ヒジュラ暦1426年ラビーウ・ッサーニー(4月)21日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日) |
クルアーンの中には、日本人の心性には戸惑いを感じるような章もある。例えば「第111章・棕櫚章(スーラトゥ・ル・マサドゥ)」。
1.アブー・ラハブの両手は滅び、彼も滅びてしまえ。 2.かれの富も儲けた金も、かれのために役立ちはしない。 3.やがてかれは、燃え盛る炎の業火の中で焼かれよう。 4.かれの妻はその薪(たきぎ)を運ぶ、 5.首に棕櫚(しゅろ)の荒縄かけて。 (※訳は、日本ムスリム協会発行の『日亜対訳 注解 聖クルアーン』による) |
アブー・ラハブは、預言者ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)のおじであり、最も抵抗した敵のひとりであった。
そのためこうしてクルアーンに、滅び行く愚か者として名を残すことになった。「神の言葉にしては強烈だなぁ」というのが最初の印象であった。
でも、『旧約聖書』の「士師記」なんかだって結構強烈だよなあ。いきなり他の民族皆殺しにしちゃったりしているもんなぁ。
『新約聖書』でも、ユダは永遠の裏切り者として名前残しちゃったしね。
やはり神は優しい面だけでなく、恐ろしい面も持っているものなのだろう。
暗記するという意味では、この章は内容が強烈なので暗記しやすかったけどね。