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日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

書道か絵画か? 前衛アラビア書道

2005年08月25日 05時56分00秒 | アラビア書道
ヒジュラ暦1426年ラジャブ(7月)20日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)



比較的、ハットゥ(アラビア書道)とわかりやすい作品

 レバノンのベイルートのホテルのロビーやレストランにたくさんの絵が飾ってあった。


 よく見るとアラビア文字らしきものが書いてある。従業員に「これは絵ですかハットゥ(アラビア書道)ですか?」と尋ねると、「ハットゥです」と言う。


 うーん、難しい。アラビア書道と日本の書道はだいぶ異なるとはいえ、カラフルな絵の中にアラビア文字が少しだけ書いてあるような作品も、「アラビア書道の作品」ということになるのかな?

 
 ちなみに、何人かの従業員に尋ねたが、誰一人として書いてある文字を読める人はいなかった。「アートだからね」と言った従業員もいた。


 まあ、日本の書道でも、素人目には何が書いてあるかわからない作品ってあるもんなあ。


 レセプションで作者について尋ねると、名前と連絡先を教えてくれた。オマル・カイスティという人らしい。レセプションの人も「彼はハッタート(アラビア書道家)だ」と言っていた。
 連絡先は携帯電話の番号なんだけど、おそらくかけないと思う。向こうも日本から突然携帯に電話されても困るだろうし。


 そういえば、 そういえば、ディズニー映画の『アラジン』でも、炎のシーンでは、炎の中にアラビア文字が描かれているという話を聞いたことがある。まだ、確認していないけど。意味がある文字列なのか、ランダムな文字列かもわからないし。
 それも広い意味ではアラビア書道なのかな? まだまだ初心者なせいか、アラビア書道の範囲ということを考えるとキリが無いのであった。 

左側の緑の部分とか、微妙にアラビア文字が書いてあるらしい。



これまた微妙。絵の一部にアラビア文字が書いてあると言った方が適切かもしれない。


アラビア書道の筆(カラム)を初めて自作

2005年07月21日 06時03分24秒 | アラビア書道
ヒジュラ暦1426年ジュマーダー・ッサーニヤ(6月)15日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)


左側が自作の筆。右は先生からいただいた小筆。

 先週の木曜、今週の火曜と、書道(日本の)をやっている知人からいらなくなった筆をもらい、アラビア書道用の筆作りに挑戦した。

100円ショップで買ったカッター(さりげなくダシャレ)で、キコキコと筆先を根元から落とし、少しずつ削りながら形を整え、紙やすりで仕上げる。所要時間約30分。一丁前の職人にでもなった気分。筆先を平らにするのが意外と難しかった。

先生考案の筆だと、筆先にひと工夫もふた工夫もあるのだが、そこまではできない。素朴なものながら初めての自作筆という、それなりの満足感がある。

 さっそく字を書いてみる。「アル・ハムドゥ・リッラー・ラッビ・ル・アーラミーン(アッラーに称えあれ、万世の主)」(冒頭の写真)。デキはとにかく自分の手にはなじむ。

そういえば、以前読んだ『アッサラーム』誌の31号(イスラミックセンター・ジャパン発行・1984年)の記事「聖典のカリグラフィー」の中に、エジプトのサアダウィー師のこんな言葉が載っていた。

 「私たちは、何故アラビア文字を書くのか。聖クルアーンを書くのか。一字一字が、信仰だからではないか。ただ形が美しければよいというものではない。神は常に、私たちが内面で意図するものを御覧になるのだ。かつて、書家たちは、一字たりとてゆるがせにしなかった。聖クルアーンを書く書家にとって、一字の誤りさえ“大罪”とみなされていたものだ」

ついつい「ただ形が美しければよいというものではない」という都合の良い部分に目が言ってしまうのが情けないが、自分で筆を作り(古筆の再利用だけど)、一字ずつ書くという行為が信仰であると実感できた。
 いつかは、材料の竹や葦の切り出しから始めて筆を作ってみたいものだ。

アラビア書道、「時間章」に初挑戦

2005年06月26日 06時46分28秒 | アラビア書道
ヒジュラ暦1426年ジュマーダー・ル・ウーラー(5月)19日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

ところどころに先生の指導の跡が見られる

 きのうの夜は久しぶりに、アラビア書道の稽古に行ってきた。
 月二回しか稽古日が無いのに、前回行けなかったため、約1ヶ月ぶりになってしまった。

 きのうは、小筆を使って、クルアーンの第103章・時間章(スーラト・ル・ワスル)に初挑戦してみた。
 
 うーむ、やはり難しい。

 活字で見れば、たった3節からなる短い章だが、書いてみたら1時間半もかかった。
 稽古時間が2時間だから、私にとっては1枚書くのが精一杯である。
 「とりあえず1枚」というわけにはいかない。

 稽古時間も終わりに近づき、先生に指導をして頂いたが、やはりまだまだ力の抜き方がヘタなようだ。
 それがそのまま、筆(カラム)の線に現れる。線がぶれるし、最後に「すっと抜く」文字が抜けない。

 「アラビア書道は、常に次の文字を書くための準備をしながら書かなくてはなりません。だから書き終わるまでは一瞬でも気を抜くことはできないのです。
 先を先を見ながら進めていくというのは人生も同じですよ」


 「先は見ているけど、ただ見ているだけで備えてない」というスタイルの私にとっては
耳の痛い、先生のお言葉であった。

第103章・時間章
1.時間にかけて(誓う)
2.本当に人間は、喪失の中にいる。
3.信仰して善行に勤(いそ)しみ、互いに真理を勧めあい、また忍耐を勧めあう者たちの外(ほか)は