散日拾遺

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学びの杜/「ドイツ」と個人的体験

2014-07-18 07:19:35 | 日記
2014年7月18日(金)
 昨日は午後から文京SCで「学びの杜セミナー」に出講。
 毎月二回、放送大学の講師陣が交代で担当する一回完結オムニバスで、大学の広報宣伝を兼ねている。受講申し込みが100名に達したそうで、当日欠席も少なく講義室が一杯になった。もちろん講師の個人的な人気ではなく、『メンタルヘルスと死生観』というタイトルがツボに嵌ったのである。
 この流れで何度か話したので、そろそろ書いておかないといけないんだろう。中で高度成長期の日本人のありようが、先立つ時代の巨大な喪失体験に対する否認と躁的防衛だったという解釈は、聞き手の賛同を繰り返し得ている。アイデアはオリジナルなもので他にこういう言葉で表現されたものも見ないから、書き留めておく意味はあるだろうと思う。しかしきちんと論じようとするとそれなりの準備が要ることで、それが億劫になるという最近の怠け根性が問題である。あとは時間だ。

 地元のO先生が聞きに来てくださり、帰りに茗荷谷の駅前で一杯。
 『はみだしっ子』(漫画)や『善き人のためのソナタ』(映画)について教えていただいた。後者とW杯の戦いぶりから、連想が「ドイツ」に転じる。個の能力の高い集団が、きわだって組織的に物事を進める点に「ドイツ」を見るのだが、これについて僕はあまり肯定的になれない。ある不愉快な個人的体験が背景にあり、要はそうした優秀さがドイツ人集団の排他的な利益のために使われるかどうかにかかっている。
 「戦ったら強いだろうな、と」
 「強いでしょうね、実際」
 嫌なことだ。
 だから、作家 Ruck=Pauquet が Fremd-Seins を受け容れることを自身の文学の目的としたことなどは、彼らにとっても我々にとっても重要なポイントなのだ。ちょうど7月17日(木)の朝日オピニオン欄で、元ドイツ連邦議会議長のリタ・ジュスムート女史がドイツの移民政策についてインタビューに答え、「彼ら」を「われわれ」とすることは、理想主義ではなくリアリズムに基づく選択だったと語っている。かっちりした明晰さだ。
 僕らは遥かに遅れているだろう。

 音楽は無論のこと、文学に関しては大いにドイツびいきである。
 トーマス・マンとエーリヒ・ケストナー、この二人だけで十二分なほどだ。ケストナーの出生にまつわるゴシップなど、かえって讃仰を強める意味がある。まったく、素晴らしい存在だ。
 帰宅したら『影をなくした男』が届いていた。フランス人の書いたドイツ語文学である。
 『煙突掃除屋さん』でドイツ語の錆落としすることにした。

 『善き人のためのソナタ』は冷戦時代の東ドイツが舞台であるらしい。どう描かれているか分からないが、1980年代の春の一日を過ごした東ベルリンは、これまで出会った街や人々の中で最高の印象を残してくれている。これもまた個人的体験である。 

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