アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

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2009-12-25 00:00:00 | フィリピン-マニラ

12月1日にフィリピンに戻ってきました。

写真は、その日に迎えてくれたマニラ湾の夕日です。

新しくブログを開設しました。↓

 アイ!サラマッポ in マニラ  (クリックしてください。)

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_jph_m (Please click it.)

※ このブログの記事はこれで終わりになると思います。
  アイ!サラマッポ in バギオ…読んでいただいた方、コメントをいただいた方、ありがとうございました。


マニラ湾のサンセットとバンブーオルガン…半年ぶりのマニラで。

2009-04-23 10:16:38 | フィリピン-マニラ

 先週末、大切な私用があり、半年ぶりにマニラへ行ってきました。

 が、サマーシーズン(盛夏)最中のマニラは、やはり暑かった…。週末にも関わらず、マカティ市に向かうエドサ大通りの渋滞には辟易しました。無事に約束を終えて、午後8時頃ホテルに入った時は、39度近い体温でしたが、これは体温調節が利きにくい頸椎損傷者特有の症状で、エアコンをかけてタオルで冷やしてもらうとすぐに平熱に戻りました。でも、やっぱりマニラの暑さは、自分の体には厳しいものであることを実感しました。標高1,500mのバギオから下りて行ったので、なおさらそう感じたのでしょう。

<写真> アロハ・ホテルから望むマニラ湾の夕日

 日曜日は、マカティ市での用事の前に、約1年ぶりにラス・ピニャス市のバンブーオルガン教会に立ち寄りました。幸いなことに、ちょうど日曜日の礼拝の最中で、またオルガニストもいて、そのバンブーオルガン(竹製のパイプオルガン)の柔らかで厳かな音が、教会内に響き渡っていました。

 

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/d/20081207

(バンブーオルガン教会の、以前の記事)

  
(ミサが終わった時の教壇、教会内の様子です。)

   

(そして、今回、3階から撮影できたバンブーオルガンです。写真右下に見えるバンブーオルガンは2階にあります。)

 http://www.youtube.com/watch?v=uv2y_goeYxE&NR=1

(バンブーオルガンの柔らかな音色)


ピープルパワー革命(平和的人民革命)記念日

2009-02-25 21:18:37 | フィリピン-マニラ

 今から23年前、1986年の今日、フィリピンのマニラで、二十一年間続いたマルコス大統領独裁政権を退陣に追い込んだ「ピープルパワー革命」(エドサ革命)と呼ばれる無血の人民革命が起きました。
 83年に空港で暗殺された、当時のマルコス大統領の政敵だったベニグノ・アキノ元上院議員の夫人で、非暴力・非服従による反マルコス運動を展開していた「コラソン・アキノ」氏が、エドサに集結した人々が見守る中、大統領選挙での勝利を宣言し就任式を決行しました。同日、やはり官邸で就任式を行うも、国軍等身内の寝返りが相次ぎ、アメリカにも見限られたマルコスはハワイへと亡命せざるを得なかったのでした。
 私は、マラカニアン宮殿が一般に公開されていた96年2月に一度宮殿内を見てきましたが、イメルダ夫人のキラキラとした豪華なドレスや装飾品、靴などが多数陳列されていました。そして、寝室の超キングサイズのベッドのわきには、いざという時に脱出するためのトンネル(逃げ道)が作られていたのを覚えています。

 以下は、2001年1月20日に、やはり汚職でエストラーダ大統領がその座を追われ、エドサに人民の結集した力を得て、アロヨ副大統領が新大統領となった「ピープル・パワー2」の時の、私の著書の記述です。
「そんなことを心配しながら、SMの中の両替所を通りかかった時、その電光掲示の通貨交換レートに異変が起きていることに気づいた。急激な円安ペソ高、日本円が暴落した?そして、何か大変なことが起きたのでは、と不吉な予感がした。政変だ!賭博による詐欺汚職疑惑で弾劾裁判にかけられていた、元映画俳優のエストラーダ大統領への抗議デモや集会が大規模なものに発展し、エドサ(
Edsa)に人々が集まり始めたという。エドサは、一九八六年にマルコス大統領退陣を訴えて市民が集まった場所で、今回も数十万人が集結する事態となった。閣僚や国軍、国家警察なども一転して大統領への支持を撤回した。そこには、カトリック教指導者の力が大きく働いたようだが、当時すでに普及していた携帯電話も大きな力を果たした。『エドサに集まろう!』という呼びかけが、メールで人から人へと流されたのだ。
 
最高裁が満場一致で大統領の空席を宣告した後、アロヨ副大統領が十四代フィリピン共和国大統領であることを宣誓した。一九八六年、流血を見ることなく人々の力の結集により政権交代を果たした『ピープル・パワー』(People Power)の再来として、世に『ピープル・パワー2』と呼ばれる平和的人民革命だった。日本では革命が起きた歴史はないし、私自身そうした不安定な政情の中で、『平和的』ではあったにせよ、『革命』と呼ばれる騒ぎの中に身を置くのは、当然初めてのことだった。これから先、どうなって行くのだろう、と不安を感じながらも、家族には「街中は落ち着いているから大丈夫。」と伝えた。『一九八六年』を経験している中年層の人たちは、『騒ぎはそれほど長くは続かないだろう。』と落ち着き払っていた。事実、その後大きな混乱はなく、人々の生活もすぐに平常に近い状態に戻った。」

(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻より抜粋)

 どちらの「ピープル・パワー革命」でも、汚職によって追い込まれた大統領に代わって、女性の大統領が誕生したのですね。
「ピ-プル・パワー2」の時は、ジョン・レノンのGive peace a chance』『Power to the people』を人々が合唱していました。

<写真> ピープルパワーで人々が集結した場所「エドサ-Edsa」の聖母マリア像(後光が・・・2001年11月9日撮影)


13年前の今日(1995年12月3日)…初めてフィリピンにやって来ました。

2008-12-03 18:57:14 | フィリピン-マニラ

 今日、「12月3日」は小生にとって忘れられない日です。

 13年前(1995年)の今日、初めてフィリピンに来て、ルセナ市にあるグリーンライフ研究所『日本人障害者の家』に二か月余り滞在しました。一昨年の5月に腎盂癌のため亡くなられた、代表の「ヒロさん」こと故向坊弘道氏には大変お世話になりました。

 その初めてフィリピンに滞在した時の印象が良く、今に至っているのだと思います。何が良かったか?大きな3つの理由は…。

  気候…12月~2月の乾季で、またそれほど暑くもないベストシーズンの期間でした。

  フィリピン人介護者のケア…親身になって、住み込みで関わってくれました。Tender Loving Care(TLC)という言葉に象徴されます。

  物価の安さ…介護者のお給料も含めて、年金でも生活できる可能性大と思いました。

 

 しかし、実際にフィリピンに住み始めると、日本では考えられないようなことが次々に身に降りかかってきました。よくぞ今日まで…とつくづく思います。

 十年前に、単身マニラに来て自立生活を始めた頃は、いろいろと痛い目にも遭いましたが、それも、自分自身の無知、甘さによるところが大きかったように思います。

 十年経った今でも、日本でないことのリスクをある程度意識しながら暮らしています。

<写真>「東洋の真珠」といわれるマニラ湾の夕日(96年1月撮影)


金沢-Kanazawaとマニラ-Manila 高山右近

2008-12-02 18:34:23 | フィリピン-マニラ

 フィリピンでよく知られている日本人の一人に「高山右近」がいます。

 金沢は、高山右近が家康のキリシタン禁令により日本を追放され、マニラに渡るまでの二十六年間という半生近くを加賀前田家のもとで過ごしたという縁の深い所で、金沢カトリック教会の礼拝堂正面の美しいステンドグラスには、右近が細川ガラシヤと一緒に描かれています。

 日本人フィリピン移民百周年の2003年には、日比共同事業のオペラ『高山右近』が、右近生誕四百五十周年の年に合わせて、フィリピンのマニラとダバオでも披露されました。それに先立ち、日本国内各地で上演され、右近ゆかりの地である金沢でも上演されました。二幕から成るそのオペラの第二幕『平和への道剣か愛か』では、家康のキリスト教追放令により1614年に日本を追われた右近が、長い厳しい船旅の末マニラに着いて以降、熱病に侵されて死に至るまでが熱く演じられました。その亡くなるまでのわずか四十日余りという短い時間に、多くのフィリピン人から歓迎され、「偉大なキリストの騎士」としていかに多くのことを成し得たか、が伝わってくる素晴らしいオペラでした。

「日本からマニラへ追放された者たちに言い遺す。♪剣を取るものはみな、やがて剣によって滅びん!」・・・戦国の乱世を生き抜き、異国フィリピンで客死した右近のその言葉が、その美しいメロディと共に心に深く刻まれました。

<写真> マニラ、パコ駅近くの「高山右近像」

 

 先日も、インドのムンバイで日本人を含む多くの死傷者を出した同時テロ事件が起きてしまいました。戦争やテロ…という武力では何も解決できず、悲惨さ以外の何物も生み出すことができないことを、人類はいつになったら学ぶのでしょう…。


マニラでのお気に入りのショット

2008-11-30 18:59:50 | フィリピン-マニラ

 調子に乗ってもう一枚…(^^;)。 これは、もう七年も前の2001年3月、「スクォーター・エリア」と呼ばれる貧困層の子供たちにカトリックの教えを施しているという知人が、その子供たちを私の家に連れて来てくれた時の「ウェルカム・キッズ・パーティ」の時に撮った写真で、マニラでのお気に入りの写真の一枚です。

 最初、車椅子の私の姿を見てビックリし、緊張していた子供たちでしたが、歌やダンスを楽しみ、一緒に食事した後ではもうこの笑顔…。白い歯が見えない子供はいませんよね…。(^0^^0^^0^)

(ラス・ピニャス市ピラール・ビレッジで…足を覆う緑色のタオルが派手^^;)  

ピラール・ビレッジには計3年間住みました。中流家庭(一部上流?)の住宅地の中に、貧困層のエリアも多くみられましたが、私にはお互いの弱い部分を埋め合って、うまく共存しているように映りました。

  もう引退しましたが、私の大好きな女性シンガー「Donna Cruz -ドナ・クルーズ」の生まれ育ったビレッジで、実家は歩いて数分の所でした。が、それは偶然で、決して「追っかけ」ではありませんよ(^0^)。 代表曲は『Only me & you』…結婚・引退後、現在はセブでお住まいです。


少女エッツェル

2008-11-16 14:43:24 | フィリピン-マニラ

「床ずれ」で思い出しました…。

 マニラのラス・ピニャス市には、小さな友人のエッツェルがいます。彼女は、2000年12月に、ケソン市からラス・ピニャス氏に移った時、家の近くのピラール教会で「サンパギータ(Sampaguita)」というジャスミン系の香りの強い小さな白い花の首飾りを売っていました。3歳の時から家計を助けるために…。そのために学校も一年休学したという彼女は10歳でした。母親はいるが、父親は顔も知らないと言います。

 私は浄土真宗徒ですが、カトリック教会にはよく介護者たちと足を運びます。時々教会に通っては、ミサに、彼女から買ったサンパギータの首飾りや花を捧げたりしていました。サンパギータはフィリピンの国花で神に捧げられます。

 ところが、その2001年という年は、お尻右横にできたロウコウという床ずれの一種に悩まされていて、7月末にこちらで簡単な外科手術を受けました。その後一か月ほどでロウコウは完治したのですが、その間、エッツェルは「イッシンおじさんはどうして教会に来ないの?」と、私の介護者に住所を聞いて弟やいとこと花束を持ってお見舞いに来てくれたのでした。7年余り前のことですが、鮮明に覚えています。(写真-黄色のTシャツ)

 その後、よくお花を持って訪ねてくれるようになり、私も「メリエンダ」と呼ばれるおやつを用意したりしましたが、いつも10分といないのです。「教会に戻ってお花、売らないと…。」 それから約半年後、病弱の母親に会い、彼女がハイスクールを出るまで学費をサポートしたい、と申し出ました。フィリピンにも里親制度はたくさんありますが、彼女はその里子のような存在です。

 今年、彼女はめでたく、デビュー(Debut)という18歳の成人のお祝い(男子は21歳)をし、現在はラス・ピニャス市長ネネ・アギュラー奨学制度により、大学でコンピュターグラフィックを勉強中です。

 去年、日本からマニラに戻ってから「ラス・ピニャス市」を選んだのは、エッツェルや今借りているコンド・ユニットのオーナーで、フィリピンで最も親交の長いロレンツォという友人が近くにいたから…でした。

  そういえば、去年4月にダバオを引き払って日本に帰ったのも、床ずれによる体調悪化が最大の理由でしたが、本当に気をつけないと…。

  昼食後、もう一度コンピューターに向かいました。これからベッドに移り、体位交換してもらいます。夜は佳境に入った『篤姫』を…(^^)。ちなみに今日のお昼は、先日のマグロの刺身とレタスとオニオンのスープでした。

 ちなみに賄い(献立や買出し、料理)も、ほとんど自分でやります。もちろん、料理は介護者に作ってもらう訳ですが、野菜をあまり食べない(日本人の約6%)お国柄で、自分の健康を維持するためにも…。料理もたくさん覚えました。ほとんど「○○もどき」…ですが…(^0^)。

(フィリピン時間1時半過ぎ-日本より1時間遅れ)


ラス・ピニャス…

2008-11-15 14:39:17 | フィリピン-マニラ

 早いもので、マニラ南部のラス・ピニャス市から、ここバギオに引っ越してちょうど一か月になります。今は時々寒く感じることもありますが、体はすこぶる快調です。血圧も体温も平常の値で、とにかく夜はぐっすり眠れます。

 マニラでは「ダラーッ;;」とした感じだった私の体が、バギオへ越して来てから、少し「シャキッ!!」とした、といった表現が適当かもしれません(^^)。

 写真は、バギオの前に一年近く住んでいた「バンガロースタイル」と呼ばれる平屋の写真です(今年1月撮影-介護者マリアさん)。 トタン屋根で天井が低いので、かなり暑さがこもりました。ですから、早朝の室温(最低室温)も30℃前後・・・という酷暑の中での生活な訳です。これまで十年に及ぶフィリピンでの生活で、借りた家のほとんどはこのスタイルでしたが、このラス・ピニャスの家はネットで見つけたということもあって、家賃が二万円を切り、これまでで一番安い家でした(2LDK、床面積70㎡、築35年)。

 そこでの一か月の生活費は、介護者等のお給料etc.を除けば、家賃を含めて約四~五万円でした。

 余談ですが、「ラス・ピニャス-Las Piñas(スペイン語)」は、英語で「The Pineapple」(ザ・パイナップル)で、パイナップル畑が多かったことから名づけられたそうです。

 ちなみに「松の木」は「pine tree」です。