散日拾遺

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かもめ/神さまの居候

2019-07-28 18:41:34 | 日記

2019年7月28日(日)

 そういえば『かもめ』、チェーホフの代表的な戯曲を長らく読んでいなかった、試験監督の行き帰りに久しぶりになどと言ってみたいが、実はまるで読んだことがなかったのである。チェーホフの小説が無性に好きで、『退屈な話』だの『グーセフ』だのに夢中になっていたら、嫌みな輩が、
 「チェーホフだったら戯曲を読まないとね」
とか訳知り顔に言うもんだから、
 「戯曲は読むもんじゃなくて芝居で見るもんでしょ」
などとやり返したっきり、あっという間に40年経った。自分が損するバカな性格、今なら「なるほど」とその日のうちに読むだろうけど。

***

 「Я — Чайка ヤー・チャイカ(こちらカモメ)」、人類初の女性宇宙飛行士テレシコワ(当時26歳)が、1963年6月16日に宇宙船内から発信したメッセージである。「わたしはカモメ」はちょっとした流行語になり、当時前橋に住んでいた小学一年生の耳には牧歌的にも詩的にも響いて、宇宙に浮かぶカモメの翼が思い描かれた。

 「日本では、チェーホフの戯曲に登場する台詞「私はカモメ」と結びつけて紹介され、ミッションの代名詞として広く知られた」とWikiにある。続けて下記のスリリングなエピソードが紹介されている。(Wikiの日本語がひどく乱れているので、そこは修正。)
 「私はカモメ(чайка)」が世界的に有名になったのは、飛行ミッション終盤に宇宙船ボストーク6号の操作が困難となり、地上に帰還できない危険が生じた経緯と関係している。テレシコワは地上基地へコールサイン「こちらカモメ(чайка)」を送り問題解決を要請しようと試みたが、連絡が取れなかった。コールサインを送る際に無線バンドを間違えていて地上基地に届かなかったのだが、間違えた無線バンドが当時西側で広く使われていたものだったため、そのバンドに乗って「こちらカモメ(чайка)」が全世界に届いたのである。その後、間違いに気づいた地上基地が、同じ無線バンドを使ってテレシコワと連絡をとり、宇宙船の操作を修正して無事帰還に至った。搭乗すること70時間50分、地球を48周し、その間に宇宙酔いによるパニックを経験したという。後年、テレシコワは「こちらカモメはSOS信号だった」と語っている。」


 『カモメのジョナサン』『カモメに飛ぶことを教えた猫』から釈宗演老師※に至るまで、カモメは飛翔と自由の象徴として肯定的に捉えられている。ただそのリアルな姿はというと、種類によって違いもあろうが概して頑丈なくちばしを備えた猛禽で、極地ではペンギンの不倶戴天の敵である。 カモメの側からは草刈り場のようなもので、親ペンギンの隙を盗んでペンギンの雛をさらい、やすやすと空中を運んでいく。気づいた親ペンギンがヨチヨチと後を追っても、追いつくすべなどない。ふわりと岩場に着地するや、親ペンギンの恐慌を横目に即座に雛をむしって食べ始める。
 むろん、カモメを残忍とか冷酷とか言うのはあたらない。彼らはそのように創られており、そのように生きるほかなく、そのようにして彼ら自身の卵を返し雛を養う。カモメもペンギンも太古の昔からそこにおり、どちらも生きながらえて今日に至る。そうは言っても、その姿にたおやかさ和やかさを投影するのは、そうと知ってはもはや困難な相談である。

https://jp.sputniknews.com/entertainment/201708053962525/ 

 チェーホフはカモメを起用するにあたり、どの程度リアルにこれを観察しただろうか。もっともさしあたり観察は必要のないことで、カモメは強烈なシンボルとして全編の主題を紡いでいくが、この鳥の現実のプロフィルは一言も言及されない。主人公トレープレフが第2幕で一羽のかもめを射殺し、そのことがトレープレフ自身と彼の焦がれる美女ニーナの記憶に刻印される。女優を志して家を出たものの、辛酸を舐めた末に帰郷したニーナが第4幕で「私はかもめ、いいえ女優」と繰り返す。絶望したトレープレフは2年前に失敗した自殺企図 ー この時カモメはいわば身代わりになった ー を今度は成功させる。ニーナはカモメを克服し、トレープレフはカモメとなって滅んだ。
 いっぽう、成功した作家でありトレープレフの母の愛人でもあるトリゴーリンは、射殺されたカモメに興を感じる。「あなたみたいな若い娘が、カモメのように湖が好きで、カモメのように幸福で自由であるのを、ふとやって来た男が見て、退屈まぎれに破滅させる、ちょうどこのカモメのように」と短編のアイデアを呟きながら記し、それがニーナの運命の寸分たがわぬ予言となるなる。トリゴーリンはカモメを剥製にするよう指示したらしいのだが、第4幕で館の支配人シャムラーエフからそのことを聞かされても、思い出すことができない。
 まさしくチェーホフの世界、それにしてもたいへんな「喜劇」である。


 懐かしい新潮文庫で『かもめ』とセットになっているのは『ワーニャ伯父』である。『ワーニャ叔父』にあらず、ワーニャことイワン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキイは、ソーニャことソフィヤ・アレクサンドロヴナ・ヴォイニーツカヤの亡母の兄にあたる。

 ワーニャはイワンでつまりヨハネ、ソーニャはソフィヤ、そうか、ペトルーシュカはピョートルでつまりペトロなんだな。

 『ワーニャ伯父さん』から、三カ所だけ抜き書きしておこう。

【その1】 第1幕(P. 143)
 エレーナ いいお天気だこと、きょうは、暑くもなし
 ワーニャ こんな天気に首をくくったら、さぞいいだろうなあ

【その2】 第3幕(P. 204)
 ソーリン 話というのは、ほかでもないが、何分にもわれわれは「マネット・オムネス・ウナ・ノックス」、つまりその、老少不定でありますし、ことにわたしはこのとおりの老人でもあり、病身でもあるしするので・・・
 註: manet omnes una nocs すべての人をたった一つの夜が待ち受ける(ホラティウス)

【その3】 第4幕(P.219)
 テレーギン けさもね、ばあやさん、わたしが村を歩いていると、あの店の亭主がうしろからね、「やあい、居候!」って、はやすじゃないか。つくづく、つらくなったよ。
 マリーナ ほっておおきよ、そんなやつ。わたしたちはみんな、神さまの居候じゃないか。

 そうだ、カモメに戻ってもうひとつ、耳の痛いところを。

『かもめ』第4幕(P. 99)
 ドールン 六十二にもなって人生に文句をつけるなんて、失礼ながら ー 褒めた話じゃないですよ。

※ 先に掲載した釈宗演師自筆の葉書を、僕は昭和3(1928)年に書かれたものと推定したが、師は大正8(1919)年に遷化(他界)しておられる由。消印は大正3(1914)年のものであろうと竹内香さんから御指摘いただいた。まるまる一世紀を遡り、第一次世界大戦が始まった年にあたる。
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/ecb2857c5fcd2a5cb16e64e7d4f899db

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