散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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C-1 死んでる場合じゃない

2019-07-14 08:21:40 | 日記
【謹告】
 今後、タイトル冒頭にC-# とある場合、そこに書かれている内容はすべてつくりごと ~ フィクションであると御承知おきください。仮に現実のどなたかと部分的に類似していたとしても、それは偶然に過ぎません。広い世の中には、似たようなできごとも言動も必ずあるものですから。
 「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる/太陽の下、新しいものは何ひとつない。」(コヘレトの言葉 1:9)
亭主敬白
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2019年7月12日(金)
   ・・・亡くなった夫のこと、息子と娘のことについては、そんな次第です。おっしゃる通り、亭主は今から思えばアルコール依存症でしたが、あの頃は大酒飲みだからといって医者に連れていくという考えは、私にも家族にも浮かびはしませんでした。それに酒を飲みながらでも、仕事の腕は確かだったんです。小さな工場でしたけれど、夫しか作れないものがあったんですよ。たかが歯車づくりとお思いでしょうが、それでもコツも工夫もあるものなんです。ええ、何でもベルギーだかデンマークだかから、わざわざ見学に見えたことがありました。あの時は驚きましたね、夫も私も。言葉がわからなくても、製品を見て機械を見れば話は通じるらしくて、大きな白人さんが大きな手を振り回して喜んで、夫もわたしもぎゅうぎゅう抱きしめられて息がつまりそうでした。お土産にワインを3本もくださったけれど、うちにはコルクを開ける道具がなくて、道具を手に入れた後は夫がまた酔っ払って、どうせくださるならチョコレートか何かにしてくださればと恨めしかったですけれども。
 夫は飲んべえでも腕は確か、その父親を殴る息子の方は、言うことはまともなようでも仕事はしない、そのくせお金には不自由しておらなくて、ある時わたしはこの息子が人を脅すようなことをしてお金を稼いでいるのではないかと思い当たりました。詳しいことはわかりませんけれども、それでいろいろ説明がつくのです。でもそれは病気のせいという訳ではなくて、治療できることではない、先生のおっしゃることは、よくわかります。そうおっしゃるだろうとわかっていたんです。それを承知で参りましたのは、どなたかに、先生に話を聞いていただきたかったんでしょうか。
 三年ほど前に突然顔が黄色くなって、身体がかゆくてたまらないことがありました。お医者様に行きましたら胆汁性胆管炎とかで、いろいろ調べてくださってから「気の毒だけど、二年はもたないよ」とおっしゃって、身辺整理をするよう勧められました。だからわたし、言ったんです。「とんでもない、わたし死んでる場合じゃありません。小さいけれど三代続いた工場です。夫の祖父が日露戦争の終わった年に創業して、今でも16人の働き手の生活を支えているんです。工場のためにも働き手のためにも、今は死んでる場合じゃありません」って。
 お薬手帳ですか?ええ、いつも持ち歩いています、通院先が8つあるので、はいここに。1型糖尿病は、かれこれ21、2年になりますか、「そんなに小さくてやせてるのに糖尿病か」と今でも聞かれますよ。1型と2型の違いを説明してあげるんですが、なかなかわからないものですね、説明もへたなんですけれど。脊柱管狭窄症、慢性中耳炎、糖尿病性網膜症、アトピー性皮膚炎、甲状腺機能亢進症、7つですか?えーっと、そうそうだいぶ前に乳癌の手術をしていただいたので、ときどきフォローアップに診ていただくんです。先生方は皆さんそろって親切で、通院を苦に思ったことはありません。いろいろなお薬が出ますから、先生方が飲み合わせの心配をしてくださるのがお気の毒なぐらいで。
 えらい?わたしが?いいえ先生、あたりまえのことです、みな生きるために苦労しています。いえ、苦労なんかじゃありません、生きていくのはあたりまえのことです。私はね、病気でもしなかったら、さぞ傲慢なイヤな人間になっていたと思います。病気は私が傲慢にならないように、神さまがくださった棘(トゲ)なんだと、パウロ先生と一緒にしたら申し訳ないけれど、私にも棘をくださったんだと、心からそう思います。でもねえ先生、息子や娘は、あの子たちのことはどうしたものか、どうしてこうなってしまったか。私の育て方が、どこか間違っていたんでしょうねえ。
 先生、また来てもよろしいのですか?ええきっとまた伺います。先生こそ、こんなお話をお聞かせしてお疲れじゃありませんか?きっとまた伺います。工場も、誰か継ぐものが見つかるでしょう、娘のつれあいはそんなことも口にするんですが、娘の方が頑なで、でもいずれきっと、それまでわたし頑張ります・・・
Ω

力をためる/形の力

2019-07-13 20:46:22 | 日記
2019年7月9日(火)
 代休を活用して、Sさんと半日の囲碁三昧。二局目の途中で許可をもらって盤面をパチリ。次は黒の手番(85手目)である。勝敗はいつだって下駄を履くまで分からないが、そのことではなく日頃打ちたいと思う碁が、珍しくも打てているのが嬉しくて。
 後日別の人に写真を見せたら、「どっちのこと?黒は白8子を取り込んでいるけれど、見えてる地は白の方が多いんじゃないの?」と不得要領。そう見えるかな。自分の目がおかしいかな。 

 

 黒石が歓喜していると僕には見える。全局的にしっかりした形で外に回り、8子を取りこんだ部分に鉄壁の厚みができているのがとりわけ嬉しい。逆にその部分で10子ぐらい取られているとしても、この厚みならたっぷりおつりが来るだろう。後は厚みにためた力を生かして、収穫を挙げつつ追い込んでいく、追い込みを可能にするのがしっかりした良い形である。
 そうか、本当に打ちたいのは、成り行きではなく計画的な捨て石によって、こんな好形を築く碁なのだった。それができれば高段の芸、まだまだそこには届かない。

***

 素人遊びとプロの芸を一緒にしては申し訳なく、畑も違うことながらふと目にとまったので。
 大相撲名古屋場所、東小結の阿炎(あび)は期待の大器だが、このままではどんなものか。見ていてどこかおかしいと思うのはナゼだろうか。4日目の横綱鶴竜戦で、ああそうかと気がついた。



 突っ張りの威力に目を奪われて注目が上半身に向かいがちだが、相撲の強さはかかって下半身にある。足の形に注目したい。向かって左、鶴竜は足裏全体が土俵にぴったり付き、腰を落として下からあてがっている。土俵をしっかり踏まえ、そこにためた力が腕まで自然に伝わっていく。対する阿炎はつま先だって腰が高く、上半身から前のめりに突っ込んでいる。見た目ほどの力が腕にもこもらない。


 相撲の稽古の基本は、四股とテッポウ、そしてすり足である。白鵬がこの基本動作に驚くほどの時間をかけること、よく知られている。いつもすり足、どこでもすり足、つま先立ちで前のめりに突進するという発想は相撲にない。何だかヘンに見えたのはそこだったようだ。
 阿炎の師匠錣山(しころやま)親方は元つっぱり名人の関脇寺尾、きっと修正が入るに違いない。それまでの間、この上の活躍はちょっと難しいかなと素人雀のサエズリ、他人様のことはよく見えるのである。

Ω



 

恵比寿さんの多い街

2019-07-11 23:40:28 | 日記
2019年7月8日(月)
 佐賀城本丸歴史観ですっかり時間を過ごし、三重津の海軍跡バスツアーは次回までおあずけ、大概こうなるとしたものだ。
 お城の東隣りに佐嘉神社。

 蒼枯として謂われの古いものかとは思いのほか、10代藩主鍋島直正と11代直大の両公が祭神という。藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元(1772)年の創建、新社殿(南殿)が造営されたのは明治6(1873)年、別格官幣社としての社格が定まったのは昭和4(1929)年というから、至って新しいものである。乃木神社・東郷神社など、近現代に属するものに近い。
 この位置の背後に広大な駐車場があり、その西側に屹立する大クスノキ群の樹冠あたりで白鷺が多数、あられもない大声で鳴き騒いでいる。入れ替わり立ち替わり場所を争う様子で、これほど大型の鳥がくんずほぐれつの競り合いを演じるのは、他所で見た記憶がない。スマホ写真の解像度では最望遠でもよく見えないほどの高さなのに、鳥特有のムッとした臭いが地上までしっかり伝わってくる。
 ・・・実はサギ神社?

 東へ500mほども歩いたろうか、住宅街の一隅に大隈重信記念館。

 敬愛置くあたわぬ偉人の資料館ではあるが、時間がなくなってきたのと有料なのとで、中には入らず一礼して引き返す。(佐賀城本丸歴史館は入場無料!ただし、大隈記念館の入場料よりいくらか高めの金額を寄付してきた。)Hさんの方は、大隈記念館で長めに時間を使ったらしい。お殿様と総理大臣だが、鍋島直正公が明治維新で活躍した人であるだけに、二つの場所の間に時間差がなくて面白い。大隈もまた、直正公の藩政改革の一環である教育奨励によって、世に出る素地を養った一人である。
 あとは早々に大通りまで戻り、今度は西側の歩道をまたモニュメントを追いつつ駅まで歩く。

#12 大企業へと発展させた実業家 ~ 中富三郎と市村清

 中富三郎は旧姓久光、サロンパスの久光製薬の創始者。市村清はリコーの創始者、1950年に発売されたリコーフレックスⅢによってカメラは初めて庶民の手の届く消費財になった。市村さん(向かって右)がカメラを手にしているのは拡大するとわかる。中富さん(左)の手にあるのは、薬箱だろうか。


#10 近代医学の礎を築いた医学者 ~ 伊東玄朴と相良知安

 伊東玄朴はシーボルトに学び、種痘法の導入に貢献した。相良知安はボードインに師事し、オランダ医学からドイツ医学への乗り替えを新政府に強く進言したとある。いずれも初耳、お恥ずかしい。


#09 日本を代表するお菓子メーカーの創業者 ~ 森永太一郎と江崎利一

 さあ、これが愉快だ。タイトルと御尊名から、どこのどなた様かは一見明白、森永氏(向かって左)は組んだ左手の先に、江崎氏は右手にぐっと掲げて、それぞれ自慢のキャラメルを持っている。この御両所が、いずれも佐賀の人とは!
 

 仕上げはこちら。
#07 青年教育に尽力した社会教育家 ~ 田澤義鋪と下村湖人

 田澤義鋪(よしはる)には、初めて知った。「青年団の父」と称されることでその業績が察せられる。その最期についてWiki は以下のように記す。
 「昭和19(1944)3月、四国善通寺での講演の際、日本軍の勝利を信じる聴衆を前に『敗戦はもはや絶対に避けがたい』『この苦難を通らなければ平和は来ない』と言い残し壇上で突如意識不明となり倒れる。そのまま同地で療養するも、11月に脳出血のため59年の生涯を閉じた。」
 香川の善通寺は弘法大師の生誕地として知られる(異説あり)が、帝国陸軍の第二師団本部があった軍都でもある。この時期この場所でこんな発言をするのは、さぞ勇気が要ったことだろう。青年教育に生涯をかけた人であるだけに、若者の夥しい犠牲の末の敗戦を予見して、おめおめ生きてはおれないといった思いすらあったことだろう。この声に耳を貸すことができたなら、昭和20年夏の惨禍は避け得たかもしれないが。
 下村湖人!この名を懐かしいと思えるのは、僕の世代でも既に少なかろう。名作『次郎物語』の著者である。あなた様も佐賀でしたか。田澤義鋪とはほぼ同年かつ同窓で、大いに影響を受けたらしい。こちらは1955年まで健在であり、戦後日本の若者の再出発に力を尽くしたようである。

 モニュメントに扱われた人々が、おしなべて実学の流れの中にあり、時代が提供し得るものをいかに人々に届けるかという問題意識を共有しているようなのが印象に残った。今の時代に何よりも必要なセンスではないか。
 
***
 
 2時間半12,000歩のホットな散歩を終え、佐賀駅構内をバス停に向けて歩いてくと、案の定向こうからHさんがやってきた。僕とは反対にバスで戻ってきて、鉄道で熊本へ戻るという。また会うような気がしていた。Hさんはバスの窓から、歩く僕を見かけたらしい。
 空港まで30分あまり、外は広々とした田んぼ、車内もがらんと空いている。そういえば、佐賀の市街地は妙に恵比寿さんの多いところだったが、空港ターミナルへ入るところでダメ押しの笑顔に出会った(左)。右は唐人町路傍の唐人恵比寿である。
 恵比寿さんは、佐賀の街に確かによく似合っている。佐賀の街が恵比寿さんに似合ってるのか。
 
 

Ω

佐賀のお城のアームストロング砲

2019-07-11 12:09:53 | 日記
2019年7月8日(月)

 お堀にかかる橋を渡ったところに、クスノキの巨木。もともと対岸にあったものを移植する必要が生じた。数年越しで根回ししたうえ掘り起こし、クレーンで吊り上げて巨大な金属製の器(!)に納め、ここまで運んだのだと。壮挙である。

    第10代佐賀藩主鍋島直正公、号は閑叟 (文化11(1815)年 ~ 明治4(1871)年)。
 写真もヘタクソだが、NHKの電波塔がどうにも邪魔で仕方がない。何も直正公の真後ろに建てなくても良さそうなものだが、そういう風には考えないものかな。

 佐賀城は古くは佐嘉城、別名「沈み城」「亀甲城」とある。平城の備えの薄さを補うため複雑に外堀を巡らせ、敵襲の際は主要部以外を水没させて侵攻を食い止めるからくりをもったことが、別名の由来という。
 もと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したもので、城も藩も九州北部の雄であった龍造寺氏に由来する。天正12(1584)年、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗死したことをきっかけに、家臣である鍋島氏が力を伸ばすことになった。とはいえ鍋島氏は主家を重んじ、隆信の後を継いだ龍造寺政家が病を得た後には、政家が鍋島直茂を養子とし、その直茂の養子に政家の一子高房を入れるという複雑な一体化を模索する。
 その龍造寺高房が慶長12(1607)年に江戸表で妻を刺殺し自らをも傷つけ、これがもとで死去。精神の変調があったようである。政家また後を追うように他界したため龍造寺宗家が断絶し、鍋島氏が江戸幕府から正式に佐賀藩主として認められるに至る。龍造寺家の遺子をめぐって暗闘があったらしく、それが鍋島騒動として世に騒がれ、化け猫話で脚色されるという後日談が付いた。

 佐賀城は何度も火災に見舞われており、特に享保11(1726)年の大火では天守をはじめ本丸建造物の大半が失われた。このためその後の藩政は二の丸中心に行われたが、今度は天保6(1835)年の火災で二の丸を焼失。ここであらためて本丸が再建され、政務が本丸に移る。この時、江戸詰であった九代目に代わり、現地佐賀で政庁再建や人事刷新に辣腕を振るったのが若き十代目の鍋島直正、上掲の鯱の門や下掲の本丸御殿はこの時に建てられたものである。

 本丸御殿は保存状態が素晴らしく、建物の一部は昭和32(1957)年まで子どもたちの礼儀作法の教育の場として使われていた。中の様子や豊富な歴史資料にはあらためて触れるとして、その入り口に据えられた一門の砲に胸騒ぐ思いがした。
 アームストロング砲、これがそれか、もちろん模型であるけれど。

 

 司馬遼太郎『花神』に仔細が語られている。イギリス製のアームストロング砲は、当時世界で最新式のものだった。軍備強化の一環として同砲を購入したものの、破壊力を知る鍋島公は、あくまで将来の国防の備え、日本人同士の戦いに用うべからずとの考えだった。
    官軍の指揮を執った長州人、村田蔵六こと大村益次郎が、そこをまげて頼み込む。使い方について説明したかどうか。ともかく首尾よく借り出したこの砲を、加賀前田藩の江戸屋敷、つまり現在の東京大学本郷キャンパス、三四郎池端あたりに据え置いた。
    慶応4(1868)年、旧暦5月15日、薩摩は正面(黒門口、現・広小路周辺)から、長州は側・背面(団子坂、谷中門)から、上野の高台を強襲する。折から雨模様で文字通り泥沼の激戦数時間、頃合いを見計らっていた大村の命令一下、アームストロング砲が火蓋を切り、彰義隊の本陣めがけて砲弾を撃ち込んだ。弾数は多くはなく、実際の被害よりも心理的な効果が大きかった、そんな記述だったように記憶する。
   狙いは的中、守備側はこれを合図と聞くかのように退却を始める。大村の指図であらかじめ一方だけ逃げ道の開かれていた根岸から東北方面へ、吸い込まれるように退いていったのである。
    完全に殲滅するのでない限り、相手の逃げ道を残しておくのが攻撃側の心得であること、最近読んだ『太平記』で知った。逃げるという選択肢を残すことが、相手の心に迷いを生む。四方を完全に封鎖して逃げ道を奪うのは、実は危険な策。逃げ場を失った兵が死に物狂いで暴れるなら、窮鼠が猫を噛み倒すことも起きるのである。
 そもそもこの戦、官軍は必ずしも圧倒的優位を確立していたわけではない。幕軍の一部でも江戸市中に散開してゲリラ戦を展開したら、江戸中が火の海になってしまう。必死の相手を散らすことなく、ひとまとめにして江戸から落とすという難題に大村益次郎が取り組んだ、その切り札の一つがアームストロング砲だった。
 戦場心理の機微を踏まえ、これを勝利の号砲に使った大村の軍事的天才が『花神』の読ませどころ、その主役の活躍に不可欠の大道具を、鍋島公の熱心が用意していた。
 左の写真左下に写っている説明書きが下に掲げるもの、その文中で砲の射程を1,300~1,600mと推測している。三四郎池から上野の山はちょうど1kmほど、法学部の講義に飽きると上野動物園まで散歩としゃれこんだものだった。その道のりを弾が飛び越え、レンコンの店のあるあたりも飛び越えて激戦の帰趨を決めた。佐賀はこうして歴史の転轍に関わった。


Ω