答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

コメント乱

2024年08月19日 | ちょっと考えたこと
そのコメントが届いたのは10日ほど前のことでした。
あいかわらずコメントがこないブログなので、たまに来ると、オッと目を見開いてびっくりしたりするのですが、今回もまた例に漏れず、すぐに到着を知らせるメールに記されたアドレスをクリックしてみたのです。

同時に、「頭悪そう」というコメント主の名と、「ふざけてるな」というタイトルが目に飛び込んできました。この時点で既にぼくの心はゲンナリとしていますが、「なら、あなたの部下が亡くなったら責任取れますか?」というコメント本文を目にして、さらにその思いが強くなりました。


その元記事は、『熱中症は「甘え」か?』というタイトルで書いた2018年7月19日のものです。どのようなことを書いたのかについては、ハッキリと記憶にありましたが、念のために読んでみることにしました。

その稿は、かつてのぼくが「熱中症は甘え」だという考えの持ち主だったことを、少年時代の体験などを交えて吐露するところからはじまっています。
そして、それを受けた本論は、ぼくにしてはめずらしく、まず「熱中症は甘えではない」という、そのかつての考えとは正反対の結論を提示し、つづけてその理由を述べるという形式で書かれていました。

再掲します。

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あきらかに、わたしが生きてきた過去と、今という現在は異なっている。たとえば、自動車の爆発的増加や工場などの産業活動による「人工排熱」、またたとえば、コンクリート造の建築物やアスファルト地面の増加により冷めにくくなった空気。巷間言われているように、今という時代が大きな流れとしての「地球温暖化」のなかにあるかどうかについては軽々に判断するべきではないというのがわたしのスタンスだが、ことをわたしが生きてきたこの60年に限ってしまえば、今という現在の暑さは、わたしが生きてきた過去とあきらかに異なっている。
その感覚を、齢を重ねてヘタれてしまった自分自身の身体的問題だとわたしは思ってきた。だが、どうもちがうのだ。
なにより問題なのは、「熱中症は甘えだ」と決めつけてきたいうわたし自身の態度だ。
なぜならば、たとえそれが事実であったとしても過去は過去だからだ。「過去がこうだったから今はダメだ」というのは、わたしがもっとも忌み嫌う「オレはこうだった(こうしてきた)、ゆえにオマエらはダメだ」という態度にぴたりと重なる。そこには、今と、これからと、どのように関わっていったら上手くいくか、どのように関わっていくのが皆のプラスになるのか、という視点が欠落していた。猛省しなければならない。
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なんだか6年前の文体がとても懐かしいのですが、それはさておいといて、読むなり、これをぼくに書かせた背景と、そのときの心情がまざまざとよみがえってきました。ここではそれらを詳らかにはしませんが、主義を180度転換してもなんら不思議がない見聞や体験がつづいた上でのことでした。
テキストの締めくくりはこうです。

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ということで、結論。
今と昔では夏の暑さがちがいます。
とともに、文明に毒されて人間がヤワな身体になってしまいました。
かくいうわたしとて、その例外ではありません。
でもそれは、仕方がないこと。
「甘え」なのだという前提に立って物事を判断するのは、厳につつしむべきでしょう。
ましてや、わたしたちのように屋外という環境に身を置く職種においては、なおさらのこと。
だから皆さん、どうかお体ご自愛くださるとともに、目配り気配り、他人の体も心配しましょう。
熱中症はときとして命取りになりかねません。これは、というときは病院へ行くという判断も必要です。
繰り返します。
今と昔では、夏の暑さがちがうのです。
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たしかにその文章の起点では「熱中症は甘え」だとしています。しかしそのあと、二重三重にそれは否定されています。つまり「熱中症は甘えではない」ということを繰り返し述べているのです。この文章のどこをどう読めば、わざわざそのようなコメントを入れようと思えるのでしょうか?
自問に対する答えは、「おそらく最後まで読んではいないのだろうな」でした。これだけハッキリと「熱中症は甘えではない」と明言しているのですから、それ以外には考えられません。
それにしても・・・

ここからぼくの迷走がはじまります。
かねてより、言葉にせよ文章にせよ、いったん発信されたものは、どう受け取ろうと受信者の自由であり、そのイニシアティブは発信者の方には一切ないと考え、大っぴらに語ってもきたぼくですが、さすがにこれには、深い失望感と悲しみを覚えました。
こういう読み手もいるのだ(読みかじるだけの人を読み手と表現するのが妥当かどうかはわかりませんが)という事実は、ぼくの心にけっこうなショックを与えました。

たかがそれしきのことで・・と訝しがる方も多いのではないでしょうか。
しかしぼくは、その「たかが」に引っかかってしまい、さらに拙かったのは、そこからの思考が横へと広がらずに、まるで井戸を掘るかのように縦へと掘り下げられてしまったことです。

その思考とはこうです。
自分自身が、伝え方や表現の仕方について、どう考えどう悩みどう実践しようとも、受け手の曲解という強烈なパンチを(というかこの場合は、そのような生易しいものではなく、そもそも解しようとする気配すらない理不尽なものなのですが)ひとつ食らっただけで、その思考も表現も、木っ端微塵に吹き飛んでしまうと思えば、ふだんの行いのすべてもそのようなものなのかもしれない、何をどうやっても、自分のできることなど、それしきのものでしかないのではないか。
そもそも読み取ろうとする気がない、あるいは理解しようとする意思がない者に対しては、それが情であるにしても理であるにしても、伝えるために行われるあらゆる試みは、まったく意味をなさないのではないか。

南無三!
気づいたときには既に遅く、井戸の孔はどんどんと深くなり抗口の光が遠くなっていきました。


こんなことを書くと、常識がある人なら、ゆきずりの匿名者が発したたったひとつのコメントにかかわって、それほど失望することもないではないかと思われるでしょう。ぼくもまた、そういう自身の感想や対応はナーバスにすぎると思います。われながら軟弱だなあと情けなくなってもしまいました。
もちろん、伏線はありました。いくらなんでも、そのコメントのみでそうなったわけではありません。その前から幾つかの事象が積み重なり、凹んでいた心とが、そのコメントがクリティカルヒットとなってノックアウトされたというのが本当のところです。

そのコメントは未公開のまま編集ページに留め置かれました。精神の安定を図るためには、すぐさま消した方がよかったのでしょうが、しばらく残しておくことにしたのです。つまり、あえて目に触れるようにした。さても「慣れ」というのは、怖ろしくもありますがおもしろいものでもあります。そのコメントをきっかけとして乱れた心も、編集ページのトップに居座ったソイツを見ているうちに、やがて取るに足らないことだと思えるようになりました。人間生活では、些細なことに本質があらわれるのはよくあることですが、かといって、些末のみをもって本筋を判断することほど愚かなこともありません。

10日あまり留め置かれたコメントは、今日、削除しました。その代わりといってはなんですが、こうしてブログ本編で紹介し、それに対しての返信もここで行った。それが事の顛末です。

長くつづけていれば様々なことがありますねえ。


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