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アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

ダバオの「カダヤワン・Kadayawan」と「RP‐JAPAN」フェスティバル!

2009-08-21 13:32:33 | フィリピン-ダバオ

 さて、今日は一転してお祭りの話題です。
 カバーの写真は、バギオ市のフラワー・フェスティバル-Panagbengaではありませんよ。これは、ミンダナオ島ダバオ市の「カダヤワン-Kadayawan」という収穫祭でのパレードの一こまです。二年連続優勝したNCCCモールの山車…「た、たっ、高い!」(2006年)。
 
ここバギオ市と、距離ににして約1200km以上も南に位置するダバオ市とのつながりについては、以前もチラッと書いたことがあります。↓
 バギオ-Baguioとダバオ-Davao (クリックして下さい。昨年1126日の記事)

 ダバオ市は行政区域の面積世界一を誇るフィリピン第2の都市で、やはり3月16日の市制記念日「Araw ng DabawThe Day of Davao」には大きなパレードを含むイベントが開催されます。↓
 
そして、今は、このカダヤワン・フェスティバルが開催中で、あさっての日曜日の午前中には、色とりどりの果物や花で飾られた山車が、多額の賞金と栄誉を競ってメイン・ストリートを数時間凱旋します。↓

 http://www.kadayawan.com/ (第24回カダヤワン祭・24th Kadayawan Festival

 http://www.dailymotion.com/video/xa4eee_kadayawan-festival-2009-teaser-the_travel
(カダヤワン祭のプロモーション・ビデオ)

 以下、ダバオ在住時(2003~2007)に撮った写真から…。
 
(満面の笑みで…2004年のカダヤワン祭)
 
(SMダバオの山車の前でにっこり!…2005年第20回目のカダヤワン祭)
 
(国鳥フィリピン・イーグルも熱気で…優勝したNCCCモール・2005年)
 
(おっと、これは大きなドリアンだぁ!…2006年カダヤワン祭)

  バギオ市で2月に開催されるフラワー・フェスティバルととてもよく似ています。↓

 バギオは花盛り・人だかり-フラワーフェスティバル (3月2日の記事)

 ちなみに、バギオ市の人口は、ダバオ市の約5分の1の約25万人です。どちらも少数民族が多く、民族衣装もオリエンタルでユニーク、独自の文化が受け継がれてされています。
 
そして、ダバオ市では、このカダヤワン・フェスティバルの後、すぐに「RP-JAPANフェスティバル」がフィリピン日系人会(PNJK)や日本フィリピンボランティア協会(JPVA)、日本人会などの関係諸団体の協力で、毎年盛大に開催されます。会場は、PNJKインターナショナル・スクール、ミンダナオ国際大学の構内です。以下の写真は、2006年8月末のRP-JAPANフェスティバルです。「RP」は「Republic of The Philippines」(正式な国名)の略です。↓
 
Oh!陣頭指揮をとっているのはダバシューさんじゃあーりませんか!)
 
(お神輿ワッショイ…ミンダナオ国際大学・MKD男子学生)
 
(民族ダンスもMKDの学生が中心)

 今年も、さぞ盛大なものとなることでしょう。「行きたいなぁ…^^;。」


もう一つの「卒業式」-障がい児通所センターNTC(ダバオ)

2009-03-30 08:55:00 | フィリピン-ダバオ

 以前にも一度記事にしましたが、ダバオ市にある障がい児(スペシャル・チルドレン)通所センター「NTC」は、私がダバオにいた4年間、ずっと関わらせていただいた思い出の詰まった場所です。

http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/e/e84f189a2e0d520a8aa0d22f074999b8

(以前のNTCに関する記事)

 ダバオ市内で、やはり障がい児にリハビリを提供しているマハリカ基金とともに、毎年この時期に「修了式-Recognition ceremony」がとり行われます。言ってみればそこの卒業式ですが、一年に一度、そこに通った全員に修了証書が渡されるので「修了式」といった方が良いでしょう。
 
(2004年の修了式-5年前の今日3月30日)
…私は初めての参列でしたが、ゲストスピーチを頼まれ、日本の障がい者支援制度が整ってきたのも、それほど昔の話ではないこと、当事者である障がい者が声を上げないと当局は気づかないこと等を、家族にも分かってほしいと思って話しました。(ああ、その日はちょうど運賃の値上げを要求してジプニーの運転手の協会がストライキをしていた日でした。)
 フィリピンでは、障がい者・障がい児に対する公的な支援は、私の知る限り、施設はありますが、個々人へは「ほぼ無い」と言ってよいでしょう。「あなたは、日本人でよかったわね…(障がい年金をもらえて)。」とよく言われます。以前、ケソン市でこちらの下院議員の方にも会ったことがありますが、「日本と違ってフィリピンは予算不足でそこまでお金が回らない…。」と言う彼には、何人か秘書兼ガールフレンドがいるとのことでした。フィリピンは、大家族が多いですから、誰か家族の一員が病気やけがの後遺症が残ってケアが必要となった時には、手の空いている人(必ずいます)がお世話をすることが多いようです。あとは、基金や福祉団体、海外のNGOなどによるサポートも少なくありません。
 ただ、このNTCに関しては、理学療法士で設立者のベィブスさんが個人で立ち上げるまでは、ほとんど家から外へ出る機会がなかった子供たちでした。学校へも行けず、リハビリを受ける余裕もなく…。2004年修了式のこの写真では、まだ人数は少ないですが、その後毎年児童の数が増え、場所とスタッフの確保に翻弄されていました。そして、大きな暖かい人の輪、コミュニティが作られ、障がいを持つ子供たちも家族も安心して溜まれる場所ができたのです。そこは、戦前、そこにいた多くの日本人が「人がたくさん集まって栄えますように」という願いを込めて「民多溜」(ミンタル)という地名をつけたところなのです(ダバオ市郊外)。

 この2004年の修了式も、フィリピン最大のショッピングモールグループのSM(シュー・マート)ダバオ支店が、2階の大きな「エンターテインメント・プラザ」という広い会場を無料で貸してくれました。なかなか買い物にも来られない障がい児と家族たちは、朝からおめかしをしてモールにやって来て、お昼過ぎのその式に出席するのです。
 
私自身も、そういう事情もあって、SMのメンバー(全店共通)となり、買い物もそこでするように心がけていたものです。SMダバオも、その時は、まだできて間もなくで、駐車場には障がい者用のスペースが設けられ、どの入口にはスロープもありました。中の通路やスーパーも広めの空間で、とても心地よく感じたものです。「障がいのある方を優先して下さい。」と書かれたエレベーターもありました。人と待ち合わせるにも冷房が利いていて(利き過ぎていた)、「SMで昼食を…」(ティファニーならぬ…^^)という約束をよくしたものでした。
 
しかし、私がダバオに移り住んだ、今から6年前には、そんなSMダバオでも車いすの利用者はほとんど見かけず、チン・コントロール式(あごで操縦)電動車椅子を使っている私には、臆面もない人々の視線を感じたものです。障がい者用の駐車スペースを一般客が利用し、エレベーターの前で待っていても後から来た人たちがぞろぞろと入って、次の、次のまた次のを待たされたりもしました。しかし、そんな事情は、私が文句を言った訳ではないのに、すぐに改善されました。障がい者専用の駐車スペースには、一般の人が駐車しないようにロープが張られ、エレベーターガールは、マナー知らずの客に「ちょっと待って下さい。」と言えるようになり…。その後、次第に、障がい者、車いす利用者だけでなく、多くのお年寄りやベビーカーの親子を見かけるようになっていきました。

 今年も、さぞ多くの人たちが見守る中で、NTCとマハリカ基金の障がい児の修了式が行われたことでしょう。


卒業シーズンに…。ダバオの「ヤギ幼稚園」

2009-03-26 18:38:35 | フィリピン-ダバオ

 ミンダナオ島のダバオ市には、日本フィリピンボランティア協会(JPVA)の副会長八木さんが、20056月に開園された「ヤギ幼稚園」があります。今日は、その4度目の卒園式だったそうです。
「おめでとうございます!」 私は、開園式以来、卒業式にもよく参列させていただきましたが、可愛い園児たちの旅立ちのセレモニーに、キョトンとしている園児たちの隣で、保護者や先生とともに涙を流したものです。

<写真> 2年前の教会内での卒園式(私がダバオを去る直前です。)

「そこでは、女性、母として、そして栄養士としての、八木さんの行き届いた教育理念が伺える。園児への指導だけでなく、保護者、家庭に対しても何を求めていくかをはっきりと示し、特に食生活の見直しと改善を提唱されている。そうした家庭への啓蒙活動も、幼児教育と共に周囲に大きな影響を与えていくことだろう。」
拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻より抜粋)

 
(以前、八木さんが送って下さった東京の夜桜-2006年4月1日)

  明日は、ミンダナオ国際大学(ダバオ市)の4度目の卒業式です。

 卒業と言えば、昨年、私の家族の病気見舞いに、急きょ日本に同行してくれたサラさんから、先日連絡が入り、家庭の事情で休学していた大学の看護課程を無事に卒業したそうです。よかった…。
 日本滞在中には、たまたまUFOを撮影し、テレビ局の電話インタビューを受け…。小松明峰高校で「人権講話」の時間に話をさせていただいた時も、最後に「日本からフィリピンに3つだけ持って行けるとしたら何を?」という質問を向けられ、「キモノ、サクラ・ツリー(桜の木)、そしてハンサム・ジャパニーズ・ボーイ」と茶目っ気いっぱいに答えていました。
 彼女の場合は海外にいるおばさんのところで、その国の看護国家試験を受け、うまく行けば、そのままそこで働きたいと言っていました。
“Congratulations and good luck!”


DUDF - 「Datu ウチダおとうさん」(ダバオ)

2009-01-25 15:05:55 | フィリピン-ダバオ

 ダバオ市にあるミンダナオ国際大学(Mindanao Kokusai Daigaku-略してMKD)は、将来の日比友好関係を担う人材の育成を目指して、国際学科、社会福祉学科、教員養成学科などの学科で、毎年多くの学生を迎え入れています。2002年6月開校の新しい大学ですが、例年、2月にマニラで開催される国際交流基金主催の「日本語スピーチコンテスト」でも、各部門で優勝者を輩出しています。

 http://jpva.org/mkd.html

 このMKDは、元JPVA副会長の内田達男氏夫人、故内田あや子氏の教育基金によって設立された大学です。ダバオ市から、日本人で唯一「Datu Uchida」という名誉ある称号を与えられている内田達男氏ですが、そのあたたかいお人柄から、ダバオの日本人、日系人、そしてフィリピン人からも「お父さん、オトウサン・・・。」と慕われています。

「二〇〇三年までJPVA副会長を務められ、ここ二十年以上も日系人のサポート等で地域に大きな貢献をされているダバオ市生まれの内田達男氏は、二〇〇二年、ダバオ市の最高栄誉賞と言われる『ダートバーゴ賞』を、日本人として初めて受賞された。そして、二〇〇四年には、独自に「ダート内田・デベロップメント・ファンデーション」(Datu Uchida Development Foundation‐略してDUDF)という基金を設立された。DUDFは、内田氏が長年活動を共にされてきたJPVAとは別に、フィリピンの子供達を対象とした、スポーツや音楽での交流による教育振興を主な目的に設立された団体である。ここでは内田氏のお孫さんで、野球の本場アメリカのベースボール・アカデミーで勉強してきた内田ユウスケ氏が、年に三、四回ダバオを訪れ、一ヶ月から二ヶ月をかけて子供達に野球を教えている。そして、様々な人たちの協力を得て、野球道具を現地の子供達に供給している。DUDFにも、活動に参加、協力される方々が、安全に心地よく過ごしてもらえるようにという内田氏らしい配慮で、小奇麗で安全な宿泊施設も備えられている。・・・
 
四月(二〇〇六年)、フィリピン日系人会インターナショナル小学校の卒業式の壇上で、内田氏がはなむけの言葉を送った。
『世の中は、いつも平和で安定したものとは限らない。不安の多い中で、人々がみんな臆病になっている時も、勇気を出して自ら一歩を踏み出さなければならないこともある。』
…ダバオ生まれで、戦禍を生き延びられた後、氏が十八歳の時に日本へ送還され、苦労を重ねてこられた内田氏らしい重みのあるスピーチだった。そのスピーチの間、静かに聞き入っている卒業生の表情が印象的だった。そして、日本での生活が落ち着いた時、脳裏に浮かんできたのが故郷ダバオで、当時窮境にあった日系人を何とかして救いたい、という熱い想いだった。」
(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻より抜粋)

<写真> 内田おとうさん、ダバシューさん(右)、MKD事務局長イネスさん(左から二人目)-2006年8月 ダバオ市の日比友好祭り(RP-Japan Festival)にて。


ダバオ市ミンタルのNTC(障害児通所センター)

2008-11-28 21:02:37 | フィリピン-ダバオ

 キリスト教徒が9割を占めるフィリピンでは「‐ber」の月(Septem-ber・9月からDecem-ber・12月まで)、つまり9月に入るともう「もうすぐクリスマス…」と巷のムードが高まっていきます。「クリスマスまであと27日!」といった具合に、フィリピンでの年末カウントダウンは新年よりもクリスマスの方が重視されるようです。

  ダバオ市で過ごした4年間、NTCという障害児通所センターに関わらせていただきました。その施設があるミンタルという場所は、百年以上も前に多くの日本人がダバオに移住後、マニラ麻(アバカ)栽培で繁栄し、「多くの民が集まる(溜まる)所となるように…」という願いが込められ「民多溜」(ミンタル)と名づけられました。 そんなダバオの平和と繁栄を破壊したのが太平洋戦争でした。皮肉にも、地名に込めた人々の願いとは別に、激戦地となったミンタルには、現在、整備された、日本人、日系人、フィリピン人戦争犠牲者の共同墓地があります。

 <写真> 2005年12月 ダバオ市 NTCクリスマスパーティ

 

 「それから、知人にオードリーという理学療法士を紹介してもらい、週に一度、在宅でのリハビリを受け始めた。オードリーもまた、渡米の準備を進めながら、市内の「マハリカ基金」(Maharlica Foundation)という福祉団体で、リハビリのボランティア活動をしていた。一二月中旬、オードリーは、ダバオ市郊外のミンタル(Mintal)という所にある、障害児通所センターのクリスマス会に私を誘ってくれた。「ネイバーフッド・セラピー・センター」(Neighborhood Therapy Center‐略してNTC)という、できてまもない小さな施設だった。

 ミンタルは、以前日本人もたくさん住んでいた所で、多くの人が集まるようにという願いを込めて「民多溜」と名づけられたそうだ。戦時中、激戦地となったミンタルには日本人墓地があり、こちらのお盆に当たる万聖節の前日、一〇月末に一度お墓参りに来た所だ。ダバオで亡くなった日本人と日系人、そして戦争で犠牲になった人たちのために共同墓地が設けられていた。フィリピンイーグル公園で有名なカリナンに向かうハイウェイをしばらく上っていくと、丘陵地の緑に囲まれた中にそのNTCの建物があった。

 ニパ(Nipa)と呼ばれる植物で編んで作られた壁に、ココヤシの葉でふいた屋根という素朴な建物の中から、にぎやかな声が聞こえてくる。創設まもない、そのこじんまりしたセンターには、中に入り切れないほどの子供たちや家族、スタッフが、クリスマスを祝うために集っていた。オードリーが、設立者のマァム・ベイブス(Ma’am Babes)を紹介してくれた。Ma’am はMadam(マダム)の略で、スタッフや周囲の人は、敬意を持って、三十歳半ばの彼女をそう呼んでいた。ご自身も理学療法士で、マハリカ基金の職員である彼女は、自分の住む地域に、学校へ行けない、リハビリを受けられないたくさんの障害児がいることに心を痛め、個人でその通所センターを立ち上げられたのだった。Neighborhood(ご近所、お隣さん)という名称にも、そうした願いが込められているのだろう。彼女は、半年前に私がMKDで障害者問題について話した時に参加していたそうで、すでに私のことを知っていた。

 中へ入ると、そこにはダウン症、小児麻痺、ポリオ、自閉症、水痘症、そして知的障害と、様々な障害をかかえた子供たちがいた。私の、あごで動く大きな電動車椅子にびっくりして泣き出す子供もいた。パーティが始まり、まず家族がダンスで場を盛り上げる。そこへダンスの得意なダウン症の男の子が、我慢できずにその特設ステージに上がって踊り出し、場の緊張がほぐれた。次から次へと歌やダンスが飛び出し、ゲームではクリスマスギフトがみんなに渡されていく。子供たちも次第にリラックスし、笑いの渦が起きていった。そのパーティを企画したのも、やはりボランティアでそのセンターと関わっている、若い理学療法士や教師たちだった。そのNTC通所センターでは、子供たちに見合った授業を週に二回、そしてリハビリは週に三回無償で提供していた。学校(普通学級)には受け入れてもらえず、お金のかかるリハビリも受けられなかった子供たちである。子供を外へ連れ出しても、周囲の人から「お宅の子はどうしたのか?」と特別な目で見られたり、不愉快な扱いを受けたりといった経験は、ほとんどの家族が持っていた。そのため、それまで家からほとんど出たことのない子供もいたという。 ところが、そのNTCができたことにより、それまで社会との接点がほとんどなかった子供たちと家族の輪が広がり、大きなコミュニティができていったのだ。そして、それを支える心温かな若いボランティアたちは、いつも笑顔を絶やさず、楽しみながらそこでの活動に参加しているようだった。

 パーティの最後に、子供たちから「どうか私たちを憐れみの目で見ないで下さい!」(Please don’t take pity toward us!)というメッセージが会場に発せられた。障害を負った子が「スペシャル・チルドレン」と呼ばれる所以は、神様が人々に「愛」(God’s Love)を示すために遣わされた、意味のある子供たちだからである。そこにも、キリスト教の教えが深く根づいていることが伺える。ほのぼのとした、暖かい雰囲気のパーティだった。」

(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻第4章より抜粋)


バギオ-Baguioとダバオ-Davao

2008-11-26 14:11:50 | フィリピン-ダバオ

 ルソン島北部のバギオ市とミンダナオ島南部のダバオ市…。

 距離的にはずい分離れていますが、実は歴史的なつながりがあります。  

 バギオ市につながる道路の一つに、ベンゲット道路(通称ケノン道路)という曲がりくねった道路があります。

 19世紀末の米西(アメリカとスペイン)戦争後、アメリカ領下となったフィリピンで、バギオを避暑地にしようと、1900年頃バギオに通じるこの道路の建設工事が始まりました。1903年、この難工事に日本人の力と技術が必要だと、千五百人ほどの日本人がバギオ入りしました。そのベンゲット道路は、その二年後に完成しましたが、急で崩れやすい崖など難所を任された日本人従事者の約七百名もが命を落としたとも言われています。

  その道路建設に従事した日本人を支え続けた太田恭三郎という方が、工事終了後、約千人の日本人をミンダナオ島のダバオに送り、アバカと呼ばれるマニラ麻農園の経営に関わらせ、大成功を収めた、という歴史があります。戦前の平和な時代、ダバオには二~三万人の日本人が住んでいたそうです。

 よって、バギオとダバオは、どちらも日本と深いつながりがあり、日系人も多いのです。

 <写真> 2004年8月 ダバオ市 Kadayawan(収穫祭)のパレードとステージ・パーフォーマンスを終えたハイスクールの生徒さんたちと…。