ヒジュラ暦1426年ジュマーダー・ッサーニヤ(6月)23日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日) |
東京ジャーミイに集団礼拝に行ってきた。
礼拝が終わった後に図書室で本を読んだり、談笑することもあるが、今日は本当に礼拝
だけ。帰りに実家に寄る用事があったため。
10時くらいに家を出て、1時間ほど礼拝に参加して、実家についたのが午後3時くらい。
うーむ、結構時間かかるなあ。
イスラーム国のように、家の近くに気軽に行けるモスクがあればいいんだけど、いかんせん日本にはモスクが少ない。
自分は、基本的に金・土休み(でも不規則)だからいいけど、土・日休みで働いている人は集団礼拝行けないよな、ふつう。
たまたま東京ジャーミイやアラブイスラーム学院の近くで働いているならいいけどね。
それなのに、「3週連続で金曜の集団礼拝に参加しないと、ムスリムではなくなる」などという人もいて、これではますます日本にイスラームは根付かんのじゃないか?
女性は金曜の集団礼拝の義務が無い上、旦那がイスラーム圏の人ということが多いから、男性よりはイスラームに定着しやすいと思う。
すると、日本人のムスリムとムスリマの比がますますアンバランスにもなっていく。
チュニジアなんぞ、国をあげて集団礼拝の日を日曜にしちゃっているぞ。
ヨーロッパの国々とビジネスをやるには、土日休みにした方が都合いいので、そうしたということだが、現地で聞いたときにはさすがに驚いた。
でも、それもひとつのテなのかなあ…なんて思ったりもする。
第一、若い人は全然礼拝しなくて、年取ってから信仰生活に入るあたりは、日本の仏教と変わらんじゃないか、チュニジア。
ひとくちに「イスラーム国」と言っても、けっこう国ごとにアレンジしちゃって、その国ごとのイスラームとなっているのが現状だ。
となれば、ぼちぼち「日本のイスラーム」というものも形成されつつあってもいいと思う。
でも、基本的に日本人ってマジメだから、イスラームに入信すると、すごくきっちりやろうとする。
そんでもって、きっちりできんヤツは、一部のマジメで優秀な日本人ムスリムから風当たりが強くなって、結局離れちゃったりするんだよね。
ユーシューな人って「やればできる。できないのは努力が足りないからだ」という考えを持っていたりするけど、そういう因果律自体がイスラーム的ではないと思う(わあ、生意気な発言)。
努力の結果がうまくいくかどうかはアッラーの意思(イン・シャー・アッラー)でしょう? なんで「努力すればできる」って、人間ごときが言い切っちゃうの?
誰に聞いているんだか自分でもわからんけど。
宗教って、なかなか決まりを守れない困ったヤツとか、努力しても結果が出ない人とかがいて、「広まっている」って言えるんじゃないかなあ。
「日本のイスラーム」が、知らないうちに、ユーシューな一部の人によって「選民思想」みたいにならなければいいな。
と、本人なりに努力しているつもりの凡人ムスリムはつぶやくのであった。
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アッサラーム アライクム
金曜日の礼拝に行ったのですか。マーシャーアッラー
islamwebのファトワを貼り付けておきます。参考までに。
アブー・ダーウードのハディースに「金曜集団礼拝は(礼拝の)呼掛けが聞こえた者に課される」とあり、その距離は、だいたい10キロメートル(3マイル)ぐらいになるそうです。礼拝の呼掛が聞こえなくても自分の住む町にモスクがある場合は金曜礼拝に行かなければなりませんけど。ハナフィーは「町」の規定が、ムスリムの統治者や代理人が治めているところらしいので、日本の場合は、どうなんでしょうね。私たちの住む町にはモスクはないし、仕事している町にもモスクはないので、この規定に従うと「義務」ではなくなると思うのですが。アッラーフ アアラム。金曜日の集団礼拝に参加できる方々は、ただただアッラーの恩恵によるものだと思います。金曜日の礼拝は「ここは日本?」と思うくらい外国人密度が高くなります。
アッラーのご加護と祝福がありますように ワッサラーム
ファーティマBさま
生のクルアーン、アラビア語のフトゥバ、人種・民族を超えて「人類」の中に埋没していく感覚…金曜の集団礼拝自体は好きです。
遠くても通えるところにモスク(しかも立派な)があることもアッラーに感謝です。
多くの方が声をかけてくれるのもありがたいのです。
しかし、中には「礼拝はきちんとやっているか?」とか「断食はどうだ?」とか聞いてくる人がいるのに辟易しています。
それは私とアッラーの間のことですしね。
「金曜はちゃんと来いよ」などという人もいるし、その上、人によって言うことが違ったりするのも疲れる一因になっています。
でも、ムスリムにもいろいろな人がいるということを肌で感じる貴重な体験と言えるのかも知れませんね。