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アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

「アイ!サラマッポ in バギオ」(最終号)

2009-09-04 21:23:45 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

<写真> マニラ湾の夕日 in 1996
 拝啓
 私事で恐縮ですが、バギオ市100年祭の記念行事も終わり、明日の朝バギオを発って、来週マニラ経由で日本に帰る予定です。
 
が、ここへきて日本での新型インフルエンザの状況が大変気がかりです。上位頸髄損傷(C4)の私は、肺活量が1,400C.C.しかないのですが、このたちの悪い新型ウイルスは、肺にまで侵入して肺炎を併発する恐れがあるのがこれまでとは違う特徴だそうです。
 
数日前に、厚労省が発表した試算によると、今年中に「2,555万人」が、つまり日本国民全体の5人に1人が感染する可能性も…。ピーク時になるだろう9月下旬から10月上旬にかけては、一日で最大約7万6千人の感染者が出るだろうと予想しています。まさに一大事です。
 また、日本がこういった状況の中、日本同行に関して、介護者に対してもこちらから無理を言えるはずもありません。まだ、介護者のビザには半月ほど猶予があり、もうしばらく状況を見た上で最終判断することになるかもしれません…。
 
皆さんも、くれぐれもお気をつけ下さい。

 さて、昨年11月に開設したこのブログ『アイ!サラマッポ in バギオ』ですが、今日で一旦筆を(割り箸)をおくことにします。書いた記事の数は「165」でした。初トライのブログ…、今日まで308日間、ありがとうございました。
「Ay! Salamat po! - アイ!サラマッポ!」(感謝)

♪信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つく方がいい
 求めないで優しさなんか 臆病者の言いわけだから…
 さよならだけではさびしすぎるから 愛するあなたへ「サラマッポ!」(海援隊『贈る言葉』)


 お別れに、私が選んだ3曲です。↓

 http://www.youtube.com/watch?v=Ctwpiq7Zz08
(うたぽすと『Gooddbye Fellows』…駆け出しの二人です。応援して下さいね。)
 http://www.youtube.com/watch?v=qSw05db92BI
(河島英五『時代おくれ』…故河島英五さんが37歳の時のピアノの弾き語りです。)

 http://www.youtube.com/watch?v=zKJY6tn-iuo&feature=related
(吉田拓郎『また逢おうぜ あばよ』@つま恋
in 1985…85年つま恋コンサートのラスト・ソング。あの拓郎さんが泣いていたそうです。秘密ですが…。)

 では、また、どこかでお会いしましょう!See you!
(ナーンチャッテ、またここに戻ってきたりして…^^;)
 皆様、どうぞお元気で!               敬具

 
               2009年9月4日 いっしん


日本への一時帰国に向けて-ボランティアをして下さる方募集します(金沢で)。

2009-08-28 15:40:51 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

<写真> バギオ市100年祭のパレード(9月1日朝)を控えた今日のセッション・ロード…。
 大通りの中央分離帯に100年祭の「のぼり(ちょうちょ)」が見えます。戦前、このメイン・ストリートの半分近くのお店のオーナーは、日本人だったそうです。(午前中、街へ買い物に出たマリアさん撮影)

<下の写真> そのセッション大通りを上りきった所にあるショッピング・モール「SM City Baguio」…。
 私が、車いすで行ける唯一のモールです。ここにもお祝いの横断幕が…。左手前に見えるのは「
FX」と呼ばれる、バギオ市ではポピュラーなタクシーです(ディーゼル車)。料金は、一般的な普通車のタクシー(ガソリン車)と同じとのことです。
 

 8月も残すところわずか3日間!9月1日は、いよいよバギオ市100歳の日です。100年祭実行委員会のホーム・ページ(Calendar & Activitiesをクリックして
下さい。)にも、関連のお祝いイベントがぎっしり書かれています。↓
 http://www.baguiocentennial.com/
(カウント・ダウン…今時点であと3日8時間19分09秒^^;)

 9月3日の日比国際平和演劇祭『ケノン・ロードを共に建設しよう!~ケノン・ロード:世界平和と調和への道~』を、こちらの各マスコミも取り上げているようですが、こちらの最大手のABS-CBNバギオ放送局の「モーニング・ショー」にも、プロデューサーのさせさん、ディレクターの吉田さんや俳優の皆さんも生出演されるそうです(2日の朝)。
 3日のバギオ・コンベンション・センターでの初演、ぜひ多くの人に見ていただきたいものですね。

 
私自身は、この「バギオ市100年祭」一連の行事の後、専従介護者のマリアさんに同行してもらい、マニラ経由で一旦日本に帰国しようと思います。この6年間、よく働いてくれた相棒の電動車いす君のリニュー(更新)もしなければなりません(本当に、よく持ち堪えてくれました^^;…Ay! Salamat po!)。
 帰国に向けて、少しずつ準備をし始めようと思います。
 
日本では、秋の味覚や紅葉(気が早い?)を楽しみ、ゆっくりお風呂に浸かってしばらくのんびりしたいと思います。家族や友人との再会が楽しみです。約1年2か月ぶりの帰省…です。
 
流行の兆しがみられる新型インフルエンザの予防には、十分気をつけたいと思います。
※ このブログも、9月5日以降休止となります。

 
金沢の実家ではインターネットに接続できないので、伝言等がありましたら、このブログの「メッセージ欄」に、来週末9月5日頃までにお願いします。メッセージ欄へのメールは、ブログには反映されませんのでお気軽にお送りください。
 それから、金沢滞在中に、ボランティアで関わっていただける方を、この場を借りて募集いたします。また、パート・タイム(有償ボランティア・1日3時間程度)で関わっていただける方も募集します。経験の有無は問いません。関心のある方は、やはりこのブログの「メッセージ欄」からメールをお送りください。詳細は、メールにて…。(ただし、9月5日までにお願いします。)

 金沢市でも、改定後の障害者自立支援法による在宅介護支援は受けられますが、サービスを受けるためには、毎年、新年度の前(2月)にその申請をしなければならず、年度途中で申請しても認可されるまでに多少時間がかかります。「全身性障害者」へのヘルパー派遣時間は、金沢市では「最大一日6時間」までとなっています。

 
さて、いよいよ明後日30日は衆議院選挙、「政権選択」の重要な選挙…。みなさん、投票に行きましょう!(私は、もう郵便による代理投票をすませました。)


フィリピンでの初めての看護師は、オカマさん…。

2009-07-31 12:00:03 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 JAL(日本航空)のクラッシック・ジャンボ機・Classic Jumboが、今日の成田-ホノルル便を最後に退役します。クラッシック・ジャンボとは「ボーイング747」の100~300型の総称で、1970年からの運航だそうです。退役後は海外の航空会社に売却されるとか…強靭なボディですね。
 私も何度かお世話になりましたが、機内が広く、離着陸時を含め、安定感のあるフライトで大好きでした。
<写真> 去年8月に出版した本の表紙にも「クラッシック・ジャンボ」を選びました。↑

 一番思い出深いのは、やはり1999年3月12日に、成田から単身マニラにやって来た時のフライト(JAL)だと思います。↓

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/719b0564bf6e869752159905b04893d7 (以前の記事)

 そして、マニラに到着後…
ホテルに着いて、空室があるか尋ね、ホテル内にクリニックがあることを確かめてチェックインする。無事に送り届けてくれたその運転手には、連絡先を聞き、お礼を言って別れた。部屋に入ると、テーブルには、すでにトロピカルなフルーツが用意されていた。その日の夕食には十分なほどの量だった。しばらくして、フロントでお願いしてあったクリニックのドクターがやって来た。ドクターでさえも、私の体を見て一瞬顔がこわばり驚いた様子だったが、改めてこちらの事情を説明し、「看護師を紹介してもらえないか。」と尋ねた。「分かった。明日の朝、ここへ来るように頼んでおくよ。」・・・フィリピンにしては、かなり高い日給を要求されたが、選択の余地はない。「看護師さんに、翌朝、できるだけ早く来てもらえるように言ってほしい。」と、ドクターに頼んだ。
 もう夜八時を回っていたので、今晩だけ一人で我慢しようと、ベルボーイさん二人に頼んでベッドに移してもらった。夜勤のボーイさんの一人にチップを渡し、夜中一二時頃に一度部屋をのぞいてほしいと頼む。ボーイさんは、その通りに、頼んだ時刻に様子を見に来て声をかけてくれたが、すっかり眠りこけていた私は、「大丈夫です。ありがとう。」とだけ言ったようだった。とにかく、朝までぐっすり眠れた。
 朝七時過ぎ、「グッドモーニング!」と明るい声で人が入ってきた。看護師にしては少し派手な服、ハイヒールにピチピチのGパン・・・。部屋までその看護師を連れてきてくれた夜勤明けのボーイさんに、そっと「男?それとも女?」と尋ねた。ボーイさんも同じように、そっと「男です。おかまです。」と耳元で教えてくれた。「ホントーッ!?」と思わず叫びそうになった。化粧をし、しぐさだけでなく声も女性っぽいが、そう言われれば確かに男性のようだ。ちょっと失礼だったか、と反省しながら、ボーイさんが出ていった後、自己紹介をし合って、クリニックを通しての日当、時間等の条件を確認した。「彼」は、インターンとして実習中の看護学生で、夕方に別の男性看護師が来て交代する、と言った。マニラで初めての看護師さんは、色っぽいおかま(bakla
‐バクラ)だったが、後々、フィリピンには、美しいバクラや女性の同性愛者もたくさんいることを知った。それがどうしてなのか、理由は未だによく分からないが、みんながみんな「カミング・アウト」し、そのことを包み隠す人はいないようで、ここではそれがごく自然なことのようだ。…
拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』上巻第3章より抜粋)

 今週の火曜日だったと思いますが、「WOWOWEE」(ワォワォウィ-)というフィリピンのお昼の人気バラエティ番組(ABS-CBN局)で、6月の看護試験に合格したばかりの正看護師6人(女性4人・男性2人)がゲームに参加していました。その前日の番組中に「合格した新看護師諸君…」と、翌日のゲームに参加できる条件を発表、その日の夕方までに応募者の面接が行われて選ばれた6人、だということです。
 
ゲームの内容は、まずウィリー(Willie)という人気司会者が参加者にインタビュー、会場に応援に来た家族にも話を聞き、参加者と家族が、日頃言いにくい思い(感謝)をお互いに伝えるのです。そこでほとんどの参加者と家族は涙を流す、というか「泣きます」。
 
その正看護師となった参加者の男性の一人がオカマさん(ゲイ・フィリピンでは「バクラ・Bakla」)だったのですが、彼はそのことを家族(母親)に隠し続けていました(家の中では「男」を演じていた)。そして、母親に、看護課程で学ばせてもらったお礼とともに「実は自分はオカマである」ことを伝えたのでした。「42歳の時の子だから、自分は老けてる…」と愛嬌たっぷりの母親がすんなりとそのことを受け入れ…。そこでウィリーがすかさず5千ペソ(約1万円・キャッシュで)を母親に…。そして、感激して泣くじゃくる息子が「ママ、いつもテレビばかり見てちゃダメよ…!だからテレビ、壊れちゃったじゃない…。」と語りかけ、ウィリーがまたすかさず「番組から、テレビをプレゼントしよう…。」
 そのインタビューの後で歌やダンスなどを披露するのですが、その後でまた5千ペソを…(会場のウケがよければ5千ペソ追加…)。そしていよいよゲーム…、といっても、要は早押し曲名当てクイズです。
 決勝に勝ち残った3人にまず、また千ペソずつを…、そして優勝者は最終ゲームに進みます。サイコロの入った3つの大きなボールを3人のセクシーな衣装のダンサーが転がし、その結果により賞金を獲得…というものです。一つ目は「2万ペソ」、二つ目は「X2(2倍)」で「4万ペソ」となり、三つ目のサイコロの「÷2(2分の1)」で「2万ペソ」に戻り、彼女は2万ペソをゲッツしたのでした。が、12時半から始まるその番組の最後、2時半から3時までの30分間、早押しクイズ決勝(数分間)とサイコロころがし(2~3分間)以外の20分余りはコマーシャル(!)でした。
 会場には、77,901人が受験した看護師試験の「2番目」の成績で合格した女性もいてインタビュー…、すかさず彼女と母親に五千ペソずつを…。「5千ペソ」単位のようですが、次から次へと出てくるあの札束はどこに隠されているのか…。

 それはともかく、フィリピン人看護師にはオカマさんも多いことは知られています。学校の先生にも多い…。美容師やカラオケバー(フィリピンではKTVと呼ばれる)、そして芸能界にももちろんたくさんいます。フィリピンは、女性の同性愛者も多いのですが、それがどうしてなのか、私には未だによく分かりません。
(ジャンボ機退役のトピックのはずが…。^^;)

 ちなみに、その1999年の年、床ずれが悪化し、単身また成田へ(エジプト航空のジャンボ機で…)戻ったのが今日7月31日でした。
(今日の記事は軽く読み流してください…。^^;


ルセナの「日本人障害者の家」で…ヒロさん(1996)

2009-05-14 12:00:00 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

       

<ルセナ市「日本人障害者の家」で-1996年1月1日>
「ヒロさん」こと故向坊弘道氏(左)と私(新年の瞬間に)。

※2006年5月朝日新聞の記事↓
首から下が全く動かない重い障害をもちながら、自立した生活をしたい、とフィリピンにわたった障害者がいる。日本で限界を感じた自立生活を、物価の安いフィリピンで実現しようというのが理由だった。わかっているだけで、日本からフィリピンに移り住んだ重度障害者は10人近いという。
 四肢まひの寺本一伸(かずのぶ)さん(48)。7年前、単身フィリピンに渡った。ミンダナオ島に一軒家を借り、フィリピン人ヘルパー3人に24時間の介護を受けている。
 金沢市出身。小学校教師だった16年前、事故で首から下が全く動かない頸椎(けいつい)損傷になった。
 障害者施設で3年過ごしたが、失禁でベッドを汚した入所者をしかり付ける声などが響くのを聞きながら、耐えられないと思った。買い物のための自由な外出は年1回だった。
 東京都内にアパートを借り、学生ボランティアらの助けを得て一人暮らしをしたこともあったが、自分の思うようにはいかず、落ち込んだ。
 そんな時、フィリピンに日本人の障害者が滞在できるNGO施設「日本人身障者の家」があるのを知り、2カ月間滞在してみた。気候は暖かく、フィリピン人ヘルパーの世話も心地よかった。
 帰国したものの、日本での自立生活は難しいと感じ、かばんと車いす用のアルミ製スロープ板を持ちフィリピンへ移ったのは、99年3月だった。
 雑誌に求人広告を出してヘルパーを雇い、中古のワゴン車を買って週3回は運転手を雇い、買い物や会合に出かける。口にくわえた割りばしで、パソコンを操作し、日本の友人ともメールをやり取りする。ヘルパーらの人件費は月5万~6万円程度。月11万円の障害者年金などでやり繰りする。日本ならば70万~80万円はかかるという。

「一歩間違えると、とんでもないことになる可能性もあるが、施設での生活を考えれば何でもない」と寺本さんは話す。
 寺本さんが日本から出るきっかけになった「日本人身障者の家」は、北九州市で不動産業などを営む向坊弘道さん(67)が79年、フィリピン・ルセナ市につくった。冬の間だけ日本人の重度障害者が泊まれる施設で、向坊さん自身、首から下が動かない障害者だ。設立以来27年間で、日本から訪れて滞在した障害者は延べ200人。
 ここでの滞在を機に、フィリピンに移り住んだ重度障害者は、30代から50代で、寺本さんのほか7人はいるという。

(向坊さんが亡くなられる一週間前、2006/5/8の朝日新聞の記事)


故向坊弘道氏のご命日に…。(合掌)

2009-05-14 05:08:00 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 今日は、三年前に、北九州市の向坊弘道氏(むかいぼう・ひろみちーNGO・福祉団体グリーンライフ研究所代表)が、腎盂がんのためお浄土に旅立たれた日です。
母の日でした…(享年67歳)。

 東京大学在学中の1959年に、交通事故で頚髄を損傷(C5)、四肢まひの障害を負いながら、フィリピンへ中古の車いすを寄贈したり、ネパールで小学校を建設するなどの福祉活動の一方、四肢まひ者向け情報誌「はがき通信」(継続されています。)を発行されました。

 http://glij.shokakuji.or.jp/

 ネパールの首都カトマンズでは、氏のご遺志が受け継がれ、「カトマンズ本願寺が建築中。すでに完成された部分では、様々な活動がされています。

 氏のご生前のご功績を偲び、お参りさせていたします。
 これまでのご指導、ご厚情に感謝します。『歎異抄』忘れません・・・。
「南無阿弥陀仏・・・」(合掌)

「世の中は 鉄あり銅あり 金もあり 皆それぞれに 使命美し」 (向坊弘道)
「迷信と正信の違いを吟味してみると、それは疑いにあります。徹底的に疑えば、正しい信心にたどりつくことができるのです。」 (向坊弘道)

人間の可能性は限りなく無限に広がっている。
そんなかなで、自分はものすごいことをしても、そこには数え切れないほどの他の力がはたらいている。(『よみがえる人生』より)

寺本 様
 今朝は、長距離電話ありがとうございました。私は3ヶ月間Lucenaに滞在していました。ネパールも治安の悪化が報道されていますが、カトマンズ本願寺建設に悪影響はないようです。一度、ネパールにも来て下さい。私は11/6からネパール・インドをまわります。
 ダバオはいいところですね。『南無阿弥陀仏』を唱えながら、感謝しながらの毎日はすばらしいです。
『ダバオ有情-フィリピン人介護者と生きる』(仮題)という手記は私が10冊書いた経験から言うと、180ページ以内がいいです。200ページ以上の難しい本は日本では売れません。自費出版かどうか、樹心社を紹介しましょうか?
 ところで、フィリピン人介護者と一時帰国する方法がありますか?教えて下さい。
)))))))))))))))))))))))
向坊弘道  (グリーンライフ研究所・日本)
((((((((((((((((((((((((()))))))))))))))))))))))))))))))))
提案します。
・東京だけが繁栄する中央集権政治を道州制に改めましょう。
・沖縄を経済自由地域にして、全国の平等な繁栄を計りましょう。

-2006年3月30日 21:19、故向坊さんからののEメール-


10th Anniversary…♪思えば遠くへ

2009-03-12 17:01:08 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 今日3月12日は、私の人生で大きな転機となった日。10年前に、成田から単身マニラに渡って、フィリピンでのいわゆる障害者の「自立生活」にチャレンジし始めた日です。あの日からちょうど10年!思い起こしても、感慨深いものがあります…。

 地図でマニラ、ダバオ(2003年2月~2007年4月)、バギオ(2008年10月~)を探してみてください。

「一九九九年三月一二日早朝、東京で行き場を失った私は、成田空港へ向かった。フィリピンへ行けば、この困難な状況を何とか打開できそうな気がした。『日本を一旦諦めよう・・・。』暁闇の中を成田空港へと向かう途中、空が次第に紅色に染まり出し、東京湾から朝日が昇ってきた。日本海に沈んでいく夕日は数え切れないほど見てきたが、太平洋の、海からから昇る日の出を見るのは生まれて初めてだった。その雄大な美しさに見とれながら『道はまだある!』と、自分自身を奮い立たせた。
 
切羽詰まった状態であったにせよ、首から下が動かない体で単身マニラへ渡ろうなどという考えに、誰が賛同しただろう?人には、狂気の沙汰としか思えなかったかもしれないが、自分ではよくよく考え抜いた上での結論だった。そして、そう決めてしまった後は、不思議と気持ちが落ち着き、その後の身の安危なども顧みることはなかった。離陸を待つ機内では、『どうしてこうなってしまったのか。』と、自分の数奇な運命を振り返りながら、ただひたすら祈っていた。『神様、仏様。どうかもう少しだけ生きるチャンスを下さい・・・。』離陸後しばらくして、ほおーっと眠りについた。ぐっすり眠れたのは、ずい分久しぶりのような気がした。
 
飛行機が下降を始め、マニラの国際空港に近づいた時、ふと『ひょっとしたら自分はマニラで命を落とすかもしれない・・・。』と思った。前年の暮れにできたお尻の床ずれの状態がよくなかったからだ。一月半ほど前、一人の重度身体障害者が、都内のあるカトリック教会で、車椅子に座ったままの状態で孤独死した。床ずれがひどく進行していたという。
 
金沢で、東京で、多くの人に支えてきてもらったにもかかわらず、未だに宙ぶらりんで、綱渡りのようなその日暮らしの毎日・・・。そのまま東京の街をさ迷い続けていたら、自分もその障害者と同じような運命をたどっていたかもしれない。東京でも、自分なりにできるところまでやってはみたが、もうそれ以上続けるのは無理だった。最後まで関わってくれていた、わずかな介護者の厚意に甘え続けることも、自分にはできなかった。『今はこうするしかないんだ・・・。』
 
マニラ国際空港に着き、バゲージクレーム(手荷物引渡し場)で、ポーターの男性二人に頼んで体を電動車椅子へと移してもらう。チェックアウトをすませた後、到着ロビー出口で車を探した。空港警備のガードマンに、バンのタイプの車(ワゴン車)を捕まえてもらい、運転手に事情を話した。『マニラ湾の近くのホテルまで。』と言って、料金の交渉をする。快く引き受けてくれたその運転手の表情を見て、彼ならおそらく問題ないだろう、と思った。日本人が、空港からマニラ市内へ向かう移動中に狙われる犯罪が後を絶たないことは承知していた。が、こちらとしても、たまたま出会ったその運転手に賭けるしかない。バンの後部座席を取り外してもらい、日本から持ち込んだ二枚のアルミ製のスロープで、電動車椅子のまま車の後部から乗り込み、ロープで固定してもらう。そして、マニラ湾岸の、大きめのホテルへと向かった。
 
今朝早く、成田空港に向かう途中で初めて目にした太平洋からの日の出・・・。その太陽が、今まさにマニラ湾に沈もうとしている。真っ赤な、美しい夕日だった。」

拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』上巻第3章より抜粋)

 
(ジプニー・2000年撮影)

 マニラに来た当初、移動にはよく「ジプニー ・Jeepney」を使っていました。日本から持ち込んだスロープをかけて、後部からすんなりと乗り込めましたが、もちろんエアコンはありません。排気ガスがひどく、埃っぽい、しかも大渋滞のマニラをジプニーで移動するのはかなりきつかったです。
 真夏の酷暑の中、新天地での介護者探しに家探し…。実際にメトロ・マニラのケソン市に家を借りて生活し始めたのは、それから約一か月後の4月半ばでした。
 が、実はそのマニラでの最初の家にもオバケが出たのです。
(続く。…続かないかも?)


障害者自立支援法改正へ

2009-02-11 15:51:08 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 3年前、障害者を支援する法律が「支援費制度」から「自立支援法」に変わり、2006年4月より施行されました。これによって、障害者が介護や福祉のサービスを受ける際、そのかかった費用の1割を障害者本人が負担することとなったのですが、それが見直されることになったというニュースが今朝流れました。昨日10日、与党の障害者自立支援に関するプロジェクトチームの実務者会議で、障害者の自己負担額は、所得や家計の負担能力に応じて定められる「応能負担」に改めることで合意され、来年度中にも実施される見込みです。

 私は、日本に滞在中は、市の在宅支援サービスを受け、介護福祉士やヘルパーさんのお世話になります。福祉の道を選ばれた方々だけに、心あたたかい、また日本人らしい気くばりのあるきめ細やかなケアを感じることができます。しかし、要介護者が必要とし、介護者も「してあげたい…」と思うことの多くが日本の福祉の現場では規制されているという一面もあります。
「医療行為」に該当するケアは当然受けられず、また全国規模でヘルパー派遣事業を展開する大きな会社・事業所ほど、きめ細かいマニュアルが作られていて、そこに記されていない範ちゅうのケアや依頼事については、「これって、やってもいいのかしら?」と、要介護者を前にして、その場にいるヘルパーさんが悩む、判断しかねる、といった場面が浮かびます。
 
確かに、免許や資格等によって介護の内容を制限したり、他のヘルパー派遣事業所との整合性、またヘルパー間のサービス内容の公平さを保つために、一定のルールを設けたりすることも必要なことは理解できます。しかし、管理や規制も、度を過ぎると、実際に福祉の現場で介護に当たる人たちの主体性が損なわれて行きかねないような気がします。

 フィリピンでの私の生活に関わってくれている専従介護者には、雇用関係の上でケアを受けているわけですが、そこに日本の制度の中にあるような制約はありません。お互いの了解なり合意なりがあれば、私が必要とするケアのほとんどは、自然な形で提供してもらえます。
 
例えば、今私を悩ませ、ベッドに縛りつけている厄介な「床ずれ」の治療も、毎日洗浄とガーゼ交換が必要ですが、日本では当然のことのように医療行為で禁じられています。
 
それに、自治体ごとに大きな開きのある「ヘルパー派遣時間数」ですが、金沢市では「最大で一日6時間」ですから、それ以外の18時間は自分でどうにかするか、一人で過ごすしかなくなるわけです。

 そんなことを思うと、仮に今、日本へ帰ったとしても、これまでフィリピンで10年間やってきたような私の生活は一瞬にして崩れ去ってしまうのでしょう。

<写真> ハイビスカス-Gumamela(きれいに撮れてるネ…。)


レモン湯!?

2008-12-23 15:08:22 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 今日は、約一週間ぶりにバスタブで入浴させてもらいました。

 冬至から二日遅れの、「ゆず湯」ならぬ「レモン湯」です。レモン湯といっても、先日市場で仕入れた大きなレモンの厚い皮を切ってお湯に入れてみたのです。気持ちだけ「ゆず湯」…風邪などひきませんように…。
  入浴は週に一度から二度、あとは清拭ですませています。体温調節が利きにくい体で、汗はほとんどかきません。かくのは冷や汗です(^^;)。

<写真> ポリエステルのバスタブにフレームをつけて、フレームの下に15cmくらいのスペースを作ることで、移動式リフト(日本から)を使って入浴できるようにしてあります。フレームにはキャスターも付けました(溶接)。
 
左下に見えるのはルーム・ヒーター。バスタブは部屋に置きっ放しです。

 
マニラにいた頃も同じペースの入浴でしたが、完全に水風呂でした。今のコンド・ユニットは、パナソニック製のウォーター・ヒーター(電気温水器)が備えられていて、温度調節を最大にすれば、ちょうど40℃余りの熱いお湯が出ます。日本人にはちょうど良いその湯加減も、フィリピン人の介護者にとっては「やけど、しない?」と感じるほどの熱さなのでしょう。
 

 
でも、バスタブにたっぷりお湯を張ると体が浮力でずり落ちてしまうため、お湯は15cmくらいの深さしか張りません。そして、手おけを使って頭や顔からお湯をかけてもらう、という訳です。シャワーベッドを使うより、手おけの方が安全で楽です。

「日本せきずい基金」のビデオ・ライブラリーには、4年前にミンダナオ島ダバオ市での生活の様子を収めたDVD、ビデオがあります。どうやって入浴するのか、その様子もチラッと映っています(誰も見たくないよね…笑)。
 ダバオ市(人口120~130万人・マニラに次ぐフィリピン第2の都市)も本当に住みやすい良い所です。


障害者の日-The Day of Disabled Persons

2008-12-09 20:52:15 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 今日12月9日は「障害者の日」です。…と思っていたら、2004年の障害者基本法改正で、12月3日から9日までを「障害者週間」とすることで「障害者の日」という記述は条文から消えたようです。

 ちなみに、12月3日は「国際障害者デー」(International Day of Disabled Persons)です。

1975年の今日、国連総会で「障害者の権利に関する決議」が採択されたことにちなんで、その五年後に日本で設けられた、まだ歴史の浅い記念日です。

 

「ある新聞の社説によると、その障害者運動の源流はナチスへの抵抗運動にまでさかのぼるという。地下新聞を配って、アウシュビッツ強制収容所へ送られたデンマークのハンク・ミケルセンという若い記者がいた。奇跡的に生還した後に、厚生省の役人となって訪ねた知的障害者の施設の雰囲気が、彼のいた強制収容所とあまりにも似ていて、さらに施設側の考え方も強制収容所と近いということに気づいた彼は愕然とする。

 一般社会から「隔離」された特殊な社会、日常とかけ離れた、精神的にも身体的にもノーマルではない生活。同じくアウシュビッツに収容されたことのあるヴィクトル・フランクル(Viktor Frankl)は、著書『夜と霧』の中で、「死と隣り合わせの、絶望すら感じないような精神状態の中でも、人間はどこまでも人間であった。」と書いている。その「アウシュビッツの強制収容所」と、「知的障害者の入所施設」が似通っていた!そのことが、障害者の人権について考える原点だったと知り、背筋の寒くなる思いがした。」

-拙著『アイ!サラマッポ』(上巻)より抜粋-

 

 バギオはすっかり乾季に入ったようでよいお天気が続いています。朝夕は、放射冷却現象で外はかなり冷え込みます(16~18℃)。が、コンド・ユニット(家)の中は20℃を下回ることはありません。シャワールームには温水器があり、熱いお湯も出て快適です。

 

<写真> 晴天下、サンフラワー(ひまわりの一種?)とススキが共生。

     前庭には、何とツツジとハイビスカスが共生しています。


拙著『アイ!サラマッポ』~フィリピン人介護者と生きて~

2008-11-03 13:52:53 | フィリピン-障がい者の「自立生活」

 今日11月3日は、一年前に拙著『アイ!サラマッポ』(~フィリピン人介護者と生きて~)上下巻を脱稿した日です。もう一年が…。その後書きの中でこう書きました。

「この手記の題名『アイ!サラマッポ』は、タガログ語の「サラマッポ」(Salamat po!‐ありがとうございます)に、「アイ!」(Ay!)という、フィリピン人特有の感嘆詞を付けたものである。「アイ、サラマッポ。」は、心を動かされた時に「あーら、ありがとうございます。」といった具合に、フィリピン人がよく口にする表現だ。そして、題名の「アイ」には、もちろん「愛」の文字を重ねることができる。「愛を、ありがとうございます。」という気持ちも込めてこのタイトルをつけた。」

  うれしいことに、先月8日、ようやくフィリピン上院で日本との経済連携協定(EPA)が比准され、来年から2年かけて600名のフィリピン人介護士と400名のフィリピン人看護師が、インドネシアに続いて受け入れられることに…。賛否両論あり、試行段階での様々な問題あり…は承知の上。日比双方に戸惑いや混乱はあるでしょうが、個人的にはぜひうまく軌道に乗ってほしいと願っています。

  ところで、『アイ!サラマッポ』上下巻を自費出版したのは、諸事情が許さず、脱稿から10か月ほども経った、つい2か月ほど前のことです。ネット上、書店からも購入できますが、小生の手元にもまだ在庫があります。日本国内、フィリピン国内、送料無料で発送いたします。どちらも、発注後に、代金を指定銀行口座に振り込んでいただいた後、発送いたします。一週間から十日ほどお時間を下さい。

 よろしければご一読下さい。↓

『アイ!サラマッポ ~フィリピン人介護者と生きて~』 上・下巻


※解説(内容紹介)「19年前、不慮の事故で「頸髄損傷による四肢まひ」という重度の障害を負った著者が、その絶望の淵からどのようにはい上がろうとしてきたか。多摩市、マニラ、ダバオ…と、自立生活に挑み続けたこれまでの道程を振り返る中で、一旦失いかけたヒューマニティ(人間性)をいかに回復していったか。その心の変容を、自身で問い直そうとした書。1999年、単身フィリピンに渡り、以後フィリピン人介護者のケアを受けながら、現在もフィリピンでの一人暮らしを続けている著者が、口にくわえた割りばし一本でキーボードをたたき、記録と記憶を頼りに渾身の力をふりしぼって綴ってきた自叙伝である。タイトルにある「サラマッポ-Salamat po」とはタガログ語で、「ありがとうございます。」という意味である。「フィリピン」、支え続けてくれた家族や友人への感謝の気持ちを込めて『アイ!サラマッポ』というタイトルがつけられた。」

<日本国内-上下巻各1,575円・上下巻3,150円>

<フィリピン国内-上下巻各700ペソ・上下巻1,400ペソ>

※注文受付メールアドレス:isshin3_ph@mail.goo.ne.jp

 

<本書に関してのお詫びと訂正>

 ① 『アイ!サラマッポ』上巻76ページ14行目の「Statue of Freedom」は誤りで、正しくは「The Statue of Liberty」です。
  同
153ページ13行目の「褥創」は誤りで、正しくは「褥瘡」です。
  また、下巻132ページ6行目「そう場所」は誤りで、正しくは「そういう場所」です。(訂正)

② 本書に入っていない『著者プロフィール』です。(お詫び)

著者 寺本一伸 プロフィール

1958年 金沢市に生まれる。
1981年 金沢大学教育学部卒業。同年、金沢市内の小学校に就職。
1989年 不慮の事故により頸髄C4を損傷、「四肢機能全廃」の1級身体障害者となる。
     翌年退職。
以後、病院や重度身体障害者療護施設を転々とする。
1995年 東京都多摩市にて、いわゆる障害者の「自立生活」に挑戦。
1997年 多摩市での生活を断念。金沢市内の療護施設に入所。
1998年 療護施設を退所。金沢市にて自立生活に再挑戦。
1999年 日本での自立生活を断念。3月、単身フィリピンに渡る。
     以降、首都マニラにて、フィリピン人介護者のケアを受けながら4年間生活する。
2003年 ルソン島マニラから、ミンダナオ島ダバオ市に引っ越す。
     NGO日本フィリピンボランティア協会(JPVA)と関わる。
2007年 マニラに戻り、現在2008年に至る。

(2008年10月バギオ市に引っ越す。)