散日拾遺

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存以甘棠 去而益詠 ~ 千字文 040/M牧師二題(命の滴り)

2014-03-11 07:58:37 | 日記
2014年3月11日(金)

○ 存以甘棠 去而益詠

 甘棠とは「やまなし」のことだそうだ。

 存(い)ける時は、甘き梨をもってす。
 去(し)しては、詠(しの)びらるることを益す。

 「しのびらるる」って、間違いじゃないんだね。

[李注]
 『毛詩』に「甘棠篇」あり。召公(周の武王の弟)は西伯となり、いつも甘棠(やまなし)の木下に座ってさまざまな訴えを裁き、道理に適ったやり方で人々を治めた。人々はその徳の及ぶのを楽しんだ。召公が去って後、皆はその徳を偲び、木を伐らなかった。

 甘棠、伐ることなかれ、召伯のやどりしところ・・・

***

 両親が松山で出席する教会のM牧師、週報の寸言が註解書にとらわれない感じで新鮮である。

◇ 『美しい世界』(2012年6月17日)

 「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。(創世記 1:11)

 植物は、神様が直接お造りになったのではありませんでした。大地がその役目を託されたのです。大地の忠実な奉仕によって、この世界に生命が誕生し、美しい世界が広がっていきました。


◇ 『愛されていることを信じる』(2012年4月22日)

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ福音書 20:27)

 トマスが疑っていたのは、主の復活ではなく、主の愛でした。
 「どうして復活された主は私にだけ会いに来てくれないのか。それは私が愛されていないからだ」と思っていたのです。しかし、主はトマスのところに来てくださり、そうではないことを優しく教えてくださいました。
 「(愛されていることを)信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

 M師の読み方の特徴は、あらゆる場面にコミュニケーションを見ていることだろう。伝え、託し、期待し、反応し、応答する、その連鎖が人生であり歴史である、そのような姿勢が彷彿される。共感的な読み方といってもよい。
 これらの解釈が個別的に正しいかどうかは分からないし、反論もあり得ることと想像する。それでも、こうした読みを許すことの中にこそ、教典の汲み尽くせない豊かさはあるのだ。理屈だらけの干からびた神学からは決して得られない、みずみずしい命の滴りである。

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