散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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余得 ~ しまなみ海道一望

2017-06-21 16:42:52 | 日記

2017年5月23日(火)

 帰途の眺めに余得あり。北九州空港を飛び立った飛行機が瀬戸内海の南寄りを東行してくれたおかげで、しまなみ海道を見下ろすことができた。松山からの便はもう少し南を通るうえ、出発直後の上昇中/到着直前の下降中で、いつもよく見えないのである。

   

 座席は翼のほぼ真横、橋は細い糸のようで見えづらいが、海域全体がほとんど島でふさがっている芸予諸島の奇観は隠れもない。

 A: 伯方・大島大橋、B: 大三島橋、C: 多々羅大橋  ( ↓ 左から順)

   
 (http://www.jb-honshi.co.jp/shimanami/)

Ω

 


小倉有情

2017-06-21 12:14:57 | 日記

2017年5月23日(火)

 ようやくここにたどり着いた。これはどうしても書いておきたかったので。

 倉成さんたちと懇親の翌日、午後の便を待つ半日を使って小倉を訪ねてみた。両親は約60年の昔、博多に3年間住み、長崎など旅行しているが小倉は行かなかったという。博多と小倉は50kmほどの距離で知人もおらず、赤ん坊を連れてわざわざ出かけるには微妙な遠さだったかもしれない。今は近くなった。「新幹線で20分です」と被爆二世さんがおっしゃるとおり、わずか17分で小倉駅に降り立つ。遠賀川を越え、従姉弟らの住む直方(のおがた)のすぐ脇を通ったが、感慨にふけるゆとりのないのは便利の代償。

 小倉は本来、第二の被爆地になるはずだった。1945年8月9日朝、小倉の空が曇りであったために米軍が予定を変更し、長崎に向かったのである。落とす側にとってはどこでもよく、落とされる側では運命が分かれた。

 20日の晩に歓待してくれたO君が、北九州出身の長崎在住であることを書いた。彼のお祖母さまは小倉の人だったから、曇天のおかげで命拾いした。いっぽうO君の奥さんは長崎の人、そのお祖母さまは戦時中、勤労動員に出ていたが、たまたま体調を崩し友人に勤務を代わってもらった。友人は造船所で爆死した。

 運命のアヤで被爆を免れた者の孫同士が家族を営み子を生す、与えられる命をあだやおろそかに扱うまいと、先にO君が書き送ってくれた。若い人たちからこういう言葉を聞くのが嬉しくありがたい。そんなこともあり、広々して広すぎない小倉の穏やかな町並みが、幻の被爆地とばかり感じられて仕方ないのである。

***

 駅から小倉城は2km足らず。時間はあるのでもちろん歩く。駅正面から伸びるのは平和通り、ほどなく右へ折れ、紫川の手前で川向こうの小倉城が突然目に入る。一度しか味わえない初見参の楽しみ、大きすぎない城の個性を探して、信号待ちの間に立つ位置を変えてみたりする。

 平和通り      お城出現

 川にかかる太陽の橋、おそらくこのあたりが投下の目印でもあったろうか。広島は二回りほど大きいが、いずれも河口の三角州を利して築かれた城下町で、どこか似通って感じられる。その朝が晴天であったら、紫川は太田川同様に水を求めて亡くなる人々で溢れたことだろう。ウラン型リトルボーイの熱線に対し、プルトニウム型ファットマンはケタ外れの爆風を特徴とした。直近の小倉城天守は耐え得たかどうか。「平和通り」の名までもが、想像上の痛みをかきたてる。小倉に代わって長崎で現実となった痛みである。

   紫川の川面      太陽の橋

  小倉城天守閣、背後の近代的なビルが無粋なことと、観光客の勝手な言い分。

***

 慶長7(1602)年に細川忠興の築いた小倉城は、下って戊辰戦争の舞台のひとつになった。小倉城が長州征伐の拠点だったのは、地の利を考えても頷かれること。実際、小倉藩と熊本藩はここを拠点に奮戦したが他の九州勢は総じて戦意が低く、さらに長州勢が門司を制圧するや、征長総督の老中・小笠原長行があっさり戦線離脱したため、九州諸藩が軒並み撤兵に転じた。孤立した小倉藩は慶応2(1866)年8月に小倉城に火を放って退去のやむなきに至る。総大将の戦線離脱は、来たる鳥羽伏見の戦での将軍・慶喜のそれを予感させる。負けるはずのない戦いをひたすら負けに誘導した幕軍の奇妙な動きについて司馬遼太郎がいろいろと書く中で、特に『花神』は小倉口の戦に触れていたように記憶する。

 小倉城に数々の別名がある中で、鯉ノ城とあるのが目に止まった。広島城の別名もまた鯉城(りじょう)、広島カープの名の由来である。どうもこの度は、この連想が頭を離れない。ちょうど長男は学会かたがた広島を訪れており、次男は生徒を引率する下見のためにまもなく同地を訪れる。息子らが何を見てどう感じるだろうか。見下ろせば堀に鯉、シャチホコの脇に肉眼では鮮やか、写真でもどうにか確認できる。

Ω


噛んで含める母の愛

2017-06-21 10:30:41 | 日記

2017年6月21日(水)

コメント: 口噛み酒 by 被爆二世さん

 映画「君の名は」で知ったのですが、口噛み酒は、日本にも奉納するお酒としてあったようですね。お米を噛んで、それを吐き出して溜めたものを放置して造るお酒で、「美人酒」とも呼ばれるそうです。

  私は、子育て中、3人目ともなると、離乳食を作るのも省いて、自分の口で噛んであげていたのを思い出しました。虫歯菌やヘルペス菌が移るだの、批判されそうですね。でも、市販の離乳食より赤ちゃんは好んで食べてくれた様に感じました。

***

 『君の名は』にそんな場面がありましたか、大したものですね。そうなんです。「口噛み」は酒造の原型だと思いますが、神事の中にそれが残ったようですね。「美人酒」の名から分かるように噛むのは主として若い女性の役割で、年齢的に若いだけでなく純潔が条件とされたこと、御想像の通りです(・・・と聞いています。)

 口噛み離乳食の場合、雑菌やウィルスの感染機会を増やすリスクは否めないと思いますが、だから愚かしいとも思えない ~ マーラーでしたか、発達心理学の伝える例の話を思い出すのです。新生児を感染から守るため、衛生の整った人工的な環境に置いたところ、かえって健康状態が悪化した、少々のリスクには目をつぶって母親の傍らに置いたほうが、発育は良好であったという有名な話です。虫歯菌やヘルペス・ウィルスに関して言えば、どんなに注意してもいずれ感染することは不可避ですしね。

 飼ったことがある人は御存じの通り、ハトの場合は親鳥の食べた餌が素嚢と呼ばれる喉の奥の袋にミルク状態で蓄えられ、雛が親に似ぬ長い嘴を親の口から突っ込んで吸うのです。親は目を白黒させて為すに任せており、可笑しみと涙ぐましさがこもごも、ちょっとした自然の名場面です。親が体内に準備したものを子に与えるという構図は似ているでしょう。

 そうか、「噛んで含める」という表現はここに由来するのですね。

 またひとつ教わりました。次の日曜日の小講演でさっそく使わせていただきます!

Ω