が声を上げないと当局は気づかないこと等を、家族にも分かってほしいと思って話しました。(ああ、その日はちょうど運賃の値上げを要求してジプニーの運転手の協会がストライキをしていた日でした。)
 フィリピンでは、障がい者・障がい児に対する公的な支援は、私の知る限り、施設はありますが、個々人へは「ほぼ無い」と言ってよいでしょう。「あなたは、日本人でよかったわね…(障がい年金をもらえて)。」とよく言われます。以前、ケソン市でこちらの下院議員の方にも会ったことがありますが、「日本と違ってフィリピンは予算不足でそこまでお金が回らない…。」と言う彼には、何人か秘書兼ガールフレンドがいるとのことでした。フィリピンは、大家族が多いですから、誰か家族の一員が病気やけがの後遺症が残ってケアが必要となった時には、手の空いている人(必ずいます)がお世話をすることが多いようです。あとは、基金や福祉団体、海外のNGOなどによるサポートも少なくありません。
 ただ、このNTCに関しては、理学療法士で設立者のベィブスさんが個人で立ち上げるまでは、ほとんど家から外へ出る機会がなかった子供たちでした。学校へも行けず、リハビリを受ける余裕もなく…。2004年修了式のこの写真では、まだ人数は少ないですが、その後毎年児童の数が増え、場所とスタッフの確保に翻弄されていました。そして、大きな暖かい人の輪、コミュニティが作られ、障がいを持つ子供たちも家族も安心して溜まれる場所ができたのです。そこは、戦前、そこにいた多くの日本人が「人がたくさん集まって栄えますように」という願いを込めて「民多溜」(ミンタル)という地名をつけたところなのです(ダバオ市郊外)。

 この2004年の修了式も、フィリピン最大のショッピングモールグループのSM(シュー・マート)ダバオ支店が、2階の大きな「エンターテインメント・プラザ」という広い会場を無料で貸してくれました。なかなか買い物にも来られない障がい児と家族たちは、朝からおめかしをしてモールにやって来て、お昼過ぎのその式に出席するのです。
 
私自身も、そういう事情もあって、SMのメンバー(全店共通)となり、買い物もそこでするように心がけていたものです。SMダバオも、その時は、まだできて間もなくで、駐車場には障がい者用のスペースが設けられ、どの入口にはスロープもありました。中の通路やスーパーも広めの空間で、とても心地よく感じたものです。「障がいのある方を優先して下さい。」と書かれたエレベーターもありました。人と待ち合わせるにも冷房が利いていて(利き過ぎていた)、「SMで昼食を…」(ティファニーならぬ…^^)という約束をよくしたものでした。
 
しかし、私がダバオに移り住んだ、今から6年前には、そんなSMダバオでも車いすの利用者はほとんど見かけず、チン・コントロール式(あごで操縦)電動車椅子を使っている私には、臆面もない人々の視線を感じたものです。障がい者用の駐車スペースを一般客が利用し、エレベーターの前で待っていても後から来た人たちがぞろぞろと入って、次の、次のまた次のを待たされたりもしました。しかし、そんな事情は、私が文句を言った訳ではないのに、すぐに改善されました。障がい者専用の駐車スペースには、一般の人が駐車しないようにロープが張られ、エレベーターガールは、マナー知らずの客に「ちょっと待って下さい。」と言えるようになり…。その後、次第に、障がい者、車いす利用者だけでなく、多くのお年寄りやベビーカーの親子を見かけるようになっていきました。

 今年も、さぞ多くの人たちが見守る中で、NTCとマハリカ基金の障がい児の修了式が行われたことでしょう。


戦争の記憶と心の傷跡-フィリピンにおける太平洋戦争

2009-03-29 15:01:08 | フィリピン-バギオ

 私の父方の祖父は、1945年4月、このフィリピンのバギオ辺りで戦死したそうです。切り花農家で穏やかに暮らしていた祖父は、赤紙(召集令状)一枚で、激戦地フィリピンに赴き、パンガシナン州リンガエン海岸に上陸後、バギオに向かう途中で戦死したと祖母に聞かされています。もちろん、それも死亡通知だけで、遺骨も遺留品もありません。
 戦争の傷跡、犠牲といったものはあまりに大き過ぎます。

  2005年の東京国際映画祭で上映された『愛シテ、イマス。1941』というフィリピン映画のクライマックスの場面(ごく一部)を、最近たまたまテレビで見ました。フィリピンゲリラのスパイとして、女装し旧日本軍に潜入、情報を提供していたフィリピン人のゲイ(同性愛者)が、日本人将校のイチロウに恋をしてしまい、スパイとしての責務とイチロウへの恋との間で葛藤する、といった内容の映画らしいのですが、そこで描かれている旧日本軍の行為が目を覆いたくなるほど残酷なものなのです。日本の軍人もフィリピン人が演じていますから、言葉の微妙なニュアンスの違い、また、事実が多少誇張されて表現されている部分はあるにしても…。
 その映画は、リヴィングでテレビを見ていた二人の介護者が「アーイ…」と大声をあげて騒いでいたので、何があったのか尋ねると「バクラ(ゲイ-おかま)が日本人男性(イチロウ)と抱き合っている、終わりに近いシーンだったのです。が、その後、二人とも黙りこくってしまうほど悲惨な場面が流れていきました。そして「アナタも、ニホンジンね…。」と…。
 以前も、こちらのテレビで「オトウサン」という映画で、フィリピンの戦争孤児(男子)と旧日本軍将校の間に築かれていった、本当の父子関係のような絆が描かれていたのを見ましたが、その映画の冒頭の旧日本軍の行為はあまりに残虐でした。
 フィリピンでは、旧日本軍の占領下にあった「4年間」は、今でも、歴史の生き証人によって、映画だけでなく、いろいろな形で伝え継がれているのです。

 ここルソン島バギオ市は、真珠湾奇襲と同じ12月8日(1941)に、ジョン・ヘイアメリカ軍基地への空襲が始まり、1945年9月3日に山下奉文(ともゆき)陸軍大将が降伏した地でもあります。太平洋戦争の、フィリピンにおける始まりと終わりの地なのです。
 フィリピンでその財宝の行方が何かにつけ話題とされる山下陸軍大将は、戦時中の彼の行いに対する自責の念と自由を尊び平和を追求する新しい日本に対する理想を伝えるべく、遺言を残したとのことです。
「日本人が、(来るべき)自由社会の中で倫理的判断に基づいて義務を履行すること」「人類を破滅に導く科学ではなく、人類を不幸と困窮から解放するための手段としての科学の追求と教育」「人間教育における母(家庭)としての役割」の大切さ等が書かれているそうです。
 
そしてまた、日本の新しい女性像が次のように希求されています。
「平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。」
 ファッシズム、全体主義とは何かを考えさせられる、ずしっと心に響く言葉です。「自由は、誰からも侵され奪われるものではなく、それぞれが、自分からそれを放棄しようとする時にのみ消滅する…。」
 それでも、太平洋戦争は勃発し、多くの悲劇を生みました。111万人のフィリピン人が命を落とし、フィリピンに派兵された日本人64万人のうち、約50万人が戦死したそうです。

 
(バギオ市の日本庭園でお参り-Japanese Friendship Garden)

 今日は、私の祖母の命日です。ご冥福を祈ります。
 祖父の戦死後、残された祖母は、悲嘆にくれながらも強く子供たちを育て、63年間戦争未亡人として、その生涯を全うしました。いつの時代でも、戦争の犠牲になるのは何ら罪のない一般市民なのです。

 先日『プーチンのロシア』というNHKスペシャルで、先の北京オリンピック開催中にロシア軍がグルジアに侵攻した時の事実と、その後のグルジアの大打撃と将来への葛藤(欧米側に付くかロシア側に付くか)について報じられていました。その中で、グルジア人の子供たちが、学校で涙をこらえながら作文を読んでいました。
「青い空に突然戦闘機が現れ、たくさんの爆弾が落ちてきました。私は夢かと思いましたが、本当のことで、逃げ回りました。」「あっちこっちで人がたくさん死んでいて…。」と、その様子がよみがえってきて、読むのを続けられなくなりました。その女子の作文のように「突然」、「思っても見ず」、平和な日常が破壊されるのが戦争なのでしょう。

 今、北朝鮮は、長距離弾道ミサイルを「人工衛星の実験」などとして発射台に設置していますが、一週間ほど前に国営放送の女性アナウンサーがいつもの強い口調で「我が国の人工衛星が撃墜されるようなことがあれは、それはすなわち戦争を意味するものだ。」と言っているのを聞いてぞっとしました。
 一体、いつになったら…。


フィリピン残留日本人-今もなお戦争の爪痕が…。

2009-03-28 20:54:24 | フィリピン-バギオ

  25日「フィリピンの日系二世の方6人が、東京家裁の出した、日本の戸籍記載不許可決定を不服として東京高裁に抗告。」というニュースがありました。
 太平洋戦争以前の、平和でフィリピン社会の繁栄にも貢献してきたであろう日本人移民の父親と、フィリピン人の母親との法律上の婚姻関係を裏付ける証拠がない、というのが最大の決定理由だそうです。

 しかし、フィリピンには中国とはまた違った特別な事情と歴史的な背景があります。太平洋戦争前後の混乱で戸籍に記載されなかったことや、戦後も、旧日本軍に徴用された日本人、日系二世の人たちは、反日感情による日本人迫害、報復という極めて厳しい環境の中で、日本姓を隠し、日本人の血筋であることを証明する書類や写真等もすべて処分せざるを得なかった、そうしなければ生き延びることさえ難しかったのです。
 戦前、多くの日本人が移住し、地域社会に貢献していた平和な日本人コミュニティが存在したミンダナオ島ダバオ市、そしてここバギオ市においても、日系人二世、三世、四世…の人たちが、堂々と日本姓を名乗ることができるようになったのは、つい最近のことなのです。バギオ市のお祭りのパレードに、日系人や日本人の一団が参加すると、地元のイロカノ語で罵声が飛ばされた、ということもつい数年前まであったそうです。
 だから、戦後63年以上経過した今でも、フィリピンには歴史の中で取り残され忘却されつつある残留日本人の問題がくすぶっているのだと思います。

 今回の「子供の頃に覚えた漢字が書ける、日本の歌(小学校唱歌・愛国行進曲)も歌える…。」という日系二世の6人の方の訴えを、確たる証拠が必要…と杓子定規にとらえて判断されたこの日本戸籍記載不許可の決定は、東京高裁で覆されることでしょう。そうでなければ、あまりに悲しすぎる…。6人の方は、当然、皆かなり高齢です。今回のような不許可決定は初めてのケースだそうです。

 そうした、戦時中、戦後のフィリピン社会において、日本国籍未取得の日系二世の支援活動をされているのがNPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(通称PNLSC)」です。現地で活動されている方のお話を伺ったこともありますが、その当人のところに赴き、記憶も薄くなりつつある高齢の方の話を聞き、証拠となり得そうなものを探す…。それは、地道で根気のいる、大変な作業だと感じました。
 
フィリピンの日系人、残留日本人の歴史的経緯と実情の研究が大変詳しくまとめられています。↓(このページから)

 http://blog.livedoor.jp/japanese_pioneers/archives/27555011.html

  

 昨日はお昼過ぎから、久しぶりの豪雨でした。周囲の音もかき消されるほどの激しい雨が2時間ほども続きました。そして、「ドカーン」「ズシーン」といった鈍い雷の音も、すぐ近く…というより周囲の至る所に響き渡っていました。
 日本では思わぬ春の寒波の到来に桜の花も戸惑っているようですが、天気予報では、ここバギオでも、この時期には珍しいまとまった冷たい雨が2、3日続きそうです。


卒業シーズンに…。ダバオの「ヤギ幼稚園」

2009-03-26 18:38:35 | フィリピン-ダバオ

 ミンダナオ島のダバオ市には、日本フィリピンボランティア協会(JPVA)の副会長八木さんが、20056月に開園された「ヤギ幼稚園」があります。今日は、その4度目の卒園式だったそうです。
「おめでとうございます!」 私は、開園式以来、卒業式にもよく参列させていただきましたが、可愛い園児たちの旅立ちのセレモニーに、キョトンとしている園児たちの隣で、保護者や先生とともに涙を流したものです。

<写真> 2年前の教会内での卒園式(私がダバオを去る直前です。)

「そこでは、女性、母として、そして栄養士としての、八木さんの行き届いた教育理念が伺える。園児への指導だけでなく、保護者、家庭に対しても何を求めていくかをはっきりと示し、特に食生活の見直しと改善を提唱されている。そうした家庭への啓蒙活動も、幼児教育と共に周囲に大きな影響を与えていくことだろう。」
拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻より抜粋)

 
(以前、八木さんが送って下さった東京の夜桜-2006年4月1日)

  明日は、ミンダナオ国際大学(ダバオ市)の4度目の卒業式です。

 卒業と言えば、昨年、私の家族の病気見舞いに、急きょ日本に同行してくれたサラさんから、先日連絡が入り、家庭の事情で休学していた大学の看護課程を無事に卒業したそうです。よかった…。
 日本滞在中には、たまたまUFOを撮影し、テレビ局の電話インタビューを受け…。小松明峰高校で「人権講話」の時間に話をさせていただいた時も、最後に「日本からフィリピンに3つだけ持って行けるとしたら何を?」という質問を向けられ、「キモノ、サクラ・ツリー(桜の木)、そしてハンサム・ジャパニーズ・ボーイ」と茶目っ気いっぱいに答えていました。
 彼女の場合は海外にいるおばさんのところで、その国の看護国家試験を受け、うまく行けば、そのままそこで働きたいと言っていました。
“Congratulations and good luck!”


「どこまで続くぬかるみぞ」…ああ、グリーンバレー

2009-03-25 22:37:42 | フィリピン-バギオ

  今の日本経済を象徴しているかのような言葉ですね…。

 しかし、私にとっても、先日来のこの深夜騒音が一体いつまで続くのやら…と怒り心頭です。介護者二人もよく眠れず、やや疲れ気味…。
 昨夜、というか今朝も、下手なカラオケをマイクの音量を上げて歌いまくる女が二人…くらい。今度はお隣の2階の部屋からです。この一家は、このコンドミニアムのユニット(部屋)を4つは持っているようで、かなりの人数が4部屋に分かれて騒ぎまくっています。せめて、バギオ市の条例に従って「夜10時までにしてよーっ!」と淡い願いもむなしく…。いつものように上の部屋の赤ちゃんが泣き出しても気にする気配もなく…。

 このバギオ市のグリーンバレー(緑の谷)という所には、家から歩いて(上って)約10分の丘の上にクラブハウスがあり、ホテル並みの宿泊施設や、プール、ビリヤードにテニス等娯楽の場も備えられている、ちょっとしたリゾートのようで、4月第2週のホーリー・ウィーク(Holy week-聖週間)は予約でいっぱいだそうです。このクラブハウスの2階で、多くの韓国人やわずかな日本人が英語を学んでいるようです。(階段が多く、私の電動車いすでは中には入れませんが…。)
 
ここは、「Green Valley Village & Resort」という名前の通り、グリーン・バレーの住宅地とちょっとしたリゾートが同居しているのです。
 
卒業シーズンが終わって、6月初めまでの長い、長い夏休みには、かなりのにぎわいを見せるようです。

 それはよいのです…。私もにぎやかな雰囲気は好きですから…。問題はお隣のマナー知らずの一族…。もう、怒りを通り越してただ笑っちゃうだけです。 

 
この写真右下が、私が借りているコンド・ユニット。深夜に騒音をまき散らしているのは、その奥隣二部屋とその上…です。)

 今借りているコンド・ユニットは大家さんが私に古くからの友人で、52㎡と狭いこと以外にはそれほど問題はありません。耐震設計なども気にされず、また防災や防音の設備が施されておらず、上の部屋の音などかなり響いてくる、古い建物です。携帯やネットの無縁モデムのシグナルが弱いことなどはそれほど大きな問題ではありません。
 が、実は、1週間ほど前に大家である友人の秘書に、4月末に切れる賃貸契約を1か月だけ延長させてもらい、それ以降は賃貸契約を更新しない旨伝えました。雨季に入る5月末頃までここにいて、それまでに次の住み家を探すつもりです。友人は、3月から7月までずっとスペインに滞在中。このユニットを出るのは残念ですが…。
 思えば、10月中旬、一番寒い時期に入るバギオに移って来たのですが、やはり、ここグリーン・バレーの乾いた寒さは想像以上でした。

 そして、昨年11月と今年の1月に、自分の不注意で二度も床ずれを作ってしまい、バギオでの五か月間のうちほぼ三ヶ月はベッドの上が中心の毎日…。今の床ずれは、できてからもう二か月にもなりますが、発見が遅れ、実は「皮膚」ではなく「皮膚の下部組織」が壊死した状態、「ロウコウ」と呼ばれる「穴」なのです。これまで、自分の経験や以前かかった医師に助言されたことに従って体位交換と処置を続けてきましたが、一度、マニラで、フィリピンへ来た当初診てもらっていた友人のドクター・ジュンを訪ねて相談に乗ってもらおうと思います。
 今、私の生活に関わってくれている介護者の一人ジェンさんは、卒業したマニラの看護大学でジュン先生の講義を受けた、と聞いてまたびっくり!世間は狭く、不思議なご縁があるものです。
…という訳で、早ければホーリー・ウィークの前にも一度、マニラのケソン市を訪ねてこようと思っています。

 今のぬかるみ状態のような自分の生活から、何とかして抜け出さねば…。

<つぶやき>
 
愚痴も…やはり出ます。が、前回の記事など読み返すと、やっぱり恥ずかしいし、情けないね…。(ハアーッ^^;)ああ、ウルサイっ!


春分の日の真夜中の不愉快な珍事に気分はダーク…。

2009-03-21 13:00:57 | フィリピン-バギオ

<写真> 時にはこんな夕闇も(不気味)…。家の前庭-2月撮影

 20日の真夜中のこと…。大声で騒ぎまくる連中に目が覚めました。
 私の住んでいるコンドミニアム1階の部屋に、どこからともなく大勢の騒々しい大声が飛び込んできました…。午前0時の少し前、介護者二人もさすがに目を覚ましたようです。
 しばらく我慢して眠ろうとしましたが、とてもとても…。とても「まともな」人たちとは思えません。タガログ語(イロカノ語?)とも英語とも韓国語とも分からないような、聞き取りにくいグダグダの叫び声が、静寂な夜のとばりを打ち破りました。
 一人の若い(?)女が、叫ぶように、とても上手いとは言えない歌を歌っていました。そのうち、私のユニットの上の階の乳児がいつものごとく泣きわめき始め、そのさらに上の3階の、2~3人の韓国人男子学生が大声で何かを話し始め…。最悪の事態になったはずですが、近くにいるはずの3人のセキュリティ(警備員)は、注意も何もしていないようで…。
 そのうち、午前1時半頃に、その大声で歌を歌っていたであろう若い女が狂ったような奇声を発し、怒っているのか、泣きわめいているのか分からない、何とも動物的な叫び声に、何かただ事ではないことが起きたのでは…と胸騒ぎがしました。
 夜勤のマリアさんがドアを開けて外の様子を見ているような気配…。彼女を呼んで、何が起きたのか尋ねると、どうも夕方着いたお隣さん一家のようで、かなり飲んだくれ奇声を上げているその女は、一人の男に抱えられながら、コンドミニアムの横の階段を上がっていったとか…。通りすがりに、家の入口で様子を伺っているマリアさんに気付いた彼女は「エーッ、ナニヨー?」っといった感じで泥酔状態。「警察を呼ばれたら困るじゃんか…。」と男がその場から彼女を連れ去ったそうです。サリサリストア(雑貨屋)にビールを買いに行ったようで…。そのうちにジェンさんも起きてきて、二人であきれ顔…。

 いつも、このお隣一家は、週末などに2~3泊して、またいなくなるのですが、必ずと言っていいほど真夜中から明け方にかけて騒ぎまくるのです。
 10月中頃にここへ越してきた私が、初めてその一家の節度のなさに気付いたのは、確か万聖節(こちらのお盆)前のハロウィーンの日。深夜2時過ぎ、突然大声で叫びながら家の前庭の遊具で遊び始めた大人たち。到着するや否や(?)ビールを飲み始め、ブランコやシーソーで大騒ぎすること一時間以上…!よく眠れずに明けた朝、介護者に頼んでその不愉快な出来事をコンドミニアムの事務所に報告してもらいましたが、「ああ、あのユニットの大家の息子たちね、きっと…。」とさらりとかわされたようです。
 その2日目の真夜中には自転車なんぞを乗り回してやはり午前2時頃まではしゃぎまくり、3日目の深夜には何やらジャラジャラという音とともに時々「ギャーッ!」「アーイ!」と歓声が…マージャンです。いつも酒が入るらしく、とにかく声がでかいのです。

 それ以降、その一家がやって来ると、私たちは覚悟を決めて、ただひたすら耐え忍ぶことにしているのです。聞くところによると、アロヨ大統領出身地のパンパンガからやって来るようです。そして、事務所に、介護者を通してその苦情を報告して以来、私は事務所から「騒々しいのが嫌いな人」…と見られるようになり、「クリスマスはかなり賑やかになるから、どこかへ避難したら…?」とまで言われる始末。あきれて、「そういうことじゃない…。」と反論する気にもなれない私たちでした。その事務所への苦情は、どういう形でその一家に伝わったか知りませんが、その一家も私の存在が煙たいようです。

 さて、今朝も、まだ夜も明けないうちからまた大声で何事か叫んでいましたが、お昼の今もまた、ブランコに乗りながら奇声を張り上げて下手な歌の大合唱…。どういった家族かは知りませんが、大金持ちで、周囲の迷惑など考えもしない、身勝手な人たち、まともでないことは確かです。「Money is power.」…金がすべて、金で世の中をどうともできる、といった感覚の人たちです。そのことを、家族十数人の誰一人気付かない、奇声の歌声が近所迷惑だと注意しない、その一家にはそれが当たり前なのでしょう。
 しかし、その真夜中の騒音に対して、周囲の誰一人として文句も言わないというのは、よほど力を持つ一家なのでしょうか。フィリピンではよく、警察とコネがある実力者(?)であれば、たとえ嫌いな奴を葬り去ったとしても、わずかなお金を握らせ、事件をも闇に葬ることができる、と聞きます。
 
私も、自分の身を守るために「黙認」というより「無視」するように心がけています。運悪く、相手が薬漬けの頭のいかれた連中であればそれで終わりです。

(…でも、こういう人たちは、フィリピンであればどこへ行っても多少はいるものです。そして、周囲もさほど気にかけないようです。)

 ちなみに、バギオ市には、「カラオケ等による騒音は夜10時までとする。」という、他にはない市の条例があるのですが…。

…今夜に備えて午後は少し昼寝したい…が、外がうるさくて無理そう。
…という訳で今日の気分はダーク。
…この記事を読んでダークな気分になった方がいたら失礼しました。


桜前線に異変-春分の日に。

2009-03-20 18:07:52 | フィリピン-バギオ

 日本では桜の開花宣言が相次ぎ、映像で「美しい日本」(どっかで聞いたような…)の風景が見られます。考えると、生のサクラの花は、ここ11年間見てないなあ…。

<写真> 「金沢のサクラ」さんが送ってくれた犀川沿いの桜並木
         (2007年4月1日)

 ところが、その日本の春を象徴する美しい桜の木にも、地球温暖化の影響がはっきりと出てきている、と先日NHKのニュースが報じていました。
 太古の昔から(?)、桜前線は南から北上するのが常でしたが、ここ近年は、東京や名古屋といった大都市が鹿児島等よりも早く開花するそうです。都会のヒートアイランド現象によるようです。そして、桜が芽吹くのには、冬の厳しい寒さが必要ですが、それも温暖化の影響で芽吹きがうまくできないこともあるとか…。
「冬来たりなば春遠からじ」という言葉が将来なくなる…ことはないにしても、日本の温暖化対策も急がれるところですね。人も、人生の苦境、厳しい時期にあっては励みになる言葉ではありますが…、今は何とも厳しい時代ですね。

 バギオは、日本が冬の時期には同様にかなり気温が下がります。今年1月には記録的な最低気温7℃という日もありました。今年サクラが植樹されると、開花するのはその寒い時期を乗り越えた2月末~3月初め頃でしょうか?ちょうどフラワーフェスティバルで盛り上がる時期ですね。

 
(クロアチアの友人が送ってくれたSAKURA-2008年3月22日)

 ところで、今日は春分の日…。太陽が赤道上を通過(!?)します。
 バギオは北緯16度20分ですから、計算すると5月22日あたりに、南中高度が90°に…、つまり正午には太陽が真上を通過することになります。夏至(6月21日)を過ぎてから太陽は再び南下し(?)、7月20日頃、もう一度真上を通るはずです。これも、日本では体験できないことの一つです。
 
フィリピンも今は卒業シーズンですが、その後サマーシーズン(盛夏)に入り、6月初めまで学校等は長ーい夏休みとなります。ヒートアイランドで、マニラはかなり暑く、お金持ちや政府機関の一部も、避暑のためにバギオに移ってきます。

<異変と言えば…>
 
昨日の夕方6時(日本時間)のNHKニュースで、WBCサン・ディエゴ・ラウンドの敗者復活戦で、日本がキューバに快勝した試合が…。
 
いつもは「Due to copyright reasons, we cannot broadcast the images.」(放映権の理由により映像はお届けできません。)という文字とともに静止画となり、映像は見られなくなるのですが、そのニュースでは(初めて)映像も流されたのです。イチローの久々の快打(3塁打)に感激!
…ひょっとしてNHKワールドの技術班が誤って映像を流した?とも思ったのですが、その夜のニュースでも映像が見られました。「ラッキーッ!」

 今日も韓国に6-2で快勝。今日の打のヒーローは小笠原!次はいよいよ23日に準決勝アメリカ戦ですね(\^^/)。…「Win!
 チームJapanがチームの枠を超えて一丸と…。「すてき」です。
 政治家も、党派を超えて今の経済危機を…という訳には、…いきませんね。

 ちなみに、余談ですが、今調べたら、NHKの年間予算は、フィリピンの国家予算の約4分の1(!)にもなるようです。
(フィリピンの2009年度予算は約2兆8千億円)


インドネシア人介護福祉士候補者はどうして帰国したのか?

2009-03-17 16:07:11 | フィリピン人看護師・介護士(Caregiver)
   今朝のNHKニュース「おはよう日本」で、介護の現場で研修中の3人のインドネシア人介護福祉士候補者の様子が取り上げられていました。8月7日に初めて日本に来て七か月余り…。日本語も上手に話し、お年寄りの入所者への接し方に戸惑いながらも、慣れない土地で必死に毎日を過ごしているのが伝わってきました。入所者の感想もまずまずといった感じでした。これまで、インドネシア人介護士による事故等の報告はまだないそうです。

 それにしても、8月に来日したインドネシア人看護師と介護福祉士候補者は、現地での公募の遅れなどにより、定員5百人の半分以下の「208」人という数でしたが、それが今残っているはわずか百人余りとは…!?
 今まで日本に残り、介護の現場に出ているインドネシア人の様子もさることながら、途中で断念し(?)インドネシアに帰ってしまった人たち約百人が、どういう理由で帰国したのか、または帰国せざるを得なかったのか、それを知りたい気がします。それをはっきりさせることで、今後、フィリピンや他のアジアの国から看護師や介護福祉士候補者を受け入れるにあたり、様々な問題点がより浮き彫りになるはずです。

 フィリピンからは、もう一か月半もすれば多くの看護師、介護福祉士候補者が来日する運びですが、こちらもかなりの応募者の中から、応募条件を満たし、最終面接をパスしたのは、やはり定員割れの四百数十人だったようです。それでもインドネシア人の2倍以上の人数です。受け入れ体制は本当に整っているのだろうか、と心配になります。

 今朝は、介護に関してもう一つ話題がありました。
 
厚生労働省はこの4月から、介護保険制度の要介護認定の判定基準を見直す予定ですが、その見直し原案を、利用者団体等からの反発で、もう一度見直す(修正する)ことになったそうです。
 
厚労省の見直し案では、例えば寝たきりの人は「移動する機会がない」から「移動介助の必要度が『なし』」と判定される(!!!)、認知症の人が一人で買い物をする場合も「介助の必要度なし」とされていたそうです。ひどい話です…。
 見直された案が、見直される(修正される)のは当然ですね…。

<余談ですが…>
 やはり、家の近くの他の場所にも小ぶりですが「わらび」がありました。おそらくこの時期だけ見られるのでしょう(^^)。
 フィリピンでは「Pako」(パコ)と呼ばれ、ココナッツミルクで煮て食べられることもあるようですが、私が見つけたわらびとはちょっと違う種類のシダ類です。

 
 (先日オーガニック野菜ショップで見つけたパコ)

<お詫び>
この記事の中での「インドネシア人看護師と介護福祉士候補者で、今日本に残っているのは百人余り」という情報は、私が誤って情報を受け取った可能性があります。お詫びさせていただきます。(4月16日)
正しくは「インドネシア人介護福祉士候補者百人余り」ということで、看護師を含めると2百人余りということでした。


バギオで「わらび」発見!サクラは…。

2009-03-14 09:08:38 | フィリピン-バギオ

 一昨日は陽気に誘われ、近くを散歩してきました。電動車椅子で散歩できる所がある、というのもすばらしいですが…。
 バギオ市も、この1月の記録的な寒さが嘘のようにすっかり暖かくなりました。気温も最近は最低15~18℃、最高25℃前後とちょうど日本でいえば、春から初夏のような感じでしょうか…。
 久しぶりに、歩いても10分ほどの南シナ海が望める丘に行ってみました。南シナ海はあいにく雲に隠れていましたが、その丘の近くの草むらに、何と立派な「わらび」を1本だけ見つけました!「うっそー!」と思いつつ、まずは写真に収め、辺りを見回しましたが他にはありません。「わらび」は私の好物…、申し訳なく思いつつも、食べてみようと家に持ち帰ってゆでて口に入れると、それは紛れもない「わらび」でした。感激…(^^;)。シダ類は大きなものなどたくさんあるようですが…。
【もしバギオ在住の方で「わらび」についての情報をお持ちの方があれば教えて下さい。】…山岳民族の人たちは食べていそうな気がします。

 そして、家の近くには黄色の「コスモス」に、またもやあの小さなミツバチが…。どうも私はミツバチとご縁があるようです。(いや、あるのですが…^^)。
  

 そのお隣には白い菊の花。こちらには小さな蝶が…。
  

 さらにはピンク色の「アジサイ」が咲いていました。
  

 先日は、純白のアジサイも見かけました。
  

 ちなみに、バギオ市のシンボルの「サンフラワー」(ひまわりの一種)は、まだ咲いている花もありますが、ほとんどが種になりつつあります。「ススキ」もまだ見られます。
 

 なんか、日本の季節感の感覚が崩れていきそうな不思議な世界です。

 http://weather.jp.msn.com/local.aspx?wealocations=wc:RPXX0046&q=%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3+%E3%83%90%E3%82%AE%E3%82%AA
(バギオの天気予報・気候)

 北ルソン日本人会(JANL)は、バギオ市制100周年(9月1日)の今年、様々な企画と共に、バギオ市の公園に桜の木の記念植樹を計画されていますが、こういう気候だから大丈夫なのでしょう。
(先日、ニュースで、インドネシアにあるサクラ園の話題がありました。インドネシアに!?きっとそのサクラ園も多少高地にあるのでしょう。)