散日拾遺

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原義 ~ 讃美歌の、学術書の

2019-10-06 21:02:55 | 日記
2019年10月6日(日)
   3週間前に奉献されたばかりのパイプオルガンに、小柄なSさんが全身で挑んでいる。
 説教前の讃美歌は以前よく歌われたものだが、久しぶりの感じがする。参道を晴れ晴れと歩んでいく足どりのような、浮き上がりつつ飛び跳ねないメロディーが詞とよく呼応する。
   以前の歌詞は唇に乗りやすく、半ば諳んじていた。

 「わが主の御業は、ことごと正し/妙なるみむねに、すべてを任せん
 主はわが神なり、ともしき時の/わがたすけなり」 (54年版 80番)

 今はこう。

 「み神のみわざは、すべて正しい/み心のままに、従いゆこう
 主こそはわが神、悩みのときの私の助け」 (讃美歌21 527曲)

 いつもながら肚に力がこもらず、歌うそばから腰が抜けて座り込みそうになる。「わが神」と「私の助け」、新旧の無節操な混合も改訂者は意に介さなかったのか。
 そういえば、原曲はどうなっているんだろうと虫が動き出して。
 詞: Samuel Rodigast(1649-1708)、曲: Severus Gastorius(1646-1682)、三十年戦争の惨禍の中、デカルトが『方法序説』を構想していた時期のドイツで生まれた曲らしい。
 出だしの歌詞は、後にバッハがカンタータに仕上げた時のタイトルにもなっている。(BWV 99, 1724初演)

 "Was Gott tut, das ist wohlgetan."

 !  「正しい」と訳されているのは recht でもなければ richtig でもない、wohl getan である。英語に平行移動するなら right でも righteous でもなく well-done なのだ。ステーキの焼き具合でおなじみのウェルダン、僕は断然ミディアムレアが好みだが、ドイツ語で同様の用法があるかどうかは知らない。
 辞書はただ「wohlgetan = 上出来の」と示し、「比較形は用いられない」と注記する。「より上出来」「最も上出来」とは言わない、「上出来と言ったら上出来」というわけだ。それ自体が比較を許さぬ最上級と考えてもよいだろう。
 これがいったい、「正しい」という言葉とどれほどどんな接点を持ちうるか?

 もう一つ注目したいのは文全体の構造で、"Was Gott tut" の tut(< tun)は英語のdoes(<do)、"das ist wohlgetan" の getan は英語の done、つまり同じ動詞の能動形と受動形を呼応させており、「神の為さることは、このうえなくよく為されている」といった原始的な形。ドイツ語でこうしたレトリックが常用されるのかどうか知らないが、むしろレトリックの作為を削ぎ落した、子どもらしいほど素直な反復と素人目には見える。
 「あなたのすることは、もう文句なしによくできている」というほどのこと。
 かてて加えて、ドイツ語で神に対する二人称は聖なる親称の Du 、家族・恋人・伴侶動物などと同じく「あなた」ではない「おまえ」であることをあわせ思う。

 これらを踏まえてこの曲を歌えば、そこに醸されるのはただもうひたすらに神の計らいに惚れ込み身を任せる絶対的な信頼であって、「正しい」などという評価的・規範的・遠望的な言明ではない。正しいかどうか、そんなことはさておき、ともかく申し分なく上出来だという。恋人のアバタエクボか、親バカの子褒めか、比べるとしたらそんなところか。
 翻訳が難しいのはわかっているが、日本語に相当するものがないかといえば、そんなことはない。たとえば啄木が「ふるさとの山に向かひて言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」と詠う時、そこに歌われているのはよく似た心情、揺るぎのない完全な信頼・感謝といったものである。ふるさとの海山を神とする詩人の「讃美歌」であろう。
 だから wohlgetan とは「言ふことなし」の謂である。あるいは "Was Gott tut, das lst wohlgetan." の全体を「言ふことなし」と言い換えてみたい。

***
 言葉に対するこういうこだわりは偏屈な個癖であって、なかなか同類はいないものと思っていたら、驚いたことにゼミ生の中に当方顔負けのこだわりさんが現れた。
 この学生はグリーフワークに関する文献を渉猟する中で、ドイツの教育哲学者ボルノウ(Otto Friedrich Bollnow: 1903-91)の翻訳本に出会ったのである。

 「その限りで、身近な人間の死はすでにいつも一部の自己の死である。『彼ではなく、私が死んだのだ』(と、身近な人間の死に際してこの苦痛の経験を適切に表現されたのを私はかつて見たことがある。)遺された者が見いだす状態は実際、一つの自己の死の状態である。」
(ボルノー『危機と新しい始まり:教育学的人間学論集』西村・鈴木訳、理想社、1968)

 8月のゼミで彼女が上記を引用紹介した時、ふと気になるところ ~ 虫の知らせ(?)があって、「『一部の自己の死』という部分は、『自己の一部の死』と言い換えが可能ですか?」と訊ねてみた。彼女は即答せず、その後原文をとりよせ、これまで学んだことのなかったドイツ語の辞書や参考書を頼りに、まる一か月かけてコツコツと解読に励んだ。
 原文は下記である。

 Und insofern ist das Sterben des nahen Menschen immer schon ein gutes Stück eigenes Sterbens.
 " Nicht er war tot, sondern ich",
[so fand ich einmal treffend die Erfahrung dieses Schmerzes beim Tode eines nahen Menschen ausgedrückt.]
 Der Zustand, in dem sich der Hinter-bliebene vorfindet, ist in der Tat ein eignes Tot-sein.

 9月のゼミで彼女が示した解説は見事なもので、ただ「一流の学者のちゃんとした翻訳にそうそう誤訳があるはずがない(=誤訳と思われる部分は、自分の解釈が違っているのであろう)」という謙遜な思い込みが、彼女の結論を曇らせていた。
 誤訳である。
  •  "ein gutes Stück" は「一部」ではなく「かなりの部分」でなければならない。
  •  「自己の」に相当する語は原文になく、それをことさら挿入せねばならない理由はみあたらない。
  • 第一文における Sterben(動詞の不定形に由来し、「死ぬこと」というプロセスを含意する)と、第三文における Tot-sein(「死の状態(=死んでしまった状態)」の使い分けを、翻訳にも反映させねばならない。
 学生は、たどたどしいながらもこれらすべてを反映した訳文案を提示し、どこが間違っているか教示を請うた。どこも間違ってはいない。彼女が正しいのである。
 頭はこのように使うものだ。入学試験のない放送大学に勉強したくて入学してきた学生が、自分の知りたいことを一心に追い求めた結果として到達した、小さな金字塔である。

***

 わずか8日前なのに一ヶ月も経ったかのようなその日の昂揚を思い出し、その翌日、つまりちょうど一週間前の母の記念会の余韻を聞きながら午前を過ごした。礼拝前にHさんから渡された薄い包みを帰宅して開いたら、予想通りのものが予想をはるかに超える慕わしさとともに姿を現した。
 年来の課題、生涯の宿題がそこに示されている。


Ω