2024年5月7日(火)
> 1824年5月7日、ウィーンで、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは第九交響曲を初演した。指揮者として舞台に上がったベートーヴェンだったが、既に耳が悪くなっていたため、演奏後の観客の熱狂的な拍手に全く気づかなかった。見かねたアルトの歌い手が彼を観客のほうに振り向かせて、やっとこの作品に対する聴衆の感動を知ったという。
彼の耳が聞こえなくなり始めたのは、27歳頃だと言われている。第九の初演は53歳の時で、その頃には会話も筆談で行っていた。その3年後の1827年にベートーヴェンは亡くなった。その死因について、従来は梅毒による肝機能不全だと言われていたが、新たな研究結果が2000年に発表された。
遺体の毛髪を米国サンホセ州立大学のベートーヴェン・センターで分析したところ、通常の百倍の鉛が検出されたというのだ。ベートーヴェンは梅毒、難聴以外にもたくさんの病気を持っていたというが、すべてはこの高濃度の鉛中毒が原因かもしれない。鉛の出所は、おそらくドナウ川上流の工場地帯である。彼はことのか川魚が好きだったというから、この説には信憑性があるかもしれない。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.133
Ludwig van Beethoven
1770年12月16日頃 - 1827年3月26日
ヨーゼフ・カール・シュティーラーによる肖像画(1820年)
ちょうど二百年前ということか。
意外にも女性関係は多彩だったというし不自然でもないのだろうが、死因が「梅毒」というのがどうも納得できずにいた。確たる理由がある訳ではなく、ただどうもしっくり来ないのである。鉛中毒説について知り、この方がずっと腑に落ちる感じがした。
いずれにせよ、愛される変人であったことは間違いない。
> 作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという。
そして下記の逸話。これは変人という以上の何かを伝えるものとして、子ども向けの伝記を読んだときからずっと記憶に残っている。
> テプリツェでゲーテとともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した。ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。のちにゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
「不羈奔放」は「世間知らずで尊大」の婉曲表現であろう。これほどの偉人達を類型で論じる失礼を許してもらえるなら、この逸話は、この世の秩序との調和を愛する循環気質のゲーテと、秩序を強迫的に支持するか無視・反発するかの二者択一しかないてんかん気質のベートーヴェンの、鮮やかな対照を表すように思われる。
ベートーヴェンは初めナポレオンの讃仰者だったが、皇帝として戴冠するや一転して徹底的なナポレオン嫌いとなり、その葬送まで作品に織り込んだ。中間がないのである。
そして交響曲第5番『運命』の第3楽章から第4楽章への変わり目、高らかなファンファーレが奔馬のように駆け出す寸前に、実際には存在しない一瞬の音の空白、真空の瞬間が僕にはいつも聞こえてしまう。ドストエフスキーがキリーロフに語らせる次の言葉にそれが重なる。
「ある数秒間がある。それは一度に五秒か六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全無欠な永遠調和の存在を直感するのだ。これはもはや地上のものではない。(中略)もし十秒以上続いたら、魂はもちこたえられずに消滅してしまうだろう。僕はこの五秒間に一つの生を生きるのだ。そのために一生を投げ出しても惜しいとは思わない…」
ドストエフスキー/米川正夫(訳)『悪霊』
大発作が起きる直前の恍惚!ただしそれは記憶に残り得ず、作家の想像力以外に根拠はない。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン
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