散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

おまえらおりんのか

2019-06-18 09:26:37 | 日記
2019年6月18日(火)
 朝、小豆島のMさんからメールあり。
 「昨日のことです。バスで『次は小豆島中央高校前です』と案内があってもだれもブザーをおさず、運転手さんが「おまえらおりんのか」と言ったら、ブザーが押されてバスもすぐ止まり、沢山下りました。誰かが押すと思って、みんなが押さなかったのかな?」
 
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 毎度注釈つけるのもどうかと思うが念のため、Mさんは愛犬を伴って学習センター通いを続ける全盲の学生さんで、ときどきこうしてメールをくれる。「小豆島中央高校前」ということは、大勢下車していった一団はこの高校の生徒たちということか。「おまえらおりんのか」は、それを裏書きする物言いで(もちろん方言でもある)、いかにもありそうな風景が微笑ましい。
 ただ、微笑ましいですまさず、ここで一理屈こねてみたい気もする。バスのブザーを押すの押さないのは可愛らしい例だが、大げさに言えば個人としての判断や行動を放棄して「ほかの誰か」あるいは「みんな」に委ねているわけで、その結果として「誰も何もしない」ということが生じうるのである。バスの運ちゃんが親切で良心的、あるいは円滑な職務遂行を望む常識人(明らかに高校生が大量に乗ってるのに、ブザーを鳴らさなかったからと停めずに先へ行ったら、後で「不親切」と言われるかもしれない)だから良かったので、仮に停めてもらえなくても文句は言えない理屈である。
 これも一種の集団心理であり、集団心理を特徴づけるものとして例の同調圧力というやつがある。このブザーの件も、「誰も押さない状況で、ことさら自分が押す(=突出する)ことをためらう」心理と考えれば、そこに同調圧力の関与を見ることもできるだろう。
 さらに少しだけ飛躍するなら、社会に何かの事件が起きたときに「単純でわかりやすい説明に飛びつき群がる」というのも同調圧力関連事項。単純でわかりやすいものほど大勢が同調しやすいのは自明で、スティグマの形成過程はたぶんこのことと深く関係している。
 同調圧力のそうした迷走に警鐘を鳴らすのがマスコミ本来の役割のはずだが、むしろ率先して同調圧力強化の先棒をかつぐ様子がこのところ目だつ。それが気になってガミガミ文句を言っている。犯罪が起きれば精神障害者、交通事故なら高齢ドライバー、それで済むなら考えることなど要らない。

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 昨日は町田市で「また」自動車が歩行者らをはねた。運転者は60代女性とあり、もう10歳年上だったら「また」のボルテージが一桁あがったことだろう。(あえて60代を「高齢」と報ずるネット記事も現にある。僕も立派な高齢ドライバー・・・)
 https://matomedane.jp/daisuke/page/31798 
 https://breaking-news.jp/2019/06/17/049200 

 いっぽう熊本では、夜間無灯火で歩道を走行していた高校生の自転車が、散歩中の79歳男性と衝突して男性が死亡した。デジタル朝日本文は「散歩中の高齢男性が、自転車と衝突した」と書いており、まるで歩行者が自転車に突っ込んでいったかのような書き方だが、そうなのか。現場写真の説明文には「散歩中の男性に自転車が衝突した」とある。「どちらが、どちらに」で迷いがあるようだが、いずれにせよ夜間に無灯火で走る自転車は、危険きわまる殺傷機械であることに留意したい。
 自転車に対して歩行者の抱く恐怖心が、高齢者をどれほど脅かしているか、自分がこの齢になってようやくわかり始めてきた。高齢者の側のこうした不安について、現時点のマスコミは驚くほど冷淡である。
 https://www.asahi.com/articles/ASM6K3H1HM6KTLVB005.html

 高齢・若年の問題もさることながら、自動車であれ自転車であれ「便利」とされるものの運用には必ずリスクが伴う。一般に利便性が大きいほどリスクも大きくなるというジレンマが現代人を取り巻いており、その現実こそ深刻であるように僕には思われる。ブザーを押すのを人任せにしておいては済まないことである。
 アメリカでは、文明から意図的に距離を取るアーミッシュのメンバーの馬車に、トラックが追突して子ども3人が亡くなる事故があった。イリノイのアーミッシュの村で味わった、豆料理の滋味を思い出す。
 https://www.cnn.co.jp/usa/35138206.html

Ω

現代語訳~?

2019-06-15 18:38:59 | 日記
2019年6月15日(土)

> 現代語訳をつけてください。でないと・・・

 えー、そうなんですか~?
 『枕草子』だの『大鏡』だのと違って、まんまだと思うんだけど。しぶしぶ・・・

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 その昔、帝釈天の奥方は舎脂夫人という女人だったが、このお方はもともと羅睺(らご)阿修羅王の娘であったのを、父王の許しなく帝釈天が強引に妻にしたのである。阿修羅王は怒って娘を取り返そうとし、帝釈また断じて譲らず、互いに飽くことなく合戦を繰り返していた。
 ある時、帝釈が負け戦となって逃げ出し、阿修羅がこれを追うことがあった。須弥山(しゅみせん)の北側から帝釈が逃げようとしたところ、前途に蟻がうようよ這い回っている。これを見て帝釈、
 「今日の戦いに敗れ、阿修羅にしたたか痛めつけられることになったとしても、戒を破るわけにはいかない。このままこの道を逃げたなら、どれほど多くの蟻を踏み殺すことになるだろうか。不殺生戒を破ったのでは、天上界や人間界など善所への転生は望めないし、まして仏道を成就して輪廻から解脱することも叶わない。」
 帝釈はこう言って踵を返した。
 さて阿修羅王、逃げる帝釈に背後から襲いかかろうとしたが、帝釈が決然と振り返るのを見て「さては大勢の援軍を得て、反撃に転ずるつもりか」と驚き慌てた。これは一大事と逃げ帰り逃げ回り、泥にもぐってレンコンの穴の中に逃げ込んだのである。
 帝釈は戦に負けて逃げるところだったが、蟻を殺すまじの一念のおかげで、かえって勝利を得た。「戒を持(たも)つ者は三悪道(註: 地獄道・餓鬼道・畜生道の三道)に落ちることなく、むしろ難を遁れるであろう」と釈尊が説かれたのは、このようなことだと語り伝えられているそうな。

 ・・・お粗末さま
Ω

穴の空いたレンコンさん

2019-06-13 13:59:34 | 日記

2019年6月13日(木)


 レンコン専門店で会食歓談。素朴にして滋味豊か、至って好ましい食材だが、気をつけないと、びっくりするようなものが穴から飛び出してくるかもしれない。

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 今昔、帝釈の御妻は舎脂夫人と云ふ。羅睺(らご)阿修羅王の娘也。父の阿修羅王、舎脂夫人を取らむが為に、常に帝釈と合戦す。
 或時に、帝釈既に負て返り給ふ時に、阿修羅王追て行く。須弥山の北面より帝釈逃げ給ふ。其の道に多の蟻遙に這出たり。帝釈其蟻を見て云く、「我れ今日譬ひ阿修羅に負て罰(うた)るる事は有りとも、戒を破る事は非じ。我れ尚を逃て行かば、多の蟻は踏殺れなむとす。戒を破(やぶり)つるは善所に不生(しょうぜ)ず。何況(いかにいわん)や、仏道を成ずる事をや」と云て返り給ふ。
 其の時に、阿修羅王責め来ると云ども、帝釈の返り給ふを見て、「軍を多く添て、又返て我れを責め追也けり」と思て、逃げ返て蓮(はちす)の穴に籠(こもり)ぬ。帝釈負て逃げ給ひしかども、蟻を不殺(ころさ)じと思ひ給ひし故に、勝て返り給ひにき。されば、「戒を持(たも)つは三悪道に不落(おち)ず、急難を遁(のが)るる道也」と仏の説き給ふ也けりとなむ語り伝へたるとや。
『今昔物語集(天竺・震旦部)』 帝釈、修羅と合戦(こうせん)せる語(こと) 第三十

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 「とんだ早とちりしちゃって恥ずかしいです。穴があったら入りたい」(阿修羅)

https://4travel.jp/travelogue/11267664 より拝借

Ω

三里塚の幼稚園にて

2019-06-13 05:30:42 | 日記
2019年6月2日(日)
 遡って、この週はなかなか多事だった。その初めは三里塚教会付属幼稚園で、保護者を対象とした小講演。
 「何しろ三里塚ですので、といえば、役所も大目に見てくれるところがあったらしいのですが、最近は三里塚といってもピンとこない人たちが役所にも増えまして」
 N先生が笑って語られる、その三里塚である。毎年この時期にお招きいただき、こちらは梅雨入り前の成田遠足といった呑気さで御歓待に甘えているが、訪れるたびに有形無形の何かが少しずつ整えられていくのを目撃する。
 今年は園舎の内外が明るいサーモンピンクに塗りあげられ、子どもたちの頬の色までいちだんと朗らかに見える。藤棚の緑が例年通り細やかに濃い。

 

 話のテーマは「子どもの心を育む言葉」というのである。そこで伝えた七箇条:

 1. 日々の言葉を交わせる幸せ ~ 「おはよう」「いただきます」「いってらっしゃい」
 2. 言葉は食べもの ~ 「人はパンだけで生きるものではない」
 3. 語ることと聴くこと/聞き惚れること ~ 「その話は何のことですか、とイエスは言われた」
 4. 言葉は刃物である ~ 「神の言には命あり力あり両刃の剣よりも利し」
 5. ことばだけが語る道具ではない ~ 体と行動が語ること
 6. 子どもと一緒に言葉を探そう ~ 「読み聞かせ」の効用
 7. 好きな言葉を味わう・ためる・贈る ~ 友人から贈られた言葉のあれこれ
 
 これでは判じ物である。いずれ丁寧に書いてみたいと思っていたら、聞き手のお母さんたちが早々に話をまとめてくれた。皆おくゆかしくて当日は質問も出なかったが、目が語っていた通り、しっかり聞き取ってくれたようである。
  冒頭に伝えたかったのは、たとえばかつて戦災孤児と呼ばれる子どもたちが全国至るところに存在し、この子らは親に「おはよう」「いってらっしゃい」と言葉をかけてもらえぬままに成長したということである。

 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。

Ω

西へ日帰り

2019-06-09 07:29:20 | 日記
2019年6月8日(土)



 なだらかな山の平たい頂を、雲が分厚い真綿のように覆っている。層積雲ということになるだろうか。大垣市あたりで新幹線の車窓から南の眺め、養老山地の北端にあたる。


 京都の入口で必ず目にとまる、注視すれば恐ろしげな「黒衣の」塔。
   "Look at that."
   "Wow, pagoda!" 
 と、前席の米国人(以外ではあり得ない)女性グループ。なるほどパゴダか、それには違いないね。
   言わずと知れた教王護国寺、いわゆる東寺である。従兄の家が近いことから、京都の寺社の中で最初になじんだ。『太平記』を読んで一段と印象が強まったのは、武家がしばしばここに本陣を置いたからである。
 建武3(1336)年の戦いで阿弥陀峰の篝火をめぐるやりとりがあったことは先に書いた。その折り、新田義貞が足利尊氏に一騎打ちを挑んだのもここらしい。門前で呼ばわり挑発する義貞に、応じて立とうとする尊氏を幕僚が中国の故事を引いて懸命に諌止する。項羽が劉邦に挑戦した時、劉邦はせせら笑って応ぜず、「汝を討つに刑徒をもってすべし」と嘲ったのではなかったか。怒り心頭に発した項羽の放つ矢が、前を守る兵士の体を貫いてなお劉邦に手傷を負わせたが、それもそこまで。項羽といい義貞といい、戦況利あらずと見て乾坤一擲の勝負手に訴えたのである。
 18年後の文和3(1354)年の戦いでは、逆に宮方が東寺に陣を置いた(第32巻13『東寺合戦の事』 文庫5巻 P.209-)。それにしても黒々と黒く、いつ見ても恐さを禁じえない。


 岳父の帰天したのが一年前の6月8日、それを覚えて阪急線沿いの教会のミサに親族一同20名近くが集合した。当家の三男だけ欠席となったのは、所属の医学部で解剖学実習にかかわる慰霊祭が行われる、奇しくもその当日にあたったためである。
 解剖学の教授であった岳父は自らも献体し、遺骸はまだ戻ってきていない。あるいは三男が、この日に最もふさわしい過ごし方をしたのかもしれない。

Ω