散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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金曜日の風景 ~ 2020までに必要なこと/ある会話/グラース・ア・ヴ

2017-07-28 14:11:01 | 日記

2017年7月28日(金)

 朝から毎度ありがたい景色を見るもので、優先席はイヤホンとスマホで完全武装の若者ならびに壮年者が全て占拠、杖をついた高齢の人々がその前や横に立たされている。今日だけの偶然ではない、朝の通勤時間帯などはこれがほぼ常景だ。

 2020年に向け、会場施設の建設作業は死人まで出しながら急ピッチの進捗だが、車内や街頭のこの種のマナーを何とかしないと、民度の低さをわざわざ世界に広告する仕儀になりかねない。むしろその方がいいのかな、世界中に知れてしっかり笑われた方が。

 ニュージーランド人青年が精神科病院入院中に身体拘束され、その後亡くなった件は予想したほど話題になっていない。これこそ海外から厳しい指弾を受ける前に、日本の中でしっかり検証する必要があるのだけれど。

***

  「チャックを開けて、私という人間から出ていきたい、っていう気もちが、いつもあるんです。長谷川真理(仮名)という人の中に、私という魂が入っているのが間違いだって、どうしても思えてしまって。」

 「あなたという魂が出ていったら、後は抜け殻になってしまうとは思わないんですね。でも、そうなんですよ。あなたが出て行ってしまったら、後には何も残らない。だってあなたの体なんだから。」

 「先生がそう言ってくださると少し安心するんだけど、しばらくするとまた戻っているんです。私がここにいるのは間違っているという気がしてしまう。」

 「そんなふうに囁く天邪鬼(あまのじゃく)があなたの中にいるんですね。『お前はつまらない』『お前は生きる資格がない、食べる資格もない』『お前は出ていかなければならない』とひっきりなしに言ってよこす天邪鬼が。あなたは穏和な人だけど、ハッキリ言い返して構わないんですよ。私がどんなにつまらない人間でも、これは私の体でここは私の場所なんだから、出ていくのは私ではなくお前のほうなのだ、私の体から出て行けって。チャックを開けて、天邪鬼を放り出してください。自分が出てっちゃだめです・・・」

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 あるお嬢さんは、ストレス状況が深刻になるとSOSの電話をよこして来談し、ひとしきり話して心の荷下ろしをしていく。薬は出すとしてもお守り代わりの頓剤ぐらいで、話して発散するのが主眼、街中のクリニックの活用法として有効かつ賢明なものである。「ちょっと混んでいて、15分ぐらいしかとれませんが」「それで十分です」と電話で打ち合わせての来院なのに、次の患者さんがキャンセルしたり電車が遅れたりで実際には30分以上とれるということが来るたびに起き、強力な守護霊でもいるのかと毎度の不思議。

 ストレス解消法の一つが「美味しいものを食べる」ことだそうで、最近お気に入りの店の名は「グラス・アブー」というのだそうである。「お母さんにおごってもらう?」「いえ、母に御馳走してあげました。わたしって親孝行!」と今回も笑顔を取りもどして帰っていった。

 「グラス・アブー」はフランス語のようだが何だろうかと調べてみたら、"Grâce à vous" のことなんだね。grâce は恩寵などと訳されるが(ヴェーユが「重力と恩寵」という作品を遺している)、grâce à vous だと「あなたのおかげ」という意味になるようだ。「おかげさまで」は良い言葉である。この母子に似つかわしく、そこに回復のカギもあるだろう。

Ω


『朝の道しるべ』から ~ 悟り

2017-07-28 12:53:09 | 日記

2017年7月27日(木)

 人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。(詩篇49:21)

 אדם ביקר ולא יבין נמשל כבהמות נדמו׃

 成功、栄達、繁栄。自信、満足、おごり。高い所に立てば何もかもが見渡せます。人がみな小さく見えます。なるほど、世の中こういうものかと思います。爽快です。

 しかし、そのとき、彼には何も見えていないのです。真実は何ひとつ見えていません。目が眩んでいるからです。砕かれて、低くされて初めて見えるもの、それが真実です。目の曇りが取れて。

『朝の道しるべ』 P.220

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 サタンは誘惑のクライマックスにおいて、イエスを高所に連れて行った。ここに記された、心の高みのことだったのだ。

 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」(マタイ 4:8-10)

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 もう一つ、小島先生は詩篇49:21の前半だけを取り、後半を省略なさった。省略された部分には「屠られる獣に等しい」とある。きつい表現である。この部分の翻訳を並べてみる。

 「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」(新共同訳)

 「人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣に等しい。」(口語訳)

 「尊貴なかにありて暁(さと)らざる人は、ほろびうする獣のごとし。」(文語訳)

 旧約ヘブライ語の難しさが端的に察せられる。かつてドン・ハウランド牧師が「考えるな、感じよ」とブルース・リーみたいなことを言った所以であろう。選んで良いものなら、ここは新共同訳を取りたい。同訳による詩篇49全体を転記する。

***

 【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ
人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。
わたしの口は知恵を語り/わたしの心は英知を思う。
わたしは格言に耳を傾け/竪琴を奏でて謎を解く。
災いのふりかかる日/わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも/
どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。
神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。
魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。
人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。
人が見ることは/知恵ある者も死に/無知な者、愚かな者と共に滅び/財宝を他人に遺さねばならないということ。
自分の名を付けた地所を持っていても/その土の底だけが彼らのとこしえの家/代々に、彼らが住まう所。
人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。

これが自分の力に頼る者の道/自分の口の言葉に満足する者の行く末。
陰府に置かれた羊の群れ/死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き/誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる。
人に富が増し、その家に名誉が加わるときも/あなたは恐れることはない。
死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。
命のある間に、その魂が祝福され/幸福を人がたたえても
彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない。
人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。

Ω


「運動されています」??

2017-07-28 04:22:33 | 日記

2017年7月27日(木)

 前にも書いてたらごめんなさい。

 ラジオ体操で「今日も多くの方が集まって、思い思いに運動されています」てなことを言っている。背筋がゾッとするのは「運動されています」というケッタイな表現のためだが、これは体操指導者の責任ではない、少し前から某テレビ局が「される」を敬語の軸に決めたらしく、その方針は実に首尾一貫しているのが背筋の不快感の頻度でよくわかる。皆は平気なんだろうか。

 何がいけないかって?要するに美しくないからだが、それでは「感じ方の違い」で終わってしまうから、ここは頑張って理屈を考えてみよう。そうだな、大きく分けて二つある。

 ① 豊かで多彩な敬語表現を捨て去ることになる:

 同じ場面で「運動していらっしゃる」「運動しておられる」「運動なさっている」といった表現が可能であり、それぞれ微妙にニュアンスが違う。その使い分けに配慮や個性の現れるのが面白いところなのに、何でもかんでも「されている」ではその面白さが消えてしまうということが一つある。

 仮に百歩(千歩?)譲って「敬語表現がいろいろあっては煩瑣なので、一定の表現に統一する」といった主張に理を認めるものとしよう。その場合、「される」という表現が諸々の候補の中で最有力とは考え難い。なぜというに、

 ② 受け身表現との区別がつかない場合が生じる:

  「運動する」のような自動詞ならまだ害が少ないが、これを「体を動かす」といった他動詞表現で置き換えたらどうなるか?「体を動かされている」では、尊敬だか受け身だかいよいよ分からない。少し前の世代では、こういう「される」表現を尊敬を表すために使う習慣が元々ないから、まず最初に受け身を考えるだろう。強い風でも吹いてきて、皆の体が「動かされて」いるのかと。

 バカバカしいのでもうやめるが、一聞してゾッとする感覚を強いて言語化するなら概ねこんなところ。そもそも「運動していらっしゃる」でどこがまずいのか。

***

 やや痛快なのは、今更ながらのこんな混乱は「標準語」限定で、多くの方言には無縁の現象であることだ。(どこがどう「標準」なのか、この一事でも疑わしい。「標準」は混乱を防ぐためにある。)

 たとえば関西には「〜はる」という有名な敬語表現があって、その用法には揺らぎがない。ただ地域によって活用が違い、大阪で「言わはる」というところ、神戸周辺では「言いはる」と聞こえてくる。大阪で未然形、神戸で連用形に付くのかと思ったが、「来はる」はどちらも「きはる」(連用形接続)であって大阪でも「こはる」(未然形接続)にはならないから、そう簡単ではないらしい。いずれにせよ、大勢さんが集まって「運動してはる」のである。

 名古屋に目を転ずれば、ここには「〜みえる」という洒落た語尾がある。「運動してみえる」「体を動かしてみえる」という具合で、これもなかなか使い勝手が良い。そういえば伊豫松山あたりには「〜おいでる」という表現があった。「運動しておいでる」あるいは縮約が起きて「運動しといでる」となるのかな、ちょっと雅で僕は好きなのだが、若者の間では疾うに使われなくなっているだろう。

 関西弁にせよ尾張弁にせよ、これら気軽な敬語表現が日常言語にしっかり根づいていて、構えることなくスラッと口から出るのが良い。学校の先生が「言わはった」「言ってみえた」とは、どこの親でも当たり前に言うところ。いっぽう東京では敬語がどことなく仰々しいものになっており、学校の先生に敬語など使って阿(おもね)ってると思われるのがイヤだからか、単純に面倒だからか、小学生の親同士の会話で「先生がおっしゃった」なんてついぞ聞いたことがなかった。「先生が言ってたよ」「言ってた言ってた、私も聞いた。」そのくせ自分の子どもには「お姉ちゃん(注:長女のこと)」が手伝ってくれるって言うから」てな具合で、尊敬のベクトルがどっちに向いてるのかまったくカオス状態である。

 話を戻して、どうしても統一するというなら「運動していらっしゃる」が良いという理由を、書いているうちに一つ見つけた。「運動して」までは同じ、後続部分が「標準語」では「いらっしゃる」、関西弁では「はる」、尾張弁では「みえる」、そして往時の伊予弁では「おいでる」になるわけで、これなら各地の方言の互換性が一見明瞭である。これは偶然ではなく、実際そのように各地の表現が分化したのではないかという説を、素人談義の暫定結論としておく。

 時に、普通なら「作業を加速する」と言うところ、一頃の同テレビ局は「加速化する」から「加速化させる」へと順次「肥大化させ」ていたが、昨日あたりは「加速する」に戻していたね。試行錯誤中ということかな。

Ω