散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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木曜日のいろいろ ~ メンタルヘルスセミナー/大丈夫/ある墓参/武侠小説

2014-11-27 19:01:36 | 日記

2014年11月6日(木)

 3週間前になるが、メ ンタルヘルスのセミナーで講師をつとめた。関連業種の人事担当者ばかり70人ほど集まり、それが皆固く押し黙って(一人例外がいたっけな)、面接授業や公開講座の開けた雰囲気が少しもない。見えないネクタイで締めあげられてるみたいで、冗談なんか言えたもんじゃない。それで知ったのは、自分にとって酸素と同程度に笑いが必要なことだ。

 ああ苦しかった、窒息するかと思った。

 同時に驚いたのは、会社の人事担当者の面談申し入れを、断る/嫌がる医者が多いことだ。個人情報うんぬんは理由にならない。あれは当事者を守るためのルールなんだから、当事者の利益になる局面では ~ むろん本人の了解を得たうえで ~ 必要かつ有効な情報交換は大いに促通すべきなのである。なのにそれを嫌う医者が多く、その言い訳に「個人情報」を持ち出すらしい。中にはこの種の徒労を何度も経験したあげく、医者との連携を断念して消極路線に切り替えたという担当者もあった。

 分からないな、どうも。

 カッコつけるわけじゃないが、それでは精神科の臨床はできないし、だいいち面白くないだろうに。DSMに準拠して振り分け(操作的診断は、それ単独では「みたて」ではなく「ふりわけ」に過ぎない)、対応する処方箋を発行するだけだとしたら、精神科診療なんて少しも面白くないし、機械だってできる。レジ打ちの方がよっぽど生の人間に触れている。

 どうも分からない。

***

 自信?そうだね・・・

「大丈夫、自信を持ちなさい」

 というのが励ましの定型だが、ほんとうは

「大丈夫、自信なんかなくても大丈夫」

 と言いたいのだ。

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 ある人が岩手へ墓参に帰った。当日は霧が深く、よく知った道なのにうっかり迷ってしまった。歩くにつれ動悸がして気分が悪くなってくる。やがて森陰の小さく開けた丘に出た。墓石が立っているらしい。悪心をこらえて墓石の文字を読めば、「藤原経清」とある。奥州藤原氏の祖、前九年の役で源頼義に惨殺されたが、 息子清衡が三代の栄華の初めとなった、その経清である。

 どうも苦しくて仕方がない。ふと考えて、ちょうど携行していた線香を墓前に焚いて祈ったところ、すっと動悸がおさまって楽になった。道を戻って墓参を済ませ、駐車場で愛車に乗り込んだら、垂れ込めた雲が彼の頭上で開けて、燦々と秋の陽が降り注いだ・・・

***

 勘違い、『ゲーテとの対話』はまだ手に入れてなかった。岩波文庫でたっぷり分厚い3巻もの、これは買った覚えがない(ほんとか?)。ちょっと迷って購入した。目ざす言葉に行き当たるまで、どれだけかかるか分からないが、面白そうだからいいや。

 と言いながら、帰りの電車では『射英雄伝』の一巻にハマってしまった。(チョウ)は鷲の意というから、鷲をも射落とす英雄達の物語か。実はこれ、台湾出身の棋士・林子淵七段のお勧めなのだ。同じ台湾出身の張栩九段ともども、林海峰師の内弟子だった時代にハマったという。もっとも彼らは中国語の原作を読んだのだろう。金庸(Jing Yong)という中国人の著者は、中国・台湾で非常に人気のある「武侠小説」のチャンピオンだそうだが、日本語訳もリズムよく感じが出ている。

 冒頭の流れは『水滸伝』続編と言ったところ。現に時代も南宋、主人公のひとりは梁山泊の英雄の子孫という設定である。長春真人が出てきて、早くも一波乱起きた。これにハマるなんて、棋士らもやっぱり男の子だね。

 夢中で読みふけり、少しぼうっとして最寄り駅で降りたら、後ろからツイと出てきた若い女性が、制服の女の子のギターらしき荷物を思いきり蹴り上げた。びっくりして見ていると、振り返る女の子に一瞥くれて、また電車に乗り込んでしまった。

 武侠小説より、こっちが怖い。言葉を使いましょうよ、ね。

 あ、そのほうがもっと怖いか。

 


花は必ず剪って瓶裏に眺むべし

2014-11-27 11:34:22 | 日記

2014年11月27日(木)

 「二方は生垣で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲の中に立った池の女を見るや否や、忽ち悟った。 - 花は必ず剪(き)って、瓶裏(へいり)に眺むべきものである。」

(『三四郎』第三十八回 11月25日(火)朝日朝刊)

 漱石だ。

 この言葉の意味は、そう簡単ではない。そしてこの後に、例の「ヴォラプチュアス」論議が続く。読者は相当考えさせられる。美禰子のモデルは「平塚らいてふ」だと別の日の解説。

 このスタイルは、今はダメなのかな?いやさ、今はどこにどういう形であるんだろう?


きれいな心と立派なトド/二重に買った本の数々

2014-11-27 07:32:44 | 日記

2014年11月27日(木)

 ブログを更新できないのは、非常なもどかしさである。そこにあるのに、アウトプットできない。精神の便秘みたいなものだ。今日もタスクは山ほどあるんだが、もうたまらん、せめて少しガス抜きしておかないと、イレウスでも起こしたら命にかかわる。便秘って、怖いんだぞ・・・

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 武宮正樹九段がテレビ解説で「碁を打つと、頭がよくなるというか、心がきれいになるというか」云々と楽しげに話してらした。いかにも「らしい」おおらかで楽しいコメントだが、たぶん少し違うんだな。碁を打てば打つほど頭が悪くなり、心が汚くなる例はいくらでもあるもの。

 頭をよく使わないと上達しない、心をきれいに打たないと楽しめない、

 きっとそんなことなのだ。そうなることを妨げるのは、「勝ちたい」とか「相手をとっちめてやりたい」という邪念である。僕らのようなヘボ碁でも、きれいな心と邪念の相克はちゃんと浮き彫りになってくるし、その機微にプロもアマも違いはないような気がする。ただしプロには、生活と人生のかかる厳しさが加わるけれど、それでも心をきれいに打つことが、逆説的に強さへの王道だというのが武宮流である。

 すべてのプロにとってそうであるかどうかは微妙だと思うけれど、賭け碁で自分を鍛えた坂田栄男師すら、とどのつまりに同じようなことを言ったことが思い出される。

 とどのつまり・・・北海道は斜里の町中に、トドが現れたんだそうだね。好物のニシンを追って来たらしいと。堂々たるものだが、近づくと牙をむいて威嚇するので、警官やら町の職員やらが15人がかりで毛布でくるんで押さえ込み、町民の軽トラックで海まで運んで離したそうな。

 とどのつまりの「とど」は、トドではなくてボラなんだそうだが、何しろローマ字でトドと書けば to do になる。トドにも人にも、それぞれ為すべきつとめあり、かな。

 

(http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/576737.html)

***

 既にもっている本を、うっかりまた買ってしまうということがある。先日、誕生日に用意した文庫本を、次男と三男が申し合わせたように不思議そうに眺め、それから顔を見合わせた。普段はそうも思わないが、この瞬間の二人の表情がそっくりである。それに注意の半分を引かれながら、残り半分で自分の失敗に気づいた。

 しかしこれは、今さら悔やむような話でもないんだな。反省してみれば、僕は常習犯に近いのだ。ちょっと書棚を眺めてみても、『民約論』と『社会契約論』が同じものだと知らずに新旧両方買っちゃったなんてのはかわいい話で、まるっきり同じ本の同じ版がちゃんとペアになっていたりする。

『知と愛』

『種の起源 上・下』

『ビルマの竪琴』

『白痴・二流の人』

『六段合格の定石』

『楢山節考』

『三屋清左衛門残日録』

『娘の学校』

・・・・・

 あ~あ、それにも懲りず、だ。今日はまた一つ失敗を重ねることを承知で、仕事帰りに一冊買ってくる予定。

『ゲーテとの対話』(エッカーマン)

 これ、確かに持ってたはずだけど、調べたいことがあるのにどうしても見つからない。数百円より時間が惜しいから、今日また買ってくる。

 無駄、だって?確かにね。

 だけど無駄と言ったって、あれに比べれば塵みたいなものだ。あれだよ、あれ。

 正当な理由の見当たらない国会解散と総選挙。

 いったい幾ら金がかかるか、その間の国会の機能中断で、どれほどの迷惑と無駄が生じるか、その辺をざっとでも申告したうえで、やるならやってほしいものだ。「それでもやります」ってね。

 ああもったいない。「もったいない」は日本発の世界語候補だったよな・・・