インスタグラムを会社アカウントではじめて、はや半年になろうとしている。
そのあいだの投稿数は176、数撃ちゃ当たるってものではないのは承知しているが、「スタートにしては上出来じゃないか」と独り悦に入っている。待っていても誰も褒めてはくれないので、とりあえず自画自賛をして自分で自分をヤル気にさせる、といういつもながらの方法だ。
つい先日、「あれって全部アナタが撮った写真ですか?」と訊かれた。同様の疑問を持つ人は少なからずいるようで、これまでも何人かに質問されている。
答えは「ほぼ・・」である。
ちなみに、はてじっさいはどうなんだ?と数えてみたら、今日現在のカウントで176のうち155投稿がわたしが撮影したもの、あとの21がわたし以外が撮ったものだった。176分の155だから88パーセント、やはり「ほぼ・・」という感覚にまちがいはなかった。
とはいえ、残りの10パーセント強の存在が数字どおりの十分の一の価値かというとさにあらず、これがずいぶんとわたしの「インスタグラムという日々」を支えてくれているし、そう社内で広言もしている。
そしてそれは、インスタグラムに限らない。「現場情報」という名のブログの場合もそうだ。というより、ブログの場合は、その重要度がなおさら高くなってくる。
なぜか?
毎日毎日現場へ足を運んでいるわけではないからだ。
いやむしろ、現場へ行っていない日々のほうが多いからだ。
それは、意図してそうしている場合と行きたくても行けない場合とに分かれるにしても、どちらにしても、つまり「行かない」と「行けない」のどちらにしても、「行ってない」という結果は同じである。そのような状況のもと、社内の情報共有ツールとしてあるサイボウズOfficeにアップされる日々の現場情報写真が、わたしが「Webという場」でする情報発信にとって、このうえなく重要な位置を占めてくるのは当然の帰結だろう。
そんななかで、数多ある写真は、当たり前のように「使える」と「使えない」とに分かれてくる。
なにがその差を生み出すのだろうか。
ウデだろうか。
たしかにそれもあるだろうが、そうではないとわたしは思うのだ。
いわゆる「ウデ」の差というやつが効いてくるのは、もそっと高いレベルにその段階が上がってからである。
今わたしが問題としているのは、そのまだ下段階の話だ。
ではもういちど問おう。
なにがその差を生み出すのだろうか。
まずは意識だとわたしは思っている。
「ありゃりゃ、もっと意味のある言葉が出てくると思ってたら、よりによって意識かよ」と嘲笑うそこのアナタ。
だから「まずは」と前置きをしたではないか。誰がなんといっても、「まずは意識」である。そしてそれが意外なほどハードルが高い。漫然と撮るか、意識して撮るか。この差が大きい。
たとえばそれは、伝えることを意識するだ。
なにを伝えるかを意識する、どうやったら伝わるかを意識するだ。
またたとえばそれは、表現することを意識するだ。
なにを表現するかを意識する、どうやったら表現するかを意識するだ。
言い換えると、主題を持って写真を撮るだ。
な~んにも考えずアタマを空っぽにした状態で「撮るという現場」にのぞんだほうがよいものが撮れる、という人は多くいるだろうし、わたしもまたその意見を支持するものだが、それはあくまで、撮りはじめる前に先入観を持つな、とでもいうべきことであって、いったん撮りはじめたら、やはりテーマは持つべきだろう。一枚一枚が別々でも、今日はコレにき~めたでもどちらでもいい。とにかく、主題を持って写真を撮る。
他にまずすることは、基礎技術を覚えるだ。
漫然と、ただそこにあるものを撮るか、基礎技術を習得して撮るか。技術、と呼ぶほどのたいそうなものでなくてもよい。初歩程度のものだけで差し支えない。見渡すところ、工事記録写真撮影という仕事を必須業務としてこなしながら、それすらもわかってない人がなんと多いことか。それは、そんなこと理解してなくても撮れちゃうもんねーという現実が生み出したものにはちがいなく、テクノロジーの進化とはそういうものだと言ってしまえば、それはたしかにそうかもしれないが、それでは「使える写真」は撮れない。とにかく、初歩テクニックぐらいはアタマに叩き込んでおくことが必要だ。特に必須なのはフレーミング(構図)の基礎知識だろう。そしてそれは、記録として必要なものがフレームのなかに入っているか、あるいは記録としては余計なものが写っていないかを確認するだけのフレーミングではなく、どのようなアングルを採用すれば「伝わる」か、もっと平たく言えば、どのような構図が「カッコいい」かを第一義として考えるうえでのフレーミングだ。
ではそのさらに先は、中級あるいは上級テクニックを習得する、になるのだろうか。
わたしの答えは、「必要ない」だ。
好きならば学べばよい。
だが、現場からの情報発信に「使える写真」を撮る、という目的を満足させるためには、とりあえず要らない。
ではそのさらに先で必要とされるものはなにか。
感性である。
「な~んだ、感性かよー、意識といい感性といい、あいかわらずフワフワっとした形而上の話しかしないから困っちゃうね、このオジさんは。技術屋だったらもそっと具体的な話をしてよ。」とお嘆きのそこのアナタ。わたしはおおまじめだ。もういちど言う。
感性である。
何度でも言う。
感性である。
フレーミングの基礎知識がなんだのかんだのといっても、
つまるところはそこではない。
決め手は、
感性である。
ついでに言う。
土木技術者にとってもっともたいせつなものは、
感性である。
では、その感性とやらはどうやったら磨かれるのか。
ここからが肝心だが、長くなったので手短に済ます。
残念ながら、「土木だけ」では優れた感性は身につかない。「土木の仕事だけ」をいくら一所懸命やったところで、磨かれる感性はたかだか知れている。ストレートに言えばそれは、「プロフェッショナルの写真を観る」だろう。あるいは、「絵を観る」もそうだ。マンガでもいい。映画を観るのもよし。とはいえそれは、「その気」になって観なければなんにも生み出さない。なにをするにつけても、「漫然と」という態度から生み出されるものはない。
「あれあれ?”土木技術者にとってもっともたいせつなもの”が”土木の仕事だけ”を一所懸命やって身につかないってどういうこと?とんだ自家撞着じゃないの?」といぶかしがるそこのアナタ。ところがどっっこい、それが土木技術者の土木技術者たるゆえんであり、そこんところが土木技術者という仕事のおもしろいところだ。
優れた土木技術者は、ジェネラリストでなければならない。
ジェネラリストには、「土木の仕事」を一所懸命やるだけではなれない。
そういうことだ。なんの矛盾もない。
ん?
なんの話だった?
そうそう、写真の話だ。
これをお読みのアナタが、もしも「業務以外になんでそんな面倒くさいことを考えなけりゃならんのよ」と思う人なら、これだけは教えておいてあげたい。ともあれ、そんなふうに色々さまざま考えながら写真を撮るという行為が、「工事記録写真を撮る日々」に活かされないはずはないのだ。
情報発信に「使える写真」を撮る。
そしてもちろんのこと、それを「使う」あるいは「使ってもらう」。
技術者としてのレベルアップはわたしが保証する。
なによりそうすることで、仕事に別のたのしさが生まれる。
今がたのしくない人は、そんななかからたのしさが生まれるかもしれない。
さ、「れっつびぎん」だ。
以上、今という時代の土木技術者にとって「使える写真」とは、である。
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