2016年9月9日(金)
「要するに王朝物語の雅を俳諧の俗に移植したのである。いわば、俗よく雅を制するの図だ。」
芭蕉が等栽を訪ねる場面についての、角川ソフィア版得意の決め言葉である。「俗よく雅を制す」は面白いのだけれど、今やスマホに代表される俗なるものこそ圧倒的に優勢な時代とみれば、むしろ雅よく俗を制するさわやかな場面を見たい感じがする。小説にしても、今はたぶんそういうものが読みたいのだ。新しく始まった新聞小説は残念ながら期待薄かな。浮気癖の直らないBFを路上でめった打ちにして警察が飛んでくる話とか、さっきまで見ていた夢の後味悪さが倍加するようで、とりわけ起き抜けにはパスしたいものである。
・・・「俗」と「雅」の意味合いがまるっきりズレたね、ごめんなさい。等栽の「俗」こそ大歓迎なのだが、これ実は「俗」ではなく「超俗」・・・あれ、角川ソフィアさんの「俗」と「雅」もちょっとヘンだよ。等栽が「超俗」なら、それを描く芭蕉の筆も「超俗」のはずで、すると夕顔は・・・何が何だか分からなくなってきた。
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yoko さま、コメントありがとうございました。
「死生というようなことは大人の考えることで、子どもはそんなことを気にしない」というのは大きな勘違いで、多くの子どもは yoko さん同様に「死」について恐れもし、考えもするのだと思います。あなたの場合は何歳ぐらいの、どんなできごとがきっかけだったのでしょう?
私の場合は、6歳の時の父方の祖父の他界がきっかけでした。何か大きな暗いものに呑み込まれるような不安に、繰り返し襲われたことを今でも覚えています。私が敏感な子どもだったということではなく、発達段階でそういう時期を必ず通過するのでしょう。その時期の子どもの不安を受けとめて成長につなげていく構えが、家庭や学校の側に必要なのだと思いますが、残念ながらこれまでの日本の社会 ~ とりわけ戦後の日本社会にはそうした視点が欠けていて、そのような作業は「居合わせた大人」たちに託されている状態でした。
そうした問題意識から放送大学に「死生学」の科目を作ることを提案した次第でしたから、こんなふうに受けとめていただければ作った甲斐があったというものです。「自殺予防」はそれ自体たいせつな仕事ですし、「予防」という作業を広く見ていけば、初等教育の中で子どもたちに「いのち」について伝え共に考える作業にまで、自ずとたどりつくでしょう。さらなる御健闘を期待します。
ところで私は、このところまた多くの身近な人々の死に直面しています。そういう年回りなのですね。昨夜も家内が、かつてのママ友の早すぎるお葬式に出かけました。「みんな死んじゃうんだね」と呟きながら出かけていきました。そんなこともあってか自分自身の中に死に対する恐れが、これまでになく具体的なものとして浮上してくるのを見つめています。
父方の祖父母は若くして亡くなり、幼年期の私に死というものがあることを教えてくれました。母方の祖父母は長命し、既に物心ついていた私に死について考えることを促してくれました。超高齢の日々を淡々と歩み進めていく4人の父母義父母は、生と老いについての日々の手本です。
yoko さんのおっしゃるとおり、先立つ人々の背中と足跡を見つめながら、今日も元気で過ごしましょう。
Ω
【いただいたコメント】
石丸先生はじめまして。放送大学学生のyokoと申します。
以前「死生学入門」を受講しました。とても面白く興味があった科目でしたので、こうやって先生のブログでご挨拶できて嬉しいです。
私の子供の頃の話ですが、ある出来事をきっかけに、人は例外なく死に、いま現在を生きている自分も、死生の繰り返しのたった一部なのだなと感じました。
ですが、それは子供にとってはとても恐い現実で受け入れがたい事でした。自分の周りの大人達や、いずれ自分もその定めに従う日がくるのだろうなと、とても悲しく辛くなった思い出です。
今大人になり、様々な人の人生の最期に触れ見送る事がありましたが、死生学を学び、死に対する得体の知れない恐怖や偏見が軽減し、俯瞰している様な気が致します。
その時に、知識を得た事により自分が困難を乗り越える術を稚拙ながら得ていたのだと感じたのです。
その時に学ぶ事のありがたさを感じました。
自分は将来自殺予防に力を入れ取り組みたいと思っています。
死生学で学んだ事や、自分の先を旅立って行った人々から得た経験を糧にし、今後社会に貢献していけたらと思っております。
先生の益々のご活躍を祈っております。
ありがとうございました^^。
先生の幼少期のお話も聞かせて頂いてありがとうございます。
先生が仰るように、個人差はあるのかもしれませんが、まだ未熟な子供に死生は理解できないという訳ではなく、先生の様にまだ6歳でありながら(まだ子供だからと思うのは大人や周囲から見てですが)黒い不安の渦に何度も襲われるという、とてもかわいそうな思いにさせてしまいますね。
幼い心がどれほどのものを抱えるのか・・心が痛みます。
戦後の日本にはその様な視点が欠如していたとの事ですが、今後特に必要な専門ケアと、教育だと思います。
自分が将来心理士として従事した時には、死生学を取り入れて、自死予防やグリーフケア、幅広い年代に対しての「いのち」に対する取り組みもしたいと思っています。
私が、子供の頃に初めて「死生」を意識したのは、偶然にも先生と同じ6歳で、小学校に上がる前でした。
その時は、上野の博物館で恐竜の化石展に連れて行ってもらった時でした。
暗幕の暗闇の中に浮かぶ、骨だけで姿を保っている恐竜。
その眩暈がするような壮大な時間の渦に呑み込まれてしまったんです。
今を生きている人間も生物も、死生の繰り返しの一部で、誰もそれに逆らえないのだなと感じ、何とも言えぬ気持ちになりました・・・。それこそ何度も悪夢を見たり;。
そのわずかな時間を生き、自分や周囲の人生にどう向き合うかが課題なのですが、
先生の仰るように、周囲の「生と死、老い」は人生の身近なお手本であり避けられない影響なのですね。
私も、最近父との別れがあったばかりなので、余計に死生観や、折り合いの付け方を考える様になりました。
先に旅立った人から感じた、感謝だったり、優しさだったり、また、悪い事ですらも、周囲の人や次の世代に良い形として伝える事が出来るのも人間ならでは、なのではないだろうかと感じます。
大学で死生学を学べた事はとてもありがたいと感じております。
はい、先立つ人々の背中と足跡を見つめながら、これからも元気で過ごして行きたいと思います。
残暑まだ厳しいですが先生もご自愛ください。
ありがとうございました^^。