散日拾遺

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戊戌に変法なるや否や

2018-01-02 17:53:14 | 日記

2018年1月2日(火)

 昨2017年が丁酉(ひのと・とり)、なので今年2018年は戊戌(つちのえ・いぬ)である。

 戊戌と言えば中国史上の戊戌変法、これが今から120年つまり二回り前のことになる。日清戦争の敗北で支配者らがいよいよ現実に直面した清朝末期、光緒帝を中心として明治維新に範を取る改革を試みる動きあり。これに先立つ洋務運動が「華魂洋才」の小手先改革に終わったのに対して、発想そのものを近代化しようとしたものと理解していたが、そう単純なものでもないらしい。

 何しろこれが1898年のこと、それから60年刻みで遡るとどうなるか、何か見えるか?

 1838、1778、1718、1658、1598、1538、1478、1418、1358、1298、1238、1178、1118、958、898、838、778、718、658、598、538、478、418、358、298、238、178、118、58、BC2…

 どうもならないよ、何も見えない。538年に仏教が本朝伝来というぐらいか。2-3年の誤差を許すなら、アメリカ独立とか西ローマ滅亡とか有象無象がちらつくけれど、当然ながら規則性などありはしない。

 ともかく清朝中国は窮して変ずることに失敗し、戊戌変法から10年余りで辛亥革命を迎える。当時の彼の国のように露骨な劫掠の危機に瀕しているわけではないが、重ねてきた無理の歪みと地球規模の生存条件の変動に、慢性的に圧迫されて酸欠状態なのは間違いない。

 ものの考え方の根本に関わる、ある種の変法を実行できるかどうか、目に見えるよりはずっと瀬戸際に近づいている気がする。2020年を期しての改憲などという類いの「変法」と、皮肉に連動してはいるが全く別の話である。

Ω


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