散日拾遺

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人格とペルソナ、ついでに位格

2019-02-18 15:03:26 | 日記

2019年2月18日(月)

 そういえば・・・

 「ペルソナ persona」という言葉、というかモノがある。古代ギリシアの演劇で役柄を表すため役者が被ったお面、これを persona と呼んだのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/古代ギリシアの演劇

 「ちょうど能の能面にあたる」と書きかけたが、この画像を見ると躊躇われる。機能的には確かに相同なのだけれど、同じものとは言えそうにない。そういえば、「ペルソナ 画像」でネット検索をかけるとギリシア演劇のギの字も出ない代わりに、大量のアニメ画像が奔出する。これが現代の「ペルソナ」ということか。

 ともかく、ギリシア演劇のペルソナは劇中人物の人格的特性を分かりやすく示したもので、これが personality の語源になった。「人格的特性」とはいうものの、日本語の「人格」は尊厳とか交換不能性とかに連なる不可侵の本質、対する personality はもっと表層の可変の属性を表すものだから、微妙に/大きくズレている。「人格障害」が「パーソナリティ障害」に名称変更されたのは、それが最善かどうかは別として確かに必要なことだった。

 この persona を羅和辞典(研究社、田中秀央編)で引いてみる。(ギリシア語からラテン語に継受された、らしい。)

 1(ギリシア俳優の)仮面
 2(芝居の)役、登場人物
 3 役割、資格、役目;境遇、品位、体面

 4 位格(神の存在様式)、ペルソナ
 5 人格[個性];法人(格)
 6(文法用語の)人称

 4番目の語義がここで紹介したいもので、「三位一体」の「三位」は三つの「位格」を意味する。父・子・聖霊という、例の三位格である。

 何が言いたいのだったっけ?ああそうか、「神の人格的成長」などと言えば涜神の疑いをかけられかねないが、神は確かに位格 persona を備えた存在、しからばその persona-lity のダイナミックな展開を喜び楽しむことが、さほどフマジメとも言えなかろうと、こういう注記なのだった。

 ちなみに東方教会では「位格」について、初めは προσωπον(顔、表情)、後に υποστασις(実在、実体/確信)の語をあてた、らしい。前者は「面」だが、後者は逐語変換すれば substance で、異なる「三位」よりも同質の「一体」に近そうな言葉だったりする。このネジレ関係は相当厄介と思われる。

 Yahoo 知恵袋にもこれをめぐるやりとりがあり、関心のある人はいるものだ。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10117590205

***

 ℕ.S.先生が、教誨師としての経験を通して、三位一体の教理の実体的な力を力説なさったことがある。1月27日にお姿を見かけたが、つかまえ損なった。三月に入ったら、ぜひ教えを請いにいこうと思っている。

Ω


「神の成長」の種明かし

2019-02-18 14:55:55 | 日記

2019年1月30日(水)

>「フマジメな聖書読者の幻 ~ 神御自身の『成長』ということ」とはどういう内容だったのかが、個人的には気になっております。

 Yさん、コメントをありがとうございます。先日の「塾」の勉強会、「老年期」に関する配布資料末尾ですね。お恥ずかしいような話なのですが、せっかくお訊ねくださいましたので。

 これは文字通りのことで、旧約全巻を通じて神御自身が大きく人格的成長を遂げていっているように私には思えるのです。あるいは、旧約は一つの人格の成長をテーマにした Bildungsroman ではないかと思えるぐらいで ~ Bildungsroman は「教養小説」と訳す約束ですが、これは非常にマズい訳ですね、それこそ教養主義の俗臭フンプンです。Bildung は教養と訳せなくもないが、ヘルマン・ヘッセなんぞを念頭に置くなら、やはり「成長」とか「人格形成」の意味なんでしょう。

 訳はさておき、人格的成長なんて言った途端に「人格じゃなくて神格でしょ、マジメにやりなさい」とお叱りが飛んできそうです。ここはしばし御勘弁いただくとして。

***

 御存じの、人の創造の場面を思い出してください。「主なる神は、土の塵で人を形づくり」と創世記2:7にある、あのへんです。「塵」というのでパサパサ乾いた感じがしてしまいますが、直前の同書2:6には「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」とあります。してみると「土の塵」は実際には泥であると考えるべきで、神さまは泥をこねて人形(ひとがた)をつくったのですよね。

 子育て真っ最中のYさんは、このあたりでもう笑い出していらっしゃるのではないでしょうか。子どもは例外なく、泥遊びが大好きです。泥まみれになることなどお構いなく、男児も女児もこぞって園庭で泥をこね、できあがった泥団子を得意気にもってきて「見て見て、お団子できた、おいしいのできた!」「食べて~」などと。(・・・『火垂るの墓』の悲しい場面を思い出してしまいました。)

 そのように神が無心に泥遊びに興じ、創造の成果を点検します。「見よ、それは極めて良かった」と新共同訳が訳すところ、「神さまは見わたして『よし!』とおっしゃった」という可愛らしい名訳を見たことがありました。これが豚児(のひとり)の命名の由来でもあるのですが、何しろ出来上がった宇宙を掌にのせて左見右見(とみこうみ)、人形の泥団子をしげしげ眺めて「よし!」と御満悦、幼子そのもの泥だらけの無邪気な創造神の姿が聖書紙面から立ち上ります。

 神聖な泥遊び、ホモ・ルーデンスにどう書いてあったか覚えませんが、遊びは本来神聖なものであり、最も神聖なものは最も児戯的なのですよね。これが神の幼年期。

 次に現れるのは、理想に燃え、短気で激情的な若き神の姿です。口ずから息を吹き込んで命を与え、精魂こめて育んだ泥人形どもが、何と恩知らずで愚劣で傲慢なことか。若いというのは、こらえ性がないということ、「ダメ、全然ダメ、端からやり直し」とばかり、ブチ切れてすべて洗い流そうとしたノアの洪水を初めとして、被造物のあまりのできの悪さに卓袱台(ちゃぶだい)を返しては思い直す、若々しい愚かしさが創世記に満ち満ちています。

 その若い魂の中に、いつの頃からか忍耐と深い思慮が萌すようになります。そうですね、大江健三郎氏が鬼の首をとったように難じるイサク捧げの物語、あれは私には、ほかならぬ神自身のありかたが大きく変わっていく転換点のように思われます。

 「その子に手を下すな。何もしてはならない」(創世記 22:12)。続く句は「あなたが神を畏れるものであることが、今、分かったからだ」ですが、創造主ともあろうものが自分の作り出したものの性根を「今、分かった」でもなさそうなもので、これは神御自身が、手の施しようのないダメ作品に逆転の価値を与える、ある霊感(インスピレーション)を得たことを言ってるのではないか。「わかった、ひらめいた」と。

 つまり、イサクに独り子をささげさせるのではなく、自分自身がそれをする、神でなくてはなし得ぬとほうもない自己犠牲の構想がこの時に胚胎したのでしょう。そして「わかった」時に神は「かわった」、このあたりから次第に忍耐強く思慮深く、寡黙で黙示を好む、別人(神)の姿が現れてきます。熟した大人の、考え抜かれた信念とでもいうのでしょうか、「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」(ローマ 5:3-4)とは、この間の神御自身の姿であるような。

***

 ということで、こんな読み方もあるか(ありません!と言われるでしょうね、そのスジからは)というぐらいのことですが、私は気に入っているのです。そして、壮年において一大事業を成し遂げられた神が、その老いとともにどんな霊的成長を遂げ、この世界に対してどのように振る舞うおつもりか、それを楽しもうなら「老い」もまた悪くなかろうと、そんな話なのでした。

 9月30日、母の他界の月末に岳父100日のミサから戻ったその足で、教会に立ち寄って「老い」についての話をしました。それを先日報告した次第です。全体としては好評でしたが、この部分については誰も何にも言いませんでしたよ。当然かな。

 長々とごめんなさい。寝言はこれぐらいにして、修士論文をしっかり進めていきましょう。難しいけれども、間違いなく価値あるテーマですので。

Ω