散日拾遺

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続いて『太平記』、これがまた・・・

2019-05-08 15:00:22 | 日記
2019年5月9日(木)
 室町と言えばこれがあったなと『太平記』を読み始めたら、これがまたやめられない。これなど、どういう読者層を想定し、どんな形で流布されたのだろうか。
 明らかに影響を受けている『平家物語』などと比較して、一貫性が欠如しているだの完成度が低いだのの批判があるというが、つまらない話である。歴史資料として一から十まで真に受けたら間違いも多々起きるだろうが、それとは全く異質のものがここに生まれているに違いない。
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 門前に馬を乗り捨てて、小門より内へつと入り、中門の方を見れば、殿居したる者どもよと覚えて、物具、太刀、枕元に取り散らかし、高いびきかいて寝入りたり。厩の後ろを廻って、いづくにか逃げ路のある(か)と見れば、後ろは築地にて、門より外は道もなし。さては心安しと思ひて、客殿の奥なる二間を、さっと引き開けたれば、土岐十郎、ただ今起きたりと覚えて、鬢の髪を撫で上げて結ひけるが、山本九郎をきっと見て、「心得たり」と云ふままに、枕に立てたる太刀を取り、傍なる障子を一間踏み破り、六間の客殿へ跳り出でて、天井に太刀を打ち付けじと、払い切りにぞ切ったりける。
 時綱は、わざと敵を広庭へおびき出し、透き間あらば生け取らんと志して、打ち払っては退り、受け流しては飛びのき、人交ぜもせず戦うて、後ろをきっと見返ったれば、後陣の人大勢一千余騎、二の関(きど)より込み入って、同音に時をどっと作る。土岐十郎、これを見て、虜(いけど)られじとや思ひけん、元の寝所へ走り帰って、腹十文字に掻き切って、北枕にこそ臥したりけれ。
『太平記』第一巻 九
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 障子を蹴破って広間に跳り出し、低い天井に刀がつかえないよう払い切りに切るなどという描写の、表現も内容も何と具体的でリズミカルで力強いことか。調子の良さは高雅より通俗に近く、少し前までの殺陣の上手な時代劇を見るようで、まさしくそのように往時の読者(あるいは太平記読みの聞き手)を魅了したのではあるまいか。
 一方、地の文には漢籍からの引用がまあ何と多いこと。後醍醐帝が廉子中宮を偏愛するくだりはまるっきり長恨歌のパクリで、書き手もそれを隠そうともしていない。
 「君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚えありて、三千の寵愛一身にありしかば、六宮の粉黛は顔色なきが如くなり・・・これより君王、朝政をし給はず。」
 「六宮の粉黛顔色なし」などという名文句は、オリジナルの長恨歌の魅力に加え、このように引用され繰り返し語られるにつれ、人々の語彙の内に根をおろしたのだろう。漢籍が日本人の伝統の一部であることは、こんなところからも知られる。
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  南朝正統論に立つものと読みもせずに思い込んでいたが、少なくとも後醍醐帝に関しては上述の通り批判的な記載があるのにさっそく驚いた。人物描写の生き生きしているのに比して、政治道徳的な議論はのっけから怪しい。第二巻末尾で、大納言師賢が後醍醐帝になりすまして叡山に入り、そうとは知らず感激した僧兵らの奮戦で坂本合戦に勝利を得る場面。これを正当化するのに、劉邦になり代わって項羽の軍門に降り、自らは火あぶりにされた紀信の逸話を引く。
 「今、主上、かかりし佳例を思し召され、師賢も、かやうの忠節を存ぜられけるには。かれは敵の囲みを解かんがために詐り、これは敵の兵を遮らんために謀る。和漢時異なれども、君臣体(てい)を合はせたる謀、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀なり。」
 それ、違うでしょ~。紀信は敵を欺いて自らは落命した、師賢は味方を騙して命を的の戦いに駆り立て、自分はのうのうと生き延びている。和漢時異なるの問題じゃなくて、性根のありようがまるでかけ離れているんだのに。
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 それにつけても、ああ面白い。 Amazon の読者レビューに珍しく共鳴した。
 「格調は低く、常套句濫用の文章でも、時代の転換期の人物像や世相が生き生きとよみがえり、滅法面白くて時間を忘れて読み耽ることになります/討幕の謀議偽装のため?に17~18歳の下着姿の美少女を20人以上も集めて乱痴気パーティーをやったり、最愛の妻に寝床で「内緒だよ」と言って漏らした所、妻が一族の後難を恐れて実家の父に伝え謀反が露見するとか、現実感が有り過ぎます/懇切注釈で古語辞典不要の旨、付しておきます。 」
 このレビューに★5つ!

Ω


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