散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「アーメン」談義、訂正・付記など

2017-07-25 09:26:40 | 日記

2017年7月25日(火)

> マタイ福音書 33箇所
> マルコ福音書 15箇所
> ルカ福音書 6箇所
> ヨハネ福音書 31箇所

> あと、使徒言行録以下が43箇所である。

大幅訂正。「αμην」という文字列で検索をかけたので、動詞の活用形として「-αμην」が含まれる部分まで抽出されてしまった。
これを取り除くと、実際には下記。

マタイ福音書 31箇所
マルコ福音書 13箇所
ルカ福音書 6箇所
ヨハネ福音書 25箇所

使徒言行録以下(実際はロマ書以下)27箇所。

ロマ書以下の27箇所はすべて結びの挨拶や祈祷、あるいは引用や倒置の結果として文頭・文中に置かれたものだから、文頭にあって「はっきり(言っておく)」の意味をもつ用法は福音書限定で、しかもそのすべてがイエス自身の言葉である。逆に福音書中には挨拶・祈祷の文末のアーメンは一つも見られない。

つまり、

福音書のアーメン ・・・ イエス自身が文頭に強意として用いた言葉(計75箇所)
使徒書のアーメン ・・・ 使徒らが挨拶・祈願・祈祷の(主として)末尾に用いた言葉(計27箇所)

という対照がはっきりしている。

ユニークなのが前者ではヨハネ福音書、後者ではヨハネ黙示録である。
ヨハネ福音書の謎の注釈の件、僕の誤読だった(書き方もやや分かりづらい)。ヨハネ福音書の25箇所では、すべて文頭のアーメンが二度反復される形で記されている。辞書の著者はそのことを注記したのだ。

ἀμὴν ἀμὴν λέγω σοι, ὅτε ἦς νεώτερος, ἐζώννυες σεαυτὸν καὶ περιεπάτεις ὅπου ἤθελες: ὅταν δὲ γηράσῃς, ἐκτενεῖς τὰς χεῖράς σου, καὶἄλλος σε ζώσει καὶ οἴσει ὅπου οὐ θέλεις.
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。
(ヨハネによる福音書 21:18)

ヨハネ黙示録では、アーメンの語は主の再臨待望を祈願する文脈でとりわけ強く発せられる。

Λέγει ὁ μαρτυρῶν ταῦτα, Ναί, ἔρχομαι ταχύ. Ἀμήν, ἔρχου, κύριε Ἰησοῦ.
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
(ヨハネの黙示録 22:20)

なお、使徒ヨハネ、ヨハネ福音書の著者、ヨハネ書簡の著者、ヨハネ黙示録の著者は、同一人物と誤解される場合があるが、到底そうは考えられないことを付記しておく。
グルッと回って最初の疑問、ルカがなぜ主の「アーメン」を6箇所に限定したかは、またゆるゆると考えてみよう。

Ω


ルカが記したアーメン6箇所

2017-07-21 04:31:37 | 日記

2017年7月20日(木)

 少し前に中高生に「アーメン」について話す機会があった。

 祈りの最後をアーメンで締めくくることは文字通り誰でも知っており、この道の信心の代名詞にもなっている。「まことに、ほんとうに」といった意味で、旧約ヘブル語から新約ギリシア語に入ったものである。この「アーメン」が祈り等の末尾ではなく文頭で用いられることがあり、この場合は「おごそかに、はっきりと」といった意味で後続文の内容に関する強意強調を示すことになる。

 ・・・などと概括してしまうより、用例を全て列挙した方がいいかもしれない。そう思い立ったのは、とある辞書が「ヨハネ福音書にのみ25回、この用法がある」と記していたからで、突出して25回なら他はよほど少ないのだろうと思ったのだ。そこでさっそく実行しようとしたが早々に頓挫した。というのも調べてみると実際には・・・

 マタイ福音書 33箇所
 マルコ福音書 15箇所
 ルカ福音書 6箇所
 ヨハネ福音書 31箇所

 あと、使徒言行録以下が43箇所である。

 知れた数とはいうものの、朝飯前にさっさとかたづけるという訳にはいかず、ヒマを見てはねっちりやってみるしかない。全文の長さを考慮すればマタイ・マルコ・ヨハネでの出現頻度は似たようなもので、件の辞書(古くから定評のあるもの)がヨハネに注目した理由がよく分からない。

 むしろ気になるのは、ルカにおける使用頻度の少なさである。マタイとルカには並行箇所が多いのだから、両者の違いは際立っている。たとえば下記。

 「はっきり言っておく。およそ21:32)女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ 11:11)

 「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ 7:28)

 マタイが「アーメン」を付加したか、ルカが「アーメン」を削除したか、二つに一つだが、両者の共通資料でもあるマルコにはそこそこ使われているところを見れば、ルカが削除した(あるいは使用箇所を厳選した)可能性が高いと見るべきだろう。

 なので今は、ルカが「アーメン」を敢えて採用した6つの箇所を列挙しておく。先日、鶴見教会で話をさせてもらった時にも思ったのだが、ルカ福音書固有の記事には捨てがたい(?)ものが少なくない。よきサマリア人のたとえ、ザアカイの逸話、そしてエマオ途上の主の顕現、いずれもルカにしかないのである(!)。

***

1. そして言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ・・・」(ルカ 4:24)

2. 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。(同 12:37)

3. はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(同 18:17)

4. イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(同 18:29-30)

5. はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。(同 21:32)

6. するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(同 23:43)

 う~ん、何だろう?

Ω

 


信玄の病い、道長の患い

2017-07-20 06:18:08 | 日記
2017年7月19日(水)

 ときどき送られてくる「医学史クイズ」から最近面白かったものを二題。著作権という言葉は聞いただけで震え上がるぐらい恐いので、換骨奪胎・大幅にリライトしておく。

 オリジナルの出題・解説はいずれも日本医史学会理事・青木歳幸先生である。

 

問1 

 歴史書『甲陽軍艦』によれば、晩年の武田信玄は「隔の病」にかかっていたと伝えられる。

 元亀3年(1572)、天下統一のため京都を目指して西へ軍勢を進めた信玄は、同年12月徳川家康を三方原で打ち破るなど破竹の進撃。ところが突如ピタリと前進を止め、翌元亀4年(1573)4月初めには反転、甲州へ戻り始める。信玄は腹部の激痛に苦しみ、4月12日に信州駒場で53歳の生涯を終えた。

 さて、信玄を死にいたらしめた「隔の病」とは何か、可能性の最も高いものを選べ。

 

A 心房中隔欠損症

B 腹部大動脈瘤

C 胃がん

D 赤痢

E 慢性腸炎

 

【正解と解説】

 戦闘による傷の悪化や、暗殺説、結核説もあるものの、C の胃がん(もしくは食道がん)説が最も有力と考えられている。

 葬儀直後に侍医である御宿監物友綱が、信玄の重臣小山田信茂に送った天正4年(1567)4月16日の書状に、信玄の病状は「若しくは肺肝により、病患忽ち腹心に萌し安んぜざること切なり。これにより、倉公花佗の術を尽し、君臣佐使の薬を用ふると雖も、業病更に癒えず。追日病枕に沈む」(『甲府市史』所収)とある。

 倉公と花陀は、漢代の伝説上の名医。とくに花陀(華陀とも)は、麻沸散という麻酔薬を使って外科手術を行った名医とされ、華岡青洲も華陀の麻酔薬をヒントに麻沸湯を発明した。このことから、疼痛を抑えるために麻酔を使っていた可能性が窺われる。

 

問2

 平安時代の権力者藤原道長は、寛仁2年(1018)に、後一条天皇が11歳になったとき、三女の威子を入内させ、中宮(皇后)とした。威子立后の日に祝宴を開き、「この世をばわが世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば」(『小右記』)との即興歌を詠んだと伝えられる。

 かほどに栄華をきわめた道長の体は、それゆえに持病にむしばまれつつあった。翌寛仁3年(1019)には視力が低下して出家。以後、法成寺建設に力を尽くしたが万寿4年(1027)、数日前からできた背中の腫れ物に苦しみつつ62歳で病没。

 さて、道長の持病は、次のうちどれであったと推測されるか。

A 痘瘡(天然痘)

B 多発神経炎

C マラリア

D 梅毒

E 糖尿病

【正解と解説】

 道長が51歳の寛仁2年(1018)の藤原実資の日記『小右記』に、「3月頃からしきりに水を飲むようになった、近頃は昼夜の別なく水を飲みたくなる。口が渇いて脱力感がある」とある。明らかにE 糖尿病の症状であろう。望月の歌を詠んだ翌日の『小右記』には視力が低下したとの記載があり、糖尿病性の視力障害が進行していたものと思われる。

 翌寛仁3年(1019)2月6日の『御堂関白記』には、「心神常の如し、しかし、目尚見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物のみ之を見る」と、ほとんど視力がなくなっていることが記され、万寿4年(1027)6月4日の『小右記』には、「飲食受け付けず、無力殊に甚だしき由」とある。

 同年11月21日には、下痢が激しくなり、背中に腫れ物ができて化膿した。医師が招かれ、「背中の腫物の毒が腹中に入り救いがたい」との診断あり、12月1日夜半に背中の腫れ物に針を刺して膿汁を出す治療を施したが著効なし。叫び声をあげて苦しんだ後、昏睡状態に陥り、12月4日の早朝に生涯をとじた。

 栄華を極めた道長であったが、糖尿病の遺伝的素因、過飲過食、運動不足、ストレス、肥満と、発症因子のすべてがそろっていたものと推測される。

***

 胃がんも糖尿病も昔からあったというわけだ。なお、徳川家康の死因としても「胃がん」が有力視されているらしい。伝わるところでは天ぷらを供されて非常に喜び、珍しく飽食した後で急性腹症を起こして亡くなったらしいので、膵炎ではなかったかと思ったりするんだが。

Ω

 

 

 



儒教ですか

2017-07-19 08:55:18 | 日記

2017年7月18日(火)

 勝沼さん、重ねてありがとう。儒教なんですかね、やっぱり。

 石丸がずっと気にしている ~ まさに気にしている「気」という言葉の用法について見ていくと、どうやら室町時代あたりの朱子学の継受がひとつのカギを握っているらしく思われます。武士道のあり方にも朱子学は強い影響を与え、とりわけ江戸時代前半は朱子学が公論。これを荻生徂徠が古文辞学によって批判克服し、対抗勢力また陽明学から力を汲むという具合に、儒教を抜きにして日本の思想史とりわけ政治思想史を語ることはできないのですが、儒教の受けとめ方・取り込み方の中に半島とはっきり違ったものがあるように思っていました。

 儒教を学んで朝鮮は優等生、日本は劣等生という言葉をどこかで聞いた記憶があります。正面からまともに受け容れ全面的に実行した彼の国に対して、こちらは多分に不徹底で修正改良だらけということなのでしょうが、逆に言えば全面的に圧倒されたか、素材として消化したかの違いともいえそうです。「気」などはまさに好例で、本来もっと実体的で物理現象とも相互移入のある「気 qi」を、われらが祖先は完全に骨抜き脱灰して精神現象の仮主語として使うようになり、そこに誕生した「気 ki」は既に「気 qi」とは別物・・・などと睨んでいるのですがね。

 突然ですが、涙でネズミの絵を描いた雪舟は明に留学してるのです。渡明は1467年(応仁元年)つまり応仁の乱の始まる年で、時に雪舟47歳、いろんな連想が働きますね。もっとも、雪舟自身はもっぱら絵を学んで帰ったのであって、朱子学継受の本流に関わるものではありませんが、何か何だかこのあたりにありそうな気がするんです・・・また「気」だよ。

 この件、いずれあらためて。

 「雪舟自画像」重要文化財 藤田美術館蔵(https://ja.wikipedia.org/wiki/雪舟)

 ***

・タイトル: 追加 韓国と日本の似てる所、似てない所

・コメント:

 韓国と日本の類似点としては前にあげた『サニー 永遠の仲間たち』はお勧めです。80年代と現代を行ったり来たりする映画なのですが、韓国も日本と同じようにオリンピックと学生運動、生活の激変を経ていたのかとハッとなりました。韓国に不思議な親近感を感じる映画です。

 一方、韓国と日本の違いとして一番感じるのは儒教でしょうか。韓国映画の『悪いやつら』は税関職員の男がたまたま出会った暴力団の組長が遠戚だったことから、暴力と処世術で裏社会のトップに登りつめる話なのですが、なんとこれ実話なのです。日本人の私からすると韓国の親戚関係の強さは全く意味が分からない。

 近年の日本映画と韓国映画はどちらも素晴らしい作品が多いですが、私の個人的な印象としては大ヒット映画の中での面白い作品の数は韓国と日本でかなり差があるように思えます。日本の(私が思う)良作は必ずしも大ヒットしてない。

 韓国映画に『ミスターGO!』というゴリラがプロ野球選手になる映画があるのですが、この設定って水島新司の野球狂の詩にあったものです。こういうのが日本でつくられず、韓国で面白くつくられてヒットしてるのは、映画ファンとしては嬉しく、日本人としては少し悲しいですねぇ。。。

Ω


開成山公園

2017-07-16 07:02:15 | 日記

2017年7月15日(土)

 勝沼さん、再度のコメントありがとうございます。

> 会津若松市にも大熊町の町役場があります。

> 郡山の市役所付近といえば、開成山公園には足を運ばれましたでしょうか。あそこの公園の草地は除染がされていて、その記録が大きな看板に書かれているのですが、除染前はこんなに高かったのかと驚かされます。

***

 詳しくお話ししていなかったかと思いますが、私は修業時代に郡山に3年余り住んでおり、職場が開成山公園からほど近い精神科病院でした。近いのでかえって足を運ばないという例のパターンではありましたが、花見の賑わいや夏の花火、ときどき開成山球場を訪れるプロ野球戦(巨人の中畑清は安積商業出身)など、熱気を肌に感じて過ごしていました。

 放送大学の福島学習センターは郡山女子大学の一郭に間借りしており、同大学は開成山公園の一隅に位置しますから、今回もそのエリアでうろうろしていたわけです。長者町にあるホテルから桑野町を経て学習センターに向かう道は、開成山球場の真ん前を通ります。ちょうど夏の甲子園予選が開幕したところで、35℃予報に向けてぐんぐん気温の上がる炎天下を「おはようございます!」と通行人一人一人に最敬礼する各校の下級生たちが、初々しいやら気の毒やらでした。今回は立ち寄る暇がなく、除染記録ボードを見損なって残念なことをしましたが、そういうことだったのですね。

 ついでながら「おくのほそ道」は白河・須賀川から松島へ向かう途次に郡山を通過するのですが、JR郡山駅から2km西に位置する開成山あたりの記録はなく、同駅の北7kmほどの安積山と檜皮宿(現・日和田町、綴り方の変化が面白い)を通ったとあります。「このあたり沼多し」と簡潔に書かれており、「1873(明治6)年に郡山の商人が出資してできた民間団体の開成社が開成山一帯の沼沢地を開墾し、桑野村を開いた」云々と wiki にあるのと符合します。郡山一帯に至るところ沼沢が広がっていたのでしょう。安積疎水の一大事業で面目一新、その象徴が開成山公園というわけです。原子力災害が克服されたあかつきには、同地が新たな象徴的意義を重ねもつことになるでしょうか。

 なお、国道49号線をはさんで公園の西向かいにある開成山神社は「東北のお伊勢様」などと呼ばれ、由緒正しいもののようですが、実は安積開拓にあたって民心の拠り所にするため1876(明治9)年に分霊を受けた新しいものだそうです。これが学習センターの真向かいでした。

     

(左: 学習センター入口、中: 開成山大神宮、右: 帰途の新幹線からの風景)

 以上、お返事に代えて。

Ω