アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

モーニング・サンシャインでサンバーン…!(ちょっと日焼け^^;)

2009-06-27 19:10:38 | フィリピン-バギオ

 今日は、日本では今年一番の暑さだったそうですね。福島で35.7℃、東京都心も31.8℃の真夏日だったとのこと…、先が思いやられますね。

 ここフィリピンのバギオ市は、昨日に続いて今日も午前中は快晴でした。写真は、グリーン・バレーのコンドミニアム2階から見た、お隣のサント・トーマス山(Sto. Tomas)、午前8時過ぎの青空です。
 
今朝は電動車いすも快調で、陽気に誘われふらりと散歩に…。モーニング・サンシャイン…「今日は太陽がまぶしい!」
 
ところが、ここグリーン・バレーは、そうそう青空が続きません。今は雨季の真っただ中ですが、そうでなくても、お昼頃から雲に包まれ、時には周囲が真っ白になるので「Foggy Hill」(霧の丘)とも呼ばれています。今日も、9時頃から雲がもくもくとわき上がってきました。

 

 そして、そのサント・トーマス山に近づいて行くと、いつものように雲が・・・と(形容できない…「もっくもく?」「ブワーッ?」)、凄まじいスピードでわき上がって来ているのでした(語いの貧困)。
 

 この雲は、大概、私が1か月過ごした場所の方に(写真右・北西方向に)流れていきますが、今住んでいる場所にも南西からの季節風によって運ばれてきたりします。
 
 
今日もお昼過ぎにはもう薄暗い雲がどんよりと垂れこめ、ふわーっと煙のように雲が迫ってきて、ひんやりとした空気に変わりました。そして、電動車いすのリクライニングができなくなりました…。

 
<5日前の同じ場所での写真・サンフラワーが一輪、寒そう…。>

 ここグリーン・バレーは、治安が良く、静かで自然にも恵まれ、また空がとっても近いのです。手の届きそうなくらい近い雲の刻々と変化する様子、早い流れを眺めているだけで、自然のパワーをいただき、生きてることを実感できるようです。

 
青天の午前中、1時間ほど周囲を歩いてきただけでしたが、今も顔がやや赤くほてり、ちょっと日焼けしてしまいました。あっ、今(午後630分、雨が降り始めました…。「♪雨が空―から降ればー…」

 
バギオ市、メトロ・マニラのあるルソン島は、11月頃まで雨季ですが、その期間の長さを思う時、バギオでの2月の「フラワー・フェスティバル」が盛大に開催されるのが納得できるような気がしました。
 
ちょうど、雪国の人たちが、冬の厳しさに耐えながら「春」を待ちわびるような心境と似ているのかもしれません。

<バギオ市のフラワー・フェスティバル↓>

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/d/20090201

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/5794d8c4249b12d160b7a0cd7604ec8e

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/3d8aa37d41cad8a3a3e293e7dfc697a8


電動車いすリカバリーの兆し?台風一過に…。

2009-06-26 12:01:23 | フィリピン-バギオ

 昨日は、3日前にレイテ島沖、太平洋で発生した台風4号(Typhoon Feria・フェリア)の影響で、朝早くから時折強い風が吹いていましたが、マニラ西方を通過後、南シナ海を北上し、バギオからはそれたようです。今日は、午前中、台風一過の青空が広がっていました。
 先週南シナ海で発生した台風3号のフィリピン名も、Typhoon Feria(フェリア)でした。が、2号のEmong「E」、3号のFeria「F」に続く台風4号ですから、「F」の次のアルファベットの「G」を頭文字にした名前が来るはずなのに…。と、気にしていたのは私だけで、二人の介護者は「だって同じ台風だから…(3号と4号が…)。」と言っていました(?)。そして、台風2号の頭文字がどうして「B」ではなく「E」なのか、というと、フィリピン気象庁(PAGASA)によれば、Typhoon Emongは2つ目ではなく、今年「5つ目」だったから「A」から数えて5つ目の「E」が頭文字なんだ、とジェンさん…。納得!?

 
さて、私の電動車いすも晴れたり曇ったり…。今日みたいに湿度が80%以下になり、晴天の日には好調のようです。少しずつリカバリー(回復)しつつあるようにも思えます。
 
そういえば、昨日はまたプリンターの電源が入らず、ドライヤーをかけてあげるとスイッチ「ON」!電動車いすも、しばらくヒーターをかけてあげると、動かなかったリクライニングが急に動き出したりします。1か月過ごした、前の高湿度のコンド・ユニットのダメージはまだ尾を引いていますが、ITや電気機器の状態が良くなったものもあり、ちょっとほっとしています。
 
それでも、今後の本格的な雨季、降水量の多い7~9月を迎える前に、ここグリーン・バレーを下りた方がよさそうです。

 
先日、日本から、何と「蕨・わらび」の色と柄の手拭いが届きました。このブログを読んでくれているAYAKIさんからのギフト、手拭いというよりアートですね、これは…。「早春に愛らしい芽を出す早蕨は『生命力』の象徴とされ、健康祈願の演技柄として好まれてきた」そうで、「これは…!」と思い、昨夜は電動車いすに羽織らせて寝ました(^^)。
  

 
彼女の著書『カルフォルニアごぱん』(カリフォルニアのごはんとパンだから「ごぱん」です。)も同封されていました。フリーアナウンサー木佐彩子さんの「今すぐにでもカリフォルニアに行きたい!!」というコメントにもうなずけるような中身の本でした。サラマッポ!

 http://ayakicks.exblog.jp/

 最近は、男性や若い女性をターゲットとした料理本がよく売れているそうです。「(材料費が)安く」「手軽で簡単にでき」「そのわりには美味しい」というレシピが掲載された本が好評なんだそうです。

 あっ、一昨日、介護者の二人が散歩がてらに外へ出て、例の群生地で採ってきてくれた「遅蕨」(まだ出てる…日本でいえば夏蕨?)です。まだまだ柔らかくて、美味でした!
  

-敷いてあるのは、ジェン(お父さん)が持って来てくれたアウジ・アラビアの新聞…。ガザ地区での話題が一面です。-

 ジェンさんは、家族とよく相談した上で、この9月から、そのサウジ・アラビアの病院にアプライすることに決めたそうです。本人いわく「90%、ダイジョウブ…(サウジ行きが)。」Good luck!!!


沖縄慰霊の日に…。

2009-06-23 20:35:55 | フィリピン-バギオ

 今日6月23日は「沖縄慰霊の日」、地域住民を巻き込み、約20万人が命を落としたという、旧日本軍による3か月間に渡る沖縄地上戦が終結した日です。
 
糸満市の「沖縄平和祈念公園」で行われた、沖縄全戦没者追悼式の様子は、テレビでも中継されていました。子供代表、比屋根くん(小6)自作の「平和の詩」の朗読には胸を打たれました…。
 
人々が追い詰められた場所に設置された「平和の礎(いしじ)」には、国籍問わず24万856人もの犠牲者の名前が刻まれていると言います。実に、沖縄県民の4分の1が、この地上戦で命を落としたそうです。それから64年…、沖縄が祈りに包まれた一日でした。

 1904年には、その沖縄からも、ここフィリピンのバギオのケノン道路(ベンゲット道路)建設のために、多くの人たち(約360名)が渡ってきたという歴史もあります。
 
~バギオにおける中国人の歴史展(SMバギオ)写真パネルから~
-6月14日・許可を得て撮影-

 さて、私の電動車いすですが、少しずつ回復しているように思えたりもします。昨日の午前中は、久しぶりに青空が少しのぞいていて、(電動車いすの)リハビリを兼ねて、しばらく外を散歩してきました。すがすがしい一日でした。

 しかし、今日は一転して、お昼にはもう周囲が真っ白くなり、家の中の湿度も90%を超え、また止まってしまいました。
 
(6月23日正午頃-家の窓から)
 
以前は、雲がふわーっと迫って来るのが幻想的でロマンティックにさえ思えたものですが、今は、トラウマになりつつあります。私の体も気候には敏感に反応しますが、今の電動車いすの状態もそのようで、特に湿度には非常に敏感なようです。謎???だらけで不安な日々、もう少し様子を見たいとは思いますが…。


見えないものを伝えよう!…「課外授業・ようこそ先輩」 in 金沢

2009-06-22 05:15:38 | フィリピン-バギオ

 昨日の朝は、NHKの『課外授業・ようこそ先輩!』という番組で(NHK World)、金沢市出身の俳優「篠井(ささい)英介さん」がゲスト(先生)でした。「見えないものを伝えよう!」というテーマで、金沢市立中央小学校6年2組の児童に、ふすまの開け閉め、お茶の作法、日本舞踊などを通して「相手に何を伝え、相手は何を受け取るか」といった問いかけをしていました。篠井さんは、「ふすまは、別にこんなふうに開けてもいいじゃない?」と乱暴に開けて見せ、「お茶もこんなふうに飲んでもいいじゃない?」と作法など気にせずに…。
  そして、その日本の伝統文化の中に、
確かにあるけど「目には見えないもの」とは何なのか、児童たちは必死に考えていいました。(この辺りで、テレビ画面にザァーっ;と雑音が入って見られなくなりました。…残念)

 それから、ふとミンダナオ島ダバオ・オリエンタルのサン・イシドロ町にある孤児院「House of Joy(ハウス・オブ・ジョイ-歓びの家)」でのことを思い出していました。「見える行動で見えない愛を表現したい」というモットーを掲げ、日々子供たちと奮闘されている様子は、次のホームペ-ジで見ることができます。

 http://www.bonchi.jp/joy/nihongo.htm

 http://houseofjoynikki.blogspot.com/ (ブログ「ハウス・オブ・ジョイ日記」)

 子供たちたちにとっては、設立者でいつも子供たちと一緒の時間を過ごされている烏山逸雄氏が「お父さん」なのでしょう。(子供たちからは、「Uncle イッチャン…」と親しまれています。)
 
(ハウス・オブ・ジョイの子供たちと…。右側に見えるのは、聖母マリアさまと幼きイエスさまの像)
-2003年10月撮影。
 翌2004年、後ろに見える建物は、新たに建て替えられました。

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/8aa9672e9f60df57e28f4319660727bf

 昨日「父の日」には、日本、フィリピンから私もうれしいメッセージを受け取り、ありがたいことだと思いました。「心は、はなれていても通い合います…。」
 朝には、介護者の二人にも「Happy Father’s Day!」と声をかけられ、「Same to your father…」とお返ししました。朝は、ジェンさんがモンテ・クリスト(Monte Cristo)という麦入り食パンにチーズとハムを巻いた揚げ物を、お昼はマリアさんがパンシット・ビーフン(Pancit Bihon野菜と豚肉入りビーフン炒め)を作ってくれました。こうした料理の中にも、前者はキリストの名前のついたレシピ、後者は長寿を祈る麺(長い)のレシピと、二人のさりげない心配りを感じました。

 表紙の写真は、今、緊急避難している家の部屋に貼ってあった「GodThe Father(神) & Sto. Niño(幼きイエス)」が描かれているカレンダーです。1998年…12月のクリスマス・イヴに、私が、この家のオーナーと、マカティ市のコーヒーショップで初めて会った年です。フィリピン独立100周年の年でもありました。

-マカティ市に来て三日目の昼下がり、暑さでオーバーヒートした体に加えて貧血気味だった私は、冷房の利いたホテル内のカフェに行き、コーヒーを注文した。クッキーが付いてきたので、「一つちょうだい。」とメルに頼むと、彼女は慣れない手つきでおそるおそる私の口元に運んできた。私は、冗談半分に、その彼女の指をクッキーもろとも「アウッ!」と声を出して食べるまねをした。すると、隣のテーブルにいた体格のよい男性が、それを見て大声で笑い、私に声をかけてきた。「Hi! How are you?」(やあ、元気かい?)という彼の声は、太くて迫力があった。私も挨拶を返すと、「一体どうしたんだい?」と聞くので、いつものように私の体の状態などを説明した。彼のその風貌と態度からしてフィリピン人ではないように思え、「失礼ですが、フィリピン人ですか?」と尋ねると、意外にも「まあ、そうだよ。」という答えが返ってきた。「オレはロレンツォ。Nice meeting you.」と自己紹介され、「私の名前はイッシン。よろしく。」と返事をした。
 
フィリピンは、長期に渡りスペインの統治下に置かれていたため、その影響が今でも色濃く残っている。フィリピンの言語の中には多くのスペイン語が混じっているほか、スペイン人の血が入っている家系も少なくない。ロレンツォもそうだった。ひょんなことで出会った彼は、小説家であり詩人でもあった。話し始めると、彼の口からは、ニーチェをはじめとする哲学者や社会思想家の名前が次々に出てくる。『ツァラトゥストラ』や『超人』など、私の好きなニーチェの著書の名前を聞いただけで親しみを感じた。「超人は、地球(天に対しての地)を破壊したと思うか?(Did The Superman destroy The Earth?)」などと、彼の質問は私には唐突で難しく、彼の持つ独特な雰囲気に圧倒された。必死に答えようとしている私の表情を見て、彼はまた大声で笑った。私も一緒になって笑った。-
(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』上巻)

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グリーン・バレーで、しばらく様子を見ます…。

2009-06-19 17:37:51 | フィリピン-バギオ

拝啓

 今日は、南シナ海で発生した台風3号(フィリピン名Typhoon Feriaの影響か、早朝から強い風が吹いています。しかし、今回は上陸せずに北上する模様です。5月7日の台風2号(Typhoon Emong)は、南シナ海に発生後、大変なスピードでバギオ市を直撃、南シナ海に面するお隣パンガシナン州やラ・ウニョン州では、漁師さんなど数十名の死者・行方不明者が出ました。タガログ語で台風を「Bagyo・バギィオor バギョ」といいますが、ここバギオも、よく台風の通り道となることから「Baguio・バギオ」という地名になったという説もあるそうです。
 さて、私は、17日に1か月間過ごしたコンドミニアムを出て、結局、グリーン・バレーの元のコンドミニアムに戻りました。前日(16日)は、これまで病院になどかかったことのない、いつも元気な介護者が急に腹痛を訴え、移るのを一日延ばし、翌日またトラブルが…。
 
当初移る予定だった、バギオ市の中心部バーンハム公園近くのコンド・ユニットは7階。ところが、当日(17日)は荷物を持ってそこ(地下駐車場)へ行ったものの、電動車椅子のリクライニングがびくともせず、エレベーターにさえ入ることができない始末…。数時間、お昼下がりまで公園の近くで過ごしました(粘りました)が、とうとう最後まで動かず、即、エレベーターを使わずに住める、グリーン・バレーの元のコンド・ユニットに戻るべきだと判断した次第です。
 
ここには、昨年来7か月間いて、ここを出た後1か月間、いろいろなことがあった後だけに、入った瞬間に、勝手知ったる我が家…という懐かしい感じで、少しほっとしました。そして、何と、車いすの方もホットしたのか、家に入って数分後、急にリクライニングができるようになった(動き出した)のです!(その後、また止まりました。)
 
先月から1か月間過ごしたコンド・ユニットは、わりと新しく、静かで環境もよかったけれど、湿度が異常に高い、という落とし穴があったということです。
 
移乗用のリフトは充電器がやられたようですが、電動車いすと同じように、充電時にバッテリーを取り外し、こちらで手に入れた充電器を使えば問題なさそうです。
 
問題は、電動車いすのリクライニングのトラブル。上下しようとする際に、突然止まったり、また動き出したりする、ということです。「走行」…動くのには、今のところ問題ありません。原因がはっきりしないので戸惑っているのですが、この電動車椅子も6年間使い、もうかなり疲れがきているようです。
 電源が入らなくなっていたプリンターとバッテリー充電器は、突然カムバックしましたが、テレビとビデオカムは前と同じ状態です。コンピューターは、Internet Explorerに問題が発生、未解決です。
 私の通信機関であるコンピューターと携帯電話がやられなかったのは幸いでした。

 それに
、おかげ様で、体調はマニラにいた頃より良く、快調です。慣れた介護者二人が住み込みでいてくれ、助かっています。私にとってとても大事な電動車いすやリフトが、動いたり止まったり…。そんな瞬間、瞬間に、私同様一喜一憂してくれる彼女たちには救われる思いがし、ありがたいことだと心の中で手を合わせています。
 
ここしばらくの間、電動車いすの様子を見ながら、もう少しここでのんびり過ごしたいと思います。雨季ですから、ここも湿度は高いですが80~85%ほどで、前のユニットほどではありません。まあ、大丈夫です。床ずれなんかに比べると、今回は機械の問題ですから…。
 
それから、日本の家族に頼んで、家に眠っている手動(手押し)の車椅子を急きょこちらへ送ってもらいました。約1か月後、手動の車いすが届いた後で、こちらの電気技師に、壊れてもいいから…ということを前提に、電動車椅子の配線やコントローラーを開いて見てもらおうとも考えています。

 また、しばらく家で大人しくしていようと思います。
 
取り急ぎ(?)、お知らせまで。

                             敬具


電動車いすetc.電気系統のトラブルは湿度と関係がある!?

2009-06-15 09:57:31 | フィリピン-バギオ

 新居のコンドミニアム(グリーン・バレー)に移ってちょうど4週間が経ちました。

 先日来、気になっている電動車椅子の電気系統のトラブル(時々、突然リクライニングの上下ができなくなるといった…)は、どうもここの気候と関係がありそうです。

 以前、JANLの小国さんからいただいた資料ですが、ネット上にこんな記事がありました。↓

「気圧と血圧の関係…低気圧が来ると血圧が上昇することは誰しも経験することですが、同様に標高の高い山に登ると気圧が低下し血圧は上昇します。
標高が100m増すごとに<
 (1)気温は約0.6℃低下
 (2)気圧は約1.2%低下
 (3)血圧は33.5mmHg上昇 …します。」

「低気圧と血圧の関係」

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~kinosita/hd.htm

 標高差による血圧の上昇…というデータが本当なら、ここグリーン・バレーでは(標高1600m+)、平地より50mmHgくらいも上昇するということになります。単純に計算するとそうなりますが、適応力のあるヒトの体は、どこかで制御されるのでしょう。
 
金沢市の最高峰奈良岳が1644mですから、その奈良岳のてっぺん辺りで暮らしている感じなのでしょうか。(卯辰山の標高141m、医王山は931m…ローカルな情報で恐縮です。)

 ここではスナック類の袋もパンパンに膨れ上がります。↓
 
(左のテンプラ・スナックの3分の1は空気…!ちなみに袋の絵(写真)はエビフライ? 右のは、アルミ袋のポテト・チップスです。)

 ところが、実はもっとシリアスで、電気系統に故障を及ぼすのは、異常に高い「湿度」なのではと、最近になって思うようになりました。(電磁波?そこまで調べられない…。)
 
まず、ビデオカムに「つゆがつきました。カセットを取り出して下さい。という表示が出て撮影できなくなる。朝テレビをつけるとジジジーッと音がしてショートしそうな?感じ。こちらで手に入れたバッテリー充電器も突然電源が入らなくなる。コンピューターにもこれまでなかったトラブルが…。と、ここ2~3週間で電化製品に次々に異変が出始めています。
 
極めつけは、いつもベッドから車いすへの移乗に使っている、移動式リフト(日本製)!三日ほど前から、上げ下ろしの際に「キーン」と音がし出し、昨日、ついに止まってしまいました。ピンチ…。
 電動車いすと移乗用リフトの調子が明らかにおかしくなり始めたのは、今の新居に移ってからです。…
 
今回の引っ越しは、まず様子を見たい…ということで「賃貸契約」はなく、1か月でも出ることは可能です。避暑地バギオでは、そういう短期・中期・長期で家を借りることができるのです。そして、1か月以上借りると格安になります。
 
もう後がない…といった感じで、昨日ここの管理事務所に事情を話し、急きょバギオ市街地へと下りて、コンドミニアムを探しました。標高差にして200mはあります。雨季で湿度が高いのは同じですが、今のコンド・ユニットは特に高く(ほぼ毎日95%以上)で、よく天井とか結露します。そして、午後はたいがい雲の中に入り真っ白、視界数メートルにもなります。
 
私自身の体調は、マニラにいた頃よりずっと良いのですが、これまで経験したことのない、思ってもみなかった電気系統のトラブルの数々に、ちょっと驚き戸惑ったのです。

 
そして、バギオ市中心部バーンハム公園の近くで、間取り2LDK、広さ54㎡、家賃月約3万円+…と、今と同じくらいの条件のコンド・ユニット(やはり家具付き)を、飛び込みで見つけました。今はシーズン外で、どこもかなりの空きがあるようです。
 
そこで、とりあえずまた「1か月」過ごしてみて、それでも電気系統のトラブルが続くようなら、またその時に、次の手を打ちたいと思います。
 
明日16日、次のコンドミニアムに移ろうと思います。


フィイリピン独立記念日に…。(111周年)

2009-06-12 18:09:08 | フィリピン-バギオ

 今日、6月12日は、フィリピンの人たちにとって大きな意味を持つ日です。
 
111年前(1898年)の今日、「エミリオ・アギナルドーEmilio Aguinaldoというフィリピン独立運動の指導者が、3百年以上続いたスペイン統治(植民地)に終止符を打つべく、フィリピンの独立を宣言しました。
 
その前年1897年末、スペインとの和平協定を結んで香港に亡命、一旦は独立運動から離れたアギナルドでしたが、翌18982月に勃発した米西戦争(アメリカとスペインの利権争い)で事態が急変します。アメリカから、フィリピンの独立に全面協力することを条件に、米西戦争に協力するようにとの要請を受け入れたアギナルドは、米艦隊とともにフィリピンに帰国し独立運動を再開、この6月12日の独立宣言となったのでした。
 
アギナルドは、その翌18991月にフィリピン共和国を樹立、初代大統領となりましたが、実はその1か月前にスペインとアメリカとの間で結ばれたパリ講和条約で、フィリピンの領有権がスペインからアメリカに、約2千万ドルで売却されていたのです。
 
実質は、戦後194674日に第3次フィリピン共和国として独立するまで、アメリカの統治下(19421945年の3年間は旧日本軍の占領下)にあった訳ですが、フィリピン国民にとっては、その6月12日が「独立記念日-Araw ng KalayaanIndependence Day)」として大切にされており(祝日)、毎年記念行事が盛大に行われています。現在の国旗と国歌も、その時にアギナルドの依頼によって作られたものです。

 そして、そのスペインからの独立運動の闘士として、フィリピンの国民的英雄とされているのが、「ホセ・リサール博士-Dr.Jose Rizal」です。
 
スペインの圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状、諸問題を厳しく告発した『ノリ・メ・タンヘレ-Noli Me Tangere(我に触れるな)』(1987)と、『エル・フィリブステリスモ-El Filibusterismo(反対者)』(1891)の二つの著書は、フィリピン独立への気運を高め、自らも1892年に「フィリピン民族同盟」を設立して、フィリピン人の奮起を促そうとしますが、まもなくスペインに対する反逆罪で逮捕され、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan)へ追放されました。その流刑の地にあってさえも、四年間、リサール博士は病院と学校を作り、住民の啓蒙に努めました。
「学校を苦痛の場所ではなく、知的な楽しみの場所にしよう。」「何よりもまず、子供たちに、自信、安心、自尊の心を教え込む事が大切だ。」また「私は大衆の福祉を愛する。だからこそ学校を建てるのだ。その幸福を、教育を手段として、順を追った前進によって私は追及していく。光のないところに道はない。」という、博士の強い意志で建てられたその学校で教わった生徒たちは、後に各方面でのリーダーとなり、博士の教えを周囲に伝授していったそうです。
 
18967月、流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに渡りましたが、フィリピンでは「カティプナン」による独立闘争が開始され、その扇動容疑でスペイン到着と同時に逮捕されてしまいます。マニラに送還され、サンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により銃殺刑が宣告されます。
 
18961230日、「あけぼのを染めるのに紅がいるのなら、私の血で染めよ、頃よい時にまき散らし、さしのぼる君の光で金色に照らせ!」という言葉を残して処刑されました。
 
アギナルドの独立宣言の1年半前のこと、享年35歳という若さでした。

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/d/20081230

 国内のみならず、アジアの民族運動にも影響を与えたとされているリサール博士は、1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』をベルリンで公刊した後、18882月には日本にも来日し、4月まで東京都内に滞在しています。日本には「おせいさん」という恋人もいたそうです。この日本訪問を記念して、東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されています。↓
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
(フィリピンの歴史)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
(ホセ・リサール)

 
(左が1ペソ硬貨・ホセ・リサール博士で、右が5ペソ硬貨・アギナルド将軍)


「バギオ・ボーイ」古屋英之助さん(写真家)…アイ!サラマッポ!

2009-06-11 10:01:01 | フィリピン-バギオ

 現在バギオ市のSM(シュー・マート)地下ギャラリーで、バギオ市制100周年にちなんで、バギオ市街中の「1」から「100」そして「101」の数字を、3年間かけて撮影されてきた古屋英之助さん(横浜市)の写真展が開かれています。(このブログ内の以前の記事↓)

 

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/3a30118b04ac3130ebe0a824b646614b

 

 4月4日から開催されているこの写真展は、当初は6月8日までの予定でしたが、もうしばらく延長されることになったそうです。昨日(10日)の全国紙「Daily Inquirer新聞」でも取り上げられたとのことです。オープニングの際にも、まにら新聞で大きな記事になっていました。↓

 
http://janl.exblog.jp/8150892/

 http://janl.exblog.jp/8101523/ (関連記事)

 その個展の百四十点余りの作品搬出のために、日本からバギオに来られていた古屋さんが、JANL(ジャンル・北ルソン日本人会)会長の小国さんと、昨日、私の新居を訪ねて下さいました。(写真・左)
「いやあ、この辺りはよく遠足で来たものですよーっ。その当時はなーんにも無くって…。ずい分変わっちゃったなぁ…。」
 バギオ生まれの古屋さんは、日本人コミュニテイを含めて、戦前の平和で豊かだったバギオ市での日々、そして、1941年12月8日、(バギオ市民にとって)突如として勃発した太平洋戦争によって目にされた数々の地獄を鮮明に覚えられていらっしゃいます。バギオがアメリカ軍によって陥落(1945425日)する以前からコーディリエラ山中、バナウエ方面までも逃げ回っていたそうですが、当初約3千人いたお仲間のうち、2千人ほどの人は途中で亡くなったと話されます。死因のほとんどは餓死だったと…。その後、収容所での生活を経て、12歳の時にまだ見ぬ日本へ強制送還されたのだそうです。まさに、歴史の生き証人と言える方を前に、真剣に、小国さんも私もそのお話に耳を傾け、胸の詰まる思いでした。
 写真家であったお父様の後を継がれたご本人ですが、故郷バギオへ帰って来られる(訪ねられる)日は、二度と巡ってこないだろうと半ば諦められていたそうですが、約二十年前に、ケノン・ロード建設時の日本人の功績をたたえる記念碑が作られた際に、四十四年ぶりにバギオに戻って来られたそうです。その時、古屋さんがどんな思いを抱かれたか、想像するになお余りあります。
 今回の写真展は、小学校までバギオで過ごされた古屋さんが、戦争によって死別、または生き別れになったままのご友人やお知り合いの姿だけでなく、きっと失ったものの大きさをかみしめ、追い求めながら、遠い心の奥にある郷愁とともに、渾身の思いで撮影されてきた写真が展示されたものなのだろう、と思いました。
「この1から100までの数字の写真を見られてどう感じましたか?」と古屋さんに問いかけられ、「一つ一つの数字を含むお写真に、バギオの歴史とともに、古屋さんのバギオへの思い、ここで暮らす人々の生活感がにじみ出ている気がしました…。」と答えました。
 帰り際、古屋さんが大きな封筒からおもむろに取り出された「100」の数字のパネル写真、撮影されている古屋さんの影が写っている、見覚えのある印象深い作品を、私にと差し出されました。「エッ?」と驚き、恐縮している私に「どうぞ…。」と笑顔で手渡された時の感激といったらありませんでした。
「アイ!サラマッポ…古屋さん!!」

 

 

Keeping Count, Homing In,”という写真展のテーマとともに、故郷バギオを思う古屋さんが大切にされている、T.S. Eliot Cinの詩(『Four Quartets』から)を直筆で書いてくださいました。

We shall not cease from exploration
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.
Through the unknown, unremembered gate
When the last of earth left to discover
Is that which was the beginning;

 この部分は、長編の意味深い詩『Four Quartets-4つのカルテット(四重奏曲)』(1943-戦時中)の、最後の章『Little Gidding』第5節にありました。↓

 http://www.ubriaco.com/fq.html

 http://ja.wikipedia.org/wiki/T%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88

 古屋さんは、明日日本に戻られるとのことですが、9月1日のバギオ市制100周年記念日のお祝いに、そして9月3日の「日比国際平和演劇祭」には、もちろんバギオに来られるとのことでした。

 http://homepage3.nifty.com/japitac/index.htm

 その「日比国際平和演劇祭」ですが、会場は「バギオ・コンベンション・センター」に決定、と小国さん…。私も、ぜひその場にいたいので、できれば今年の日本への一時帰国はそれ以降にしたいと思います。


フィリピンでの引っ越しにつきもののトラブル-今回も電動車いすが…。

2009-06-10 10:18:37 | フィリピン-バギオ

 グリーン・バレーの新しいユニットに引っ越してちょうど3週間が経ちました。
 
私は、フィリピンでの自立生活を始めて10年になりますが、その間に引っ越しは11回もしています。
 13の市からなるメトロ・マニラでは、計5年半の間に、ケソン市で2軒、ラス・ピニャス市で3軒、パラニャーケ市(コンドミニアム)で1軒の家に住みました。
 4年間住んだダバオ市(20032007)でも4軒。そして、昨年10月にここバギオ市に来て2軒目(コンドミニアム)です。
 
 自分では放浪癖があるなどとは全く思っておらず、それぞれの引っ越しにはそれなりの理由があったのですが…(^^;)。
 
そして、フィリピンでは引っ越す度に何らかのトラブルが起きるので、いつも賃貸の契約をすませて初めて家の入る時は、塩とお米、日本酒でお清め(お祓い)をするようにしてします。お清めをするのは、フィリピンでは、よくお化けの出る家があるから、ということもあります。

 一番怖かったのは、ダバオ市に移っての1軒目。この家は、2か月で出ました(逃げ出しました)。6年経った今も、周囲の人がエクソシストを探していると聞きます。
 二番目は、フィリピンに来て初めて住んだケソン市の家。どちらも、マニラ、ダバオの最初の家で、古くて大きめの家でしたが、実はそれぞれの家には隠された過去、秘密があったのです。気配は感じたものの、いつもその嫌な予感がはっきりするのは、ご近所の話などを聞いた後のことなので、仕方ありません。一つ確かなのは、どちらもずっと空き家だった、ということです。
 引っ越しに付きものの憑きもの!?フィリピンで家を借りる際は気をつけましょう。

 さて
今回は、引っ越し当日に小さくお尻の皮膚がめくれた(軽い床ずれ)程度で、何事もなかった…と喜んでいた矢先に、またしても電動車椅子がトラブってしまいました。
 一週間前、突然リクライニングができなくなったり、逆に急に動き出して止められなくなったりと、かなり焦りました。その時は、ちょっとスイッチ・ボックス内の電気の線をチェックして元に戻った、と思ったのですが、その後もよくリクライニングが機能しなくなり困っています。こちらの電気技師に見てもらうのも勇気が要り、彼らもまた扱ったことのないものを進んでチェックしようとはしません。原因が分からないのが一番怖く、様子を見ているいるところですが、しばらく外出は無理のようです。電動車椅子は、私の足代わり、というより、もう体の一部のようなもので、これがへそを曲げればもうお手上げです。
 実は、バギオの前のコンドミニアムのユニット(最初の家)でも、マニラから、引っ越す前の9月に下見に来た時、介護者の一人が誤って、こちらの220V電圧のコンセントに、直接電動車椅子の充電プラグを差し込み、「パン、パーン。」と爆竹のような音の後で、内蔵充電器が使えなくなった、というトラブルがありました(変圧器をセットしてあったにもかかわらず…)。その後は、どうしようかと考え悩んだ挙句、こちらでシールド・バッテリー(密閉型)を充電できる外部充電器を探して購入、現在もそれを使って充電しているという状態です。

 あと、ここグリーン・バレーは「よう停電になりまんにゃわー」(吉本井上竜夫?^^)。これも、日本から持ち込んだエア・マット(床ずれ予防)を使っている私にとっては脅威です。作業停電に、悪天候による停電だけでなく、これまで経験したことのない一瞬停電が多いのです。バチッと突然停電になり、その後2~3秒後に元に戻るといった…。
 それから、グリーン・バレーには電話のラインはあっても、DSL(日本のNTTのADSL技術)という高速インターネット・ラインがまだ来ていないことが最近になって分かりました。ここでは、ダイヤル・アップ(日本では死語?)か、今使っている無線モデムでしたネット接続はできない、ということです。これでは。シグナル状態のよい時で「3040kbph」という低速で、動画等はまず見ることができません。(1Mbを超えるような重いメールはご遠慮ください^^;)。

 以前もチラッと触れましたが、フィリピンで住んだ借家はほとんどが、下の写真のようなバンガロースタイルと呼ばれる平屋でした。こういう明るい感じの家で、大家さんの身元がはっきりしている場合は、私の経験上まず大丈夫です(お化けは出ません)。

 
(2002年 マニラのラス・ピニャス市 一年間住んだ家…外見は新しく見えますが、築三十数年くらいで雨漏りもしました。2LDK月約2万円。)

 この家の後に、ダバオへ引っ越すことになったのですが、ダバオ到着後、一週間探し続けてようやく巡り合った(!)古いお屋敷に、若い女性のお化けが出たのです。(続く)


雨季の晴れ間に、久しぶりの外出。

2009-06-09 11:09:55 | フィリピン-バギオ

 昨日は、朝から本当に久しぶりの青空が広がりました。雨と霧(雲)で曇っていた窓のガラス戸を開けると、こんなさわやかな景色が見えます。松の木の手前に見えるのは、上り坂の(下り坂?)の道路です。
 街へは車で20分ほど…「雨季の晴れ間」に久々に外出してきました。
 用事をすませた後、陽気につられ、これも久しぶりにバーンハム公園を少し歩いてきました。下の写真は、その公園の池、中央奥に見えるのがバギオ市庁舎です。
  

 バギオ市は、戦前、1898年の米西戦争の後、フィリピンがスペインからアメリカの占領下に置かれた後、アメリカによって、避暑地として造られた街です。この公園を市民の憩いの場として市の中心部に位置し、周囲にはオフィス街や商店街が広がっています。
 
ところが、この花と緑に囲まれた公園には、未だにスロープがありません。よって、車いすでは池の近くまで行くことはできず、公園の周辺を回るくらいです。
 
車椅子でキャンディやタバコを売っているおじさんに「公園内にスロープはないの?」と聞いたら、「エッ?ない、ない。」…4~5段ある段差を指差し、「ここを下りるしかない…。」と苦笑いしていました。私は、「Ah OK…やめとくよ。Thank you.」と言ってその場を離れました。
 
その池の反対側に目をやると、貸自転車が並んでいる上の方の丘に、バギオ市一の大きなショッピング・モール「SMバギオ-Shoe Mart」が見えます。このブログでも何度か掲載した市の眺望写真は、ここの3階から撮ったものです。
   

 さて、一週間前に、電動車椅子のリクライニング機能がおかしくなったトラブルですが、どうも電気系統の故障のようで、その後も時々、突然動かなくなってしまいます。

 
 
リクライニングの上げ下げは、あごのチン・コントローラーと、右アームレストのレバーでもできるようになっているのですが、その両方とも利きません。私くらいのレベル(C4)の頸髄損傷者はみんな起立性低血圧と言って、頭部を上げたり、ベッドから車いすに移ったりした直後にスーッと血圧が下がり、ひどい時には貧血で気を失うこともあり、リクライニング機能はとても大切なのです。
 
先週は、リクライニングができることを確かめた上で何度か車椅子に移乗しましたが、しばらくすると機能せずに止まってしまうのです。私が重いから?と思ってベッドに戻って動かしてみたりもしましたが、やはりびくともしません。そして、私が乗っていようがいまいが、小一時間も放っておくと、突然また動き出したりと…。原因が分からないだけに、ちょっと、こ・わ・い…!?
 
調子が悪いのはリクライニング機能だけで、動くことはできるので、昨日は、車に乗り込む時に頭部を下げて、リクライニングを倒した状態で移動しました。
 
車に乗り込むには、下の写真のように2枚のスロープを渡して後部から入り、チェーンで車いすを固定します(バギオの以前の家で撮影)。
 

 ところが、約5時間の外出の間、時々、おそるおそるリクライニングを上下させてみたところ、全く問題なかったのです。そして、家に戻ってものの数分もすると、また止まってしまったのです!とりあえず、もう少し様子を見ようと思います。

 
ところで、ここ二週間OJT(On the Job Training-試用期間のケアの練習)に入っていた正看護師ですが、欠勤が多く、そのたびにする言い訳があまりパッとせず…。彼女のOJTは諦め、再びジェンに頼むことにしました。ジェンは明日戻って来てくれます。

<エッ?ランキング入り!?>
 
先週の木曜日(6月4日)に、おかげ様で、このブログが「9822」にランキング入りしました(閲覧数で?)。その前日まではずっと「‐位」と順位なしでしたからちょっと驚きました。私が利用しているのはこの無料gooブログですが、10,000位以内に入ると順位が表示されるようですが、「1,240,065」ブログ中(6月3日)ですから、素直に喜びたいと思います。ちなみに、順位表示が出たのはその日だけです(^^;)。

 今日は、日本も九州から東海地方が梅雨入り…、例年より12日ほど遅かったようです。