散日拾遺

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先生の遺書 95 / 千字文 99 ~ 耽讀翫市 寓目囊箱

2014-09-03 06:59:42 | 日記
2014年9月3日(水)
 「私はその一言(いちごん)でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。」
 
 Kに先手を打たれて以来、打つ手がすべて裏目に出る「先生」の焦慮が、以前にはもっと痛ましく哀れむべきものに思われた。今はその怯懦が苛立たしく、卑劣が憎まれてならない。読んでいる自分の何かが変わったのだ。

 「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
 私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
 「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」

 Kが自ら表白する以上に馬鹿なのは、「先生」という目の前の人間の心理に豪も注意を払わず思いやりもしないことである。求道者にありがちの自己中心性そのままにKは生きてきた。そのKが、恋によっていま変容を迫られている。若者の成長の物語として見るならば、それはひとつの crisis ~ ピンチでもありチャンスでもあるような分岐点である。
 けれども漱石は、そのようには話を進めない。ここからは一本道、それぞれが撒いた種を刈って、それぞれに滅んでいく。Kも「先生」も20代前半の若さであることが、昔も今も奇怪に思われる。

***

○ 耽讀翫市 寓目囊箱
 読書にふけり、市場で本をむさぼり読み
 (書籍を入れた)袋や箱に、目をよせる。

 漢代の王充は家が貧しく、読む本がなかった。いつも洛陽の市場で、売っている本を読み、一度見ただけで、はや諳んじることができ、忘れることはなかった。それで「市場に翫(あそ)ぶときには、いつも本を収めた袋や箱に目をつけていた」というのである。

 『後漢書』巻49、王充伝による李注の解説。元祖、立ち読み勉強法。「一読暗誦」は羨ましい限りだが、1~2時間の立ち読みが意外に後に記憶を残すことは、確かに実感する。買ってしまうとかえって安心して読まないということもある。一方で「積ん読」も立派な読書の一法と勧める説もある。手許においてときどき眺めているうちに、何となく内容が浸透してくるというのだ。それぞれ一理あるかな。
 王充はその貧しさが幸いしたかもしれない。貧しさを幸いに変えたと言うべきか。

 耽讀翫市 寓目囊箱(タンドク・ガンシ グウモク・ノウショウ)、あまりきれいな音ではないが、意味はすっきり入ってくる。
 

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