散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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木曜日の補遺

2015-06-03 16:37:22 | 日記

2015年5月28日(木)

 田植えが終わったあとの水田の美しさは、実に彼の言ったとおりだ。あんな風景はほかになく、そしてあの風景をあらゆるイメージの原点として共有するところに、「日本人」のひとつの結節点がある。

 三重の面接授業の帰途、近鉄線で大阪へ抜ける行程で、この風景をたっぷり楽しんだ。

 

 そういえば、セントルイス時代に実験を教わったことのあるユダヤ系の老神経学者は、今思えば本物の日本通だった。写真が趣味で、撮った写真を引き伸ばして壁に掛けてある中に、確かに田植え後の水田を写したものがあり、銀色に輝く獲れたての秋刀魚を写したものがあった。

 地域のタレントショーでは、見事な盆栽をいくつも出していたっけ。

 付け焼刃ではない、彼自身の感受性をもって、日本を感じ取っていたのである。話を聞いておけばよかった。

 

***

 

 それにしても実に実に、

 

 ふるさとの山はよきかな

 

 郷愁 heimatlos などではない、人を活かす力を故郷の山河がもっている。これを取り戻せるかどうかに、僕らの未来の大きな部分がかかっているのではないか。

 

***

 

 自分と会社だけがあって、中間がこれまでなかったと、彼が言った。

 中間と書いて、なかまと読めるのだなと、これは僕の思ったことである。

 人間からして「間」だ。

 キモはいつも「間」に、行間にある。


木曜日 ~ 百姓の息子で良かった

2015-06-03 14:59:32 | 日記

2015年5月28日(木)

 

 ・・・先生からも休んだほうがいいって言われて、ショックだったんですけど、でも休んでよかったです。自分ではわからないものなんですね。

 

 先週は、実家へ帰って百姓仕事をしていました。

 ええ、A県の北の端です。

 まずは田植え、といっても今は機械がやるので、機械の横を歩いてただけですけど。はい、ほんとにそうです。田植えの終わった田の表面は、実に美しいです。他にたとえようがありません。山の景色が鮮やかに反射して、こんな風景はほかにないです。

 あとはトウモロコシの種まきですね。ほかにも、いろいろやってきました。

 

 動物の害?ええ、相変わらずです。イノシシももちろんですけど、うちのあたりはシカやサルも出るようです。クマもときどき出るらしい。

 毎日田畑で過ごしました。都会とまるっきり時間の流れが違うじゃないですか。

 昔の人は、こうやって畑を耕しながら、自分と向き合ってすごしたんだなあって。

 

***

 

 自分、次男ってこともありましたし、百姓を継ぐのがイヤで都会に出た部分もあったんです。でも今になって、百姓の息子で良かった、って思います。本当に、そう思います。

 実家は兄貴が継いでるんですけど、兄貴は別の仕事に通っていて、百姓は継がないっていうんです。それで自分、せめて何か残したいと思って、夜は家系図作りをやってました。嫁さんのほうの家族もあわせて。

 こんな人がいたんだ、あんな人がいたんだって、これまで何だか自分一人で生きてる感じがしてたんですけど、実はこんな大きなつながりの中にいたんだなって。

 

 そしたら、会社についても感じ方が変わったんです。これまでは自分と会社だけがあって、中間がなかったっていうか、組織のためにどれだけ頑張れるか、それを認めてもらえるかって、そういう風にしか考えてなかったんですけど、実は組織に支えられている自分がいたんだなって。

 そういう恩とか借りとかを、どう返していけるかは、まだ見えてないんですけど。

 

 <恩や借りを返したいという気持ちが、とても強い?>

(強く頭を縦に振って)

 強いです、それは。

 

 <前回、話してくれたよね。自分はいつでも、これぞと思う人をモデルにして、そのモデルを模倣することで結果を出してきたって。>

 

 はい、そうです。

 

<今回については、モデルの選択がうまく行かなかったかもしれないね、って私が言ったよね。そのあたりのことは?>

 

 モデルを真似するというやり方自体から、解放されたような気がします。そういうやり方でなくてもいいんだって。これまでモデルばっかり見て、自分を見ていなかった。田舎の百姓仕事のあいだに、たっぷり自分を見ることができたんです。

 

***

 

 青年は他の通院先で休養を指示されたが、休みたくないと職場上司を相手に頑張り、いわゆるセカンド・オピニオンを求めて一か月前に受診したのである。

 一時間近くも話を聴いて、僕が伝えたのは「主治医の助言は間違っていない」ということだった。あわせて、いくつか付け足しを伝えたことに、この敏感な青年は反応して喰らいついてきたのだ。

 

***

 

 先生、あの・・・

 <これでいいですよ、こんなふうに休養を活用してほしいと思った、その通りにあなたはやってます。>

 

 生まれも育ちもはるか遠方の、しかし彼と顔かたちのそっくりな青年を僕は知っている。こんなことがあるだろうかと思うぐらいの空似の他人、それをまた思い出させる、心からの笑顔を目の前の若者が浮かべた。

 

 

 


水曜日 ~ survivor's guilt / 案外な了見

2015-06-03 13:41:11 | 日記

2015年5月27日(水)

 

 在学中に事故で一人。卒業後まもなく一人病没したが、彼は幼児期から心疾患を抱えていた。

 彼らを別とすれば、同期生中、初の物故者である。僕ら他大学卒業組は入学時から少々オジサンであったわけで、Y君は現役合格のいちばん若い組だった。

 

 こういう時、僕はどこかしら「自分の運命であったはずのところを、彼が肩代わりしてくれた」と感じるところがある。必ずしも年齢差の故ではないが、若い相手に対してはなおさらそうである。

 survivor's guilt と分析家なら言うだろうが、そう言ってみたところで何が解決するわけでもない。「survivor's guilt に過ぎないのだから、そんな心理は気にかけなくてよい」というのは、過剰な罪悪感に悩む者を慰めるためならいざ知らず、一般には良心の鈍さに対する言い訳というものである。叡智とは何の関係もない、心理学なり分析なりの誤用・悪用だが、「専門家」にはこの手合いが多いことを繰り返し見てきている。

 いったい何の「専門家」なんでしょうね?

 

***

 

 何しろ、いつになく右往左往している。

 

 タスクはいろいろあるが、何から手をつけたらいいかわからない。タスクが多すぎて収拾がつかないというのではないのである。自分でもうすうす見当はついている。アイデンティティの揺らぎなどというと大げさなようだが、これはべつだん大げさなことでもない。だれでもたえず経験していることで、それを表す言葉がカタカナ言葉で少々けたたましいだけである。

 いつも持つものを持たずに出かけ、急行に乗るところを各駅停車にしてみたりする。案外効かないでもないが、むろん解決にはならない。性根の問題である。

 

 性根というのは、なかなかすごい言葉ではないか。それこそ言葉の性根が座った感じがする。ひっくり返せば根性か。

 「性(しょう/さが)」に次いで、今度は性根。「性」の字のインパクトがいよいよ強い。「性理学」というものが確かあったな。儒教史の世界だ。

 

***

 

 結局、ここに戻ってくるよりない。行き迷ったとき、いつも言葉を頼りにしてきたのである。

 水曜日は一つ会議があり、これに関連して夕方から4人ほどで会合することがあった。その席でのこと。

 

 K先生はその分野では広く知られた人であるが、本当に優秀な人の常として少しも偉ぶるところがない。ただ、議論になると若々しい。いつでもどこでも歯に衣着せず直言するが、私心や嫌味がないから広く慕われている。

 そのK先生が、関西のある有名大学で仕事をした時は大いに苦労したという。大学同士の競り合いに加え、大学内部で学部間のイガミ合いがあり、「ほとほと困った、仕事にならなかった」という。

 この大学はノーベル賞受賞者を何人も出している名門だが(って言ったら一つしかないのか)、以前にも別の人から似たような話を聞いたことがあった。

 それで、

 「A大、案外な了見ですね」

 と合いの手を入れたら、すかさず

 

 「石丸先生は、ほんとに」と横合いからお褒めをいただいた。

 「案外な了見」という言葉が良い、センスが秀逸だというのである。

 

 自慢してら、とバカにしないでほしいですね。

 そのわずか3分後、同じN先生から「石丸先生、今のはアウトです」と、しっかりとっちめられたのでした。

 

***

 

 以下は、今週出会った印象的な言葉たちである。

 

 「道に外れる」

 ・・・この表現自体がどうというのではなく、家人がうっかり「道を外れる」と言ったことが面白かったのだ。助詞一つで意味・含蓄がまるきり変わる。

 まことに、神は細部に宿り給う。

 

 「思うツボ」

 考えもせずに使っているが、この「ツボ」って、どの「ツボ」なのかな?

 経絡のツボかと思ったら、原義は違って「壺」なのである。博打でサイコロを入れて振る例の器を「壺」という、そこから出た言葉だそうな。

 ただし、これをパロって『思うツボ』という経絡の本を書いた人は、あるようだ。

 

 「声が眩しい」

 我が家は三男が通った区立中学校のグラウンドに面しており、土曜日の運動会に備えて朝から生徒らの声が囂しい。

 これを迷惑がるマンション住人は了見違いで、中学校は半世紀も前からあったのだから、移ってくる人間がそれを諒とするのがスジである。超高齢化時代の希望の風景でもあるわけだが、それにしてもたいへんなエネルギーである。

 5月末の猛々しいような陽光の中で、風に乗って歓声やらため息やらが押し寄せてくるのをこめかみに受け止めて、思わず「声が眩しい」と呟いた。

 刺激と知覚の対応をわざと外すのはレトリックで、「甘い囁き」なども同じカラクリである。

 それにしても言い得て妙、座布団一枚だ。

 

 最後は翻訳物から。

 アメリカの朝の風景、慌ただしく出かけようとする夫が、見送りの妻にお決まりの挨拶をしようとして。あんまりバタバタしていたもんだから、唇を外して小鼻のあたりに命チューした。

 そのまま駆け出す夫、奥さんがため息をつき、

 「中らずと雖も遠からず、ね。」

 だって!

 翻訳の妙、原文は何て書いてあったんだろう?


火曜日 ~ 打碁に変調アリ / 級友の訃報

2015-06-03 11:12:55 | 日記

その一週間をあらまし振り返ってみる。

 

5月26日(火)

 

 放送教材収録開始。ただしラジオである。楽ちんだ。

 決してナメているわけではない。映像がないので、語りだけですべてを進めねばならず、そのほうが実は高度の技量を要するかもしれない。実際、テレビ科目の方が概して学生の授業評価スコアが高いのだそうである。

 一般的に言って楽だとか簡単だとかいうのでなく、自分の性に合っているという意味で「楽ちん」なのだ。 午前・午後、各一本収録し、ほどほどの心地よい達成感がある。

 

 (「性」・・・「しょう」に合っているというのだが、「さが」とも読めるね。「性」という字が、また深い。優に一冊の本が書けるぐらいに。)

 

***

 

 夕方、Fさんと対局。いつもは昼休み限定にしているが、打ち掛けの局を4月初めからほったらかしてあるので、ちょっと申し訳ない感じがしていた。帰宅が遅くなるのを覚悟で終業後に盤を囲む。

 打掛の局は立ち上がりにこちらの出来がよく、打ち続けて不利は考えにくいところ。「ずいぶん間が空いちゃったから」とFさんが言い出し、流して打ち直すことにする。

 握って白番、前から気になっていた4手目のカカリを試してみたが、いきなりもつれてそのまま乱戦になった。シノギをしくじって大きな損をこしらえ、最近珍しい大敗を喫する。

 「1時間50分!」とFさん。

 「2局分堪能した。たいへんな乱戦でしたね、」

 「珍しいじゃないですか?」

 

 ハッとした。

 Fさんは攻めっ気の強い碁で、いつも狙ってくる。彼はいつも通り打ったのだ。

 いつになく乱戦になった原因は、彼ではなくて僕にある。僕の碁ではない、どうかしている。

 

***

 

 帰宅したらA君からメールが入っている。誰が指名したわけでもなく、事実上の医学部同期会幹事を担っているA君である。

 訃報だ。

 

 皮膚科へ進んだY君、昨夏来、闘病中のところ、病勢傾き母校の附属病院で逝去。

 54歳の無念を思う。

 

 

 

 

 


一週間

2015-06-03 10:51:49 | 日記

2015年6月3日(水)

 

 何の予定も義務もなく、完全に放心できる一日というものはありがたい。本来、週に一日はこういう日のあるのが人間の理想というもので、なかなかそうはできない弱き衆生のために、主が全能の権威をもって「安息日」を命じられたのではないかと思う。

 もっとも、僕ら日本人の原型である農民の日常では、七日に一度の安息日を型通り守っていようものなら、秋の収穫など到底期待できなかったはずだ。冬に飢えたくなければ夏は働きづめで、冬は冬なり仕事も煩いもある。そこから「離陸」した今こそ、贅沢に安息日を守ることもできよう理屈だが、現実の日本の勤労者はおそらく世界で最も「安息日」の思想からかけ離れた生活を送っている。

 (「離陸」とは、国民のほとんどが農業から離れてしまったことを指していうのではないし、この言葉が意味する「進歩」から農民を排除する意味ではさらさらない。念のため。)

 

 僕?僕は皆と少し違った事情で、やはり理想からは程遠いところにある。それは周りの誰彼のせいではなくて、自分自身の問題、内面的な瑕疵のためだ。2015年5月最後の1週間は長かった。その長さは、まだ終わっていないけれど、今日は久々に、申し分なく弛緩している。

 

 そこでようやく、振り返ることもできれば書くこともできる次第だ。