2019年6月29日(土)
こわごわ万歳してみると・・・できた、挙がった!
勇躍、朝のラヂヲ体操を再開する。15ヶ月ぶりぐらい?
年齢詐称の五十肩が突発したのが2018年春、ちょうど半年経って母が急逝した頃、すぅっと右が良くなるのと入れ替わって今度は左。
五十肩の不思議は、時間はかかるけれど日が経つにつれひとりでに治ることである。基本的に加齢の随伴現象だというなら、ひたすら悪化の一途を辿るのもありそうなところ、なぜ治る、なんで良くなる?
自身の変化に自身が適応するということか、それって人やモノの名前を思い出せない自分に、いつの間にか寛容になっていることと同じかしらん。これ、案外深い原理につながっているのかもしれない。
それにしても15ヶ月の間に、もともと固い体がまたいっそう固くなったこと。身のこなしも鈍重になるわけだ。頭の中もこんなふうなのかな。
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ラヂヲ体操の後のニュースも15ヶ月ぶりになるわけだ。
最高裁裁判官の国民審査制度というものがあって、理念は結構だがおよそ機能しそうにないシステムの見本のようなものである。「辞めさせたいと思う人間についてバツをつける」というやり方は、独裁者の出現を予防する目的などにはそれなりに使えるもので、古くは古代ギリシアのオストラキスモス(陶片追放)に例がある。ただ、政敵のプロパガンダで不当に追放される者が出るという副作用が、当然ながらつきまとった。
それはさておき、現今のこの制度が役に立たないというのは、一つは最高裁の司法判断を丹念に追うことに相当の見識と努力を要するため、もう一つは法廷の総意として下された判決に、個々の裁判官がどのように関与したかが見えにくいためである。「よくわからない」というのが大方の本音で、わからない時には何もしないで放置するのが人間の通性だとすれば、大多数の平均的な常識人は何も書かずに紙を投じるだろう。
どこか釈然としないまま、そのようにふるまっていた自分の愚かさを痛感したのは、たぶん二十歳になって最初の総選挙の時である。投票翌日、月曜日の大学キャンパス、選挙の行方について三、四人の立ち話の中で、
「で、国民審査は?」
「全バツ」
「全バツ、仕方ないよ」
「僕もだ、もう少し詳しく知ってればね」
「いや仕方ないって、制度設計がおかしいもの。信任はマル、積極的な罷免はバツ、どちらともいえないのは△っていうなら分かるよ、バツの付かなかったものはマルと見なすというのがおかしいだろ」
「推定無罪の考え方であって、裁判官チェックの理屈ではない」
「そもそも最高裁の判決がさ、個別にはともかく最近の流れとして」
「そこは人によるかもしれないけど、わからないならバツにしたいよね」
・・・友が皆 我より偉く見ゆる日よ
あの日はほんとに恥ずかしかった、頭はこういうふうに使うものか。
あれから40余年、どれほど進歩したか自問するなら忸怩たるものだが、相も変わらずパッとしないのは先様も同じである。最近いちばんの落胆、というより驚きは、大崎事件の再審請求が棄却されたことだった。一、二審で認められた再審の開始を最高裁が覆した初のケースだという。最高裁というものが必要なのかどうか、よくわからなくなってきた。
最近は僕も、裁判官のプロフィールを以前よりは丁寧に読むようになった。そうして除いた少数の名前を残し、残りは一律にバツをつける。次もまた除ける名前があることを、切に望んでいる。
Ω