散日拾遺

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さようなら

2019-03-24 05:34:28 | 日記

2019年3月11日(月)

 チコちゃんが急速に劣化してると感じるのは僻目かしらん、初めは痛快だった言葉の荒さが次第に耳に障り、いささか残念な今日この頃。

 先日は「さようなら」とはそもそも何がどう「さようなら」なのかという、さほど新しくもないテーマが取り上げられた。見ていて逆に新しく感じたのは、このテーマなら絶対出るぞと予測され、事実ある時期までは決してはずされなかっただろう逸話に、一言の言及もなかったことである。

 そうなると、書きとめておきたくなるもので。

 アン・リンドバーグ(Anne morrow Lindberg, 1906-2001)、大西洋無着陸飛行で有名なチャールズ・リンドバーグ(1902-74)の妻で自身も飛行家だが、むしろ『Gift from the Sea 海からの贈り物』に代表される文筆家として知られる。1931年には夫婦揃って日本に飛来し、国後島・根室・霞ヶ浦・大阪・福岡などを訪れている。後日その手記が『North to the Orient 翼よ、北に』と題して刊行された。

 その中に「さようなら」に関する有名な記述がある。以下、論評抜きに転載しておく。著者の語源理解が誤っているとの指摘もあり、チコちゃんのスタッフもそれで採用しなかったのかもしれないが、仮にそうだとしてもなお興味深い。日本人として、知っておいて損のないことでもある。

 日本語訳については、ネット上に出ているものの中に明らかな誤りが散見されるため、拙速ながら私訳を付けてみた。このままでは恥ずかしいので、追々修正していく・・・かもしれない。

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 “For Sayonara, literally translated, ‘Since it must be so,’ of all the good-bys I have heard is the most beautiful. Unlike the Auf Wiedershens and Au revoirs, it does not try to cheat itself by any bravado ‘Till we meet again,’ any sedative to postpone the pain of separation. It does not evade the issue like the sturdy blinking Farewell.
 Farewell is a father’s good-by. It is – ‘Go out in the world and do well, my son.’ It is encouragement and admonition. It is hope and faith. But it passes over the significance of the moment; of parting it says nothing. It hides its emotion. It says too little.
 While Good-by (‘God be with you’) and Adios say too much. They try to bridge the distance, almost to deny it. Good-by is a prayer, a ringing cry. ‘You must not go – I cannot bear to have you go! But you shall not go alone, unwatched. God will be with you. God’s hand will over you’ and even – underneath, hidden, but it is there, incorrigible – ‘I will be with you; I will watch you – always.’ It is a mother’s good-by.
 But Sayonara says neither too much nor too little. It is a simple acceptance of fact. All understanding of life lies in its limits. All emotion, smoldering, is banked up behind it. But it says nothing. It is really the unspoken good-by, the pressure of a hand, ‘Sayonara.”
 Source: Anne Morrow Lindbergh, "North to the Orient"

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 日本語の『さようなら』は、文字通り訳せば「それがそのようにあらねばならないなら」という意味である。これまで聞いた別れの言葉の中で、これほど美しいものはほかにない。ドイツ語のアウフ・ヴィーダーゼーエン(また会いましょうが原意)やフランス語のオルヴワール(同上)とは異なり、『さようなら』は「またお会いしましょう」という甘やかさで別れの痛みを先送りしはしないし、勇ましい壮行で痛みをごまかすこともしない。

 英語の「フェアウェル」は父親の別れである。「息子よ、外の世界に踏み出して立派にやれ」と告げるものだ。激励と忠告、希望と信念、しかし、その瞬間のかけがえのなさは見逃され、別れについては何も語られない。情感は隠され、想いはほとんど伝わらない。

 グッドバイ(神が汝とともにあらんことを)やアディオスは、逆に伝えすぎる。別れの狭間に橋をかけ、別離が存在しないふりをする。グッドバイは祈りであり、声高な嘆きだ。「行ってはだめ ー あなたを行かせるなんて耐えられない!たとえ行くとしてもあなたは一人ではないし、見捨てられてもいない。神があなたと共に、神の御手があなたの上にあるのだから。」言葉の内側に透けて見えるのは、「私はあなたと共にいる、あなたを見守っている ー いつも」という叫び、グッドバイは母親の別れの言葉なのだ。

 『さようなら』は、語り過ぎることもなければ、不足することもない。ただ事実をあるがままに受容する。そこには人生についての真の理解がある。すべての感情が静かに燃えて満ちあふれ、しかし言葉を結ぶことはない。語られざるグッドバイ、握る手の力、それこそが『さようなら』なのだ。

Ω