2015年9月2日(水)
名古屋の地下鉄は駆け込み乗車がない。
人の少ない日中のことではあるが、東京・山手線ならエスカレーターや階段から何人かは駆けてくるに違いないタイミングで、皆おっとりと閉まるドアを見送っている。これだけでも住んでみたい気になる。ただ、住むならもっとゆっくり歩かないと。四半世紀前、友人の結婚式に東京から出席した帰り道、たまたま行き会ってしばらく肩を並べた人に、「東京の人は歩くのが速いでねぇ」とやんわり咎められた。(むろん名古屋弁である。)北海道出身のT君も、東京から帰省してそのまま歩けるのは札幌までで、函館では歩けない、ぶつかるか転ぶかどっちかだと言ってたっけ。
卒研生は今日も元気に愛知・長野・大阪から集ってくる。大阪の学生が徹夜で準備した草稿を音読する。聞いていて、彼女の書く言葉が話す言葉と滑らかに一致しているのに感心した。書き言葉と話し言葉は乖離をきたすことが多く、なかなかこうはいかないように思う。そして読点の打ち方。彼女の場合、読んでいて息継ぎをするところに読点を打てば自然であり、そう考えると読点の必然性がすっきりと腑に落ちる。あれは息継ぎ点なのだ。読むにあたっての単語の弁別とか、修飾・被修飾の関係を明示するためとか、そんなことばっかり気にして「息継ぎ」との関係なんて考えたこともなかった。本当に、学生から教わることは多い。
新幹線の行き帰りで、『精神障害と教会』(向谷地生良、いのちのことば社)をちょうど読み通した。実はこれ、書評を依頼されているのである。引き受けてトクした、ただで本をもらい、しかも良い本である。筋金入りの信徒である向谷地さんの本領が遺憾なく発揮されている。
具体的にどう「良い」かは書評に書くんだから内緒。ただ、そこに書かない ~ 書ききれないことが、山ほどあるのはいうまでもない。
70頁に神谷美枝子の詩『ライ者に』が引用されている。
「なぜ私たちでなくあなたが?
あなたは代わって下さったのだ。
代わって人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩み抜いて下さったのだ。」
神谷氏にこういう詩のあることはいかにも自然であるけれど、僕はこの詩を知らなかった。ただ、ここにうたわれたとほとんど違わぬ思いを、他者の苦難に接していつも抱いてきた。もっと早く知りたかった、知るべきだった。
下記に全文を転記する。「癩」の語が使われているが、例によって書かれた当時の基準に鑑み、原文を尊重する趣旨で敢えて変更せずにおく。
「癩者に」
光りうしないたる眼うつろに
肢うしないたる体担われて
診察台にどさりと載せられたる癩者よ、
私はあなたの前に首を垂れる。
あなたは黙っている。
かすかに微笑んでさえいる。
ああしかし、その沈黙は、微笑みは
長い戦いの後にかち得られたるものだ。
運命とすれすれに生きているあなたよ、
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて、
十年、二十年と生きて来たあなたよ。
何故私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ、
代って人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。
許して下さい、癩者よ。
浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、
そこはかとなく神だの霊魂だのと
きこえよき言葉あやつる私たちを。
かく心に叫びて首たるれば、
あなたはただ黙っている。
そして傷ましくも歪められたる顔に、
かすかなる微笑みさえ浮かべている。
神谷美恵子「うつわの歌」(みすず書房)より