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日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

沙漠の草のように

2005年09月13日 05時24分14秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)9日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

シリア沙漠にて。ダマスカス-パルミラ間。

‎ なんとなく沙漠が好きだ。


 世界的には沙漠化が問題となっているけど、たまに沙漠に行って地平線を見ると、心が落ち着く。


 定住より、沙漠の生活を自らの意思で選んでいる人々も多いという。


 沙漠に生える草のようになりたいと思う。


 大輪の花を咲かせたいわけじゃない。


 大木となって偉容を誇りたいわけじゃない。


 ただ、大地に深く根を張りたいだけ。


 沙漠の地平線を眺めながら、そんなことを思った。
 

ワディ・ムーサー(モーゼの泉)にて

2005年09月12日 05時25分37秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)8日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

写真だけ見ると、温泉のようだ。

‎ ぺトラ遺跡訪問の入り口として、ワディ・ムーサの町がある。この町の名の由来となった「モーゼの泉(ワディ・ムーサ)」は現在でも、地元の人の飲料や生活用水として使われて‎いる。‎


 ムーサー(モーゼ)といえば、奴隷化したヘブライ民族を率いて、エジプトから脱出し、海を二つに割った奇跡をおこしたことで有名である。‎


‎ さらに、シナイ山で神から、「十戒」を授かったことも有名。‎


‎ これらの物語は『旧約聖書』の「出エジプト記」に書かれていることが有名だが、『聖クルアーン』にも書かれていることは、一般の日本人にはあまり知られていない。‎
‎ 
残念!


‎ 海を割った物語も、シナイ山の物語も「第2章:雌牛章(アル・バカラ)」などに登場する。‎


また、われ(アッラー)があなたがたのために海を分けて、あなたがたを救い、あなたがたが見ている前で、フィルアウン(エジプトのファラオのこと)の一族を溺れさせた時のことを思い起こせ。〔第2章:第50節〕‎
وَ إِذْفَرَقْنَا بِكُمُ الْبَحْرَ فَأَنجَيْنَاكُمْ
‏ وَ أَغْرَقْنَآءَالَ فِرْعَوْنَ وَ أَنتُمْ تَنظُرُونَ ‏
ワ・イズファラクナー・ビクム・ル・バフラ・ファーアンジャイナークム・
ワ・アグラクナーアーラ・フィルアウナ・ワ・アントゥム・タンズルーナ



また、われ(アッラー)が40夜にわたり、ムーサーと約束を結んだときのこと。その時、‎あなたがたはかれ(ムーサー)のいない間に仔牛を神として拝し、不義を行った。〔第2章:‎第51節〕‎
*アラビア語は省略しました。

‎ また、ワディ・ムーサの伝説も第2章などに書かれている。‎

またムーサーがその民のために、水を求めて祈った時を思い起こせ。われは、「あなたの杖で岩を打て。」と言った。するとそこから、12の泉が湧き出て、各支族は、自分の水場を知った。「アッラーから授かった糧を、食べ且つ飲みなさい。堕落して、地上で悪を行って‎はならない。」〔第2章:第60節〕〕‎
‎وَ إِذِ اسْتَسْقَى مُوسَى لِقَوْمِهِ فَقُلْنَا اضْرِب بِّعَصَاكَ الْحَجَرَ ‏فَانفَجَرَتْ مِنْهُ اثْنَتَا عَشْرَةَ عَيْنًا قَدْعَلِمَ كُلُّ أُنَاسٍ مَّشْرَبَهُمْ ‏كُلُواْ وَاشْرَبُواْ مِن رِّزْقِ اللهِ وَ لاَ تَعْثَوُاْ فِي الأرْضِ مُفْسِدِينَ
ワ・イジ・スタスカー・ムーサー・リカウ・ミヒ・ファクルナー・ドゥリブ・
ビアサーカ・ル・ハジャラ・ファンファジャラトゥ・ミンフ・スナター・アスラタ・アイナン・
カドゥアリマ・クッル・ルナースィン・マスラバフム・クルー・ワスラブー・ミン・
リズキ・ッラーヒ・ワ・ラー・タアサウ・フィ・ル・アルディ・ムフスィディーナ



‎ これらの物語は他の章でも繰り返し登場する。


‎ それにしても、「地面を突いたら水が出ました」という伝説は、世界各地で見られるなあ。‎


‎ ウズベキスタンのブハラのチャシュマ・アユーブ(ヨブの泉)は、『旧約聖書』のヨブ記の、‎ヨブが杖で地面を叩いたら水が出たという伝説で、やっぱり現在でも庶民の生活用水として使われているしね。‎


‎ 中国の蘭州の五泉山公園には、前漢の将軍、霍去病(かくきょへい)が、剣で地面を刺したら五つの泉が湧き出たという伝説があるし。‎


‎ 世界各地の、このような観光地の代表が集まって、「地面を突いたら水が出ました伝説サミット」でも開催したらどうだろう? 何やったらいいのかは、よくわからないけど。‎


‎ ムーサーの伝説の地を訪れることができて感無量だけど、ワディ・ムーサの建物から外に出て、道の反対側を見ると、例の謎の動物付きの砂絵が見えて、ちょっとヘナヘナしたのが興ざめだった。‎
ワディ・ムーサの建物の外観。

 

イスラムにゃんこ②/ペトラのホテルの猫 another version

2005年09月10日 10時06分33秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)6日 ヤウム・サブティ(土曜日)

期待通りの動きをしてくれるのが素晴らしい。

 長~いペトラ観光が終わり、シャワーを浴び、夕食のレストランに向かうと、昨日とは別のにゃんこが出迎えてくれました。


 ああ、疲れが癒される。
 

サバイバルツアー・イン・ペトラ⑥

2005年09月10日 09時38分02秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)6日 ヤウム・サブティ(土曜日)

サバイバルツアー・イン・ペトラ、最後の目的地は…

 いよいよペトラ観光も終わりに近づいた。最後に目指すのは犠牲祭壇「高きところ」。冒頭の写真の通り、本当に「高きところ」である。
 険しい山道を約45分から1時間歩く予定。ここで3名さま脱落。結局15名のツアー客のうち、最終目的地に挑むのは8名。



 左の写真が山道の出発点である。
 うむ、これは険しい。しかもロバが足を滑らせてこけているではないか。


 もう、みな無口である。ハァハァ言いながらヨロヨロと登る。

 途中で立ち止まり、倒れこんでいる人もいる。大げさではなく、本当に倒れているのである。
 それでもしばらくすると、立ち上がって再び登り始める。


  疲れているのに、憑かれているという感じだ。「ここまで来たら後には引けない」というような悲壮感が漂う。




(左)道のりの半分あたりで登ってきた道を見下ろす。(右)かなり上の方にゆくと、2本のオベリスクが見える。


(左)最後の難関。道無き崖を登る。コケると転落して死ぬ。(右)「犠牲祭壇」に到着。



 歩き続けて約50分。


 やったあ! 到着だ!


 8名全員が「高きところ」にたどり着いた。女性2名が倒れて「はぁはぁ」と肩で息をしている。相当に苦しそうだ。
 しかし、自分自身の足で登ってきたという達成感が漂う。


 驚いたのは、こんなところにも、野外土産物屋があることだ。5時過ぎなので閉店していたけど。


 「高きところ」から、今日一日自分たちが歩いた巨大な遺跡を見下ろす。ペトラは本当に広大だ。


 風に吹かれながら旅愁に浸る。もう二度と来ることが無いかもしれないペトラの風景をしばらく目に焼きつけ、山を下り始めた。



 下山後、ホテルまで約30分歩いて帰還。本当に長かったペトラ観光が終了。無事だったことをアッラーに感謝!


右端にわずかに王室墳墓群が見える。正面に列柱道路があるはずだが、小さすぎて見えない。

サバイバルツアー・イン・ペトラ⑤

2005年09月09日 10時19分24秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)5日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

王室墳墓群への道

 ペトラのツアーも第3段階を迎えた。次に目指すのは王室墳墓群。ここで3名さまが脱落。
 午後になり、日差しは一層厳しさを増したようだ。



 翼のあるライオンの神殿ビザンチン教会などに立ち寄りながら歩き続ける。


←翼のあるライオン神殿。そのような像が見つかったため名づけられた。修復が進んでいないので、神殿自体はぼろぼろ。


 写真を撮っていたら、5歳くらいの現地の女の子が「ギフト・フォー・ユー」と言って、遺跡のかけらをくれた。


 「お金かお菓子が目的なのかなあ?」と思っていたらそうではなく、私のメモ帳に興味があるようだった。


 私は、旅行先ではメモ魔&デジカメ魔と化すので、常にメモしながら歩いている。


 メモの中身を見せると、日本の不思議な文字や、私の書いたヘタな図などを食い入るように見ていた。


 そのうち、同年代の男女たちが数人やってきて、メモを覗き込む。
 「シュー・スメック?(君の名前は?)」〔*アラビア語のヨルダン方言〕

と尋ねてみる。


 すると、「メモとボールペンを貸して」というジェスチャーをするので、貸してあげると、アラビア語でマナールと自分の名前を書き込んだ。


 それを見ていた他の子たちもメモを奪い合い、どんどん自分の名を書いていく。


 私が子供の頃はまだ外国人は珍しく、白人などを見かけると、「ガイジンだ!」と言って大騒ぎしたものだった。
 それから長い年月が過ぎ、今自分が「ガイジン」として子供たちの前にいる。不思議な郷愁を感じた。


 子供たちと別れてから、他のツアーたちに追いつき、王室墳墓群に到着。
 向かって左から、宮殿の墓、コリント式の墓、シルクの墓、壺の墓と並ぶ。壺の墓だけ中に入り、王室墳墓群の見学を終えた。
 この墳墓群についても詳しいことはまだわかっていない。


 日本帰国後、リュックの中からペトラの遺跡のかけらが出てきた。
 「マナールは今日も元気にペトラで暮らしているのかなあ?」などと考えながらかけらを見ているうちに、空間を越えて、ペトラと自分がつながっているような錯覚に陥った。
 

サバイバルツアー・イン・ペトラ④

2005年09月07日 06時06分35秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)3日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

誰もいないエド=ディルの中で威張るわたくし。

 エド=ディルはナバテア王国のオボダス1世の記念堂だとかなんとか言われている。調べていないので、どんな人だかまったくイメージが湧かないが、これだけのものを作らせたんだから、力はあったんだろうなあ。


 添乗員さんが「あの、上の方にある、岩をくりぬいた貯水槽は現在でも使われています。近くの水路には水が流れているはずです」と説明。


 結構距離はあるが、確かめないと気がすまないタチなので、砂漠をダッシュして確認に行く。
 

 水がまったく無い…


暑さと乾燥のために干上がってしまっている。改めて沙漠の厳しさを実感。


水がすっかり枯れた、エド=ディルの貯水槽(左)と水路(右)。


 そのまま、ワディ・アラバ展望台まで15分ほど歩く。もともとは風葬場だったが、360度の大パノラマを望めるので、現在では展望台となっている。



 ←後方のかなたにイスラエルがある。ヨルダンとイスラエルが国交を断絶すると、ペトラ遺跡を見たいイスラエルの若者が、岩山を越えてやってくるという。


 「あちらに見えるホル山には、モーセ(ムーサー)の兄アロン(ハールーン)の墓があります。歩いて6時間くらいです」と、添乗員さんが説明。
 双眼鏡を覗くと、頂上に白いモスクがある。
 「まさか、『あそこまで行きます』などと言わないよなあ…?」という雰囲気がツアー客の間に漂う。
 そういう展開にはならずに、安心したような、残念なような気持ちになる。



 ハールーン(彼の上に平安あれ)はイスラームでも、偉大な預言者のひとりだし、アッバース朝の絶頂期のカリフ、ハールーン・ッラシードなども、この名前にあやかっている。


 かつての大イスラーム王朝に思いを馳せながら、風に吹かれ、疲れを少しばかり癒したところで出発。来たときと同じ山道を下っていった。

青いトカゲが岩山を駆けていった。

サバイバルツアー・イン・ペトラ③

2005年09月06日 06時00分37秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)2日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

昼は山道でみやげ物屋を営むベドウィンもいる。彼らの岩陰の休憩所。礼拝もここでおこなう。

 昼食後は、エル=ハズネ(宝物殿)と並ぶペトラの「売り」エド=ディルへ向かう。この時点で一人脱落。



 ひたすら山道を登り続ける。勾配はそれほどキツくないし、一応階段らしきものもあるのだが、足場は悪い。ロバの糞なども落ちているので要注意だ。なにより暑い。暑さで景色が歪んで見える。

実際はこのような景色が → こんな風に見える(?)。

 感心するのは、このようなゴツゴツした山道のいたるところに、小さな露天商がいて土産を売っていることだ。
 昼寝をしたりして、のんびりと商売をしている。朝やってきて一日ここで過ごし、日が暮れると山を降りて村へ帰ってゆく。


 現地の若者たちが2人、まるでカモシカのような身軽さでガケを駆け登っていった。しかも談笑しながら。さすがに体力とキャリアが違う。


 ツアー客の方は、「行軍」という言葉が似合うような状況になってきた。みな黙々と歩いている。
 ときどき立ち止まっては、自分が登ってきた道のりを振り返り、これからの道のりを確認する。
 時間の感覚もわからなくなってきた。40分から1時間くらい歩いただろうか?
 なだらかな下り坂が見え、ようやくエド=ディルにたどり着く。


 確かにデカく、美しい。体力にものを言わせ、高さ1.5mほどの入口をよじ登り、中に入る(階段も無く、掴まるところも無く、滑るので入りにくいのである)。
 がら~んとして何も無い。でも、他に誰もいないので「エド=ディルの中にいる」という実感が湧き、古代と静かに向き合うような、とても落ち着いた気持ちになった。なにより涼しい。


 エド=ディルを見るのもそこそこに、その向かい100mほどのところにある、休憩所に倒れこむように入っていく人も多かった。
 ペトラ・サバイバル・ツアーはまだ終わらない。この先、どのような試練が待っているのか?


歩き続ければ必ずたどり着く。右の写真の右側の山の裏側がエド=ディル。


入口の下の方に、豆粒のような3人の人が見える。エド=ディルの大きさがうかがえる。


サバイバルツアー・イン・ペトラ②

2005年09月05日 06時17分16秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)1日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

「頑張れよ!」とエル=ハズネの前にいたラクダは言った(ような気がした)。

 エル=ハズネで説明を聞いた後、墓の遺跡群劇場跡砂絵屋などを見てから小休止。
 トイレに入ると、中にまで岩が突き出ていた。さすがに「ペトラ(岩)」という名に恥じない。
 しかし、伊豆あたりの旅館の岩石風呂という趣きが無いでもないな。


 そして、王室墳墓群を遠望し、妖精の泉(ニンフェニウム)へ。ここは水路が合流する地点で、450年前のピスタチオの木が今でも元気に立っている。
450年前のピスタチオの木があるニンフェニウム。   ペトラは休憩所のトイレにも岩。
 

 それにしても暑い。気温はおそらく40度を越えている。その中をひたすら徒歩で勝負するのがこのツアーである。
 ペトラには観光客用の馬車もロバもいるが、それらの動物には一切乗らない。


 ローマ時代の舗装道路である、「列柱道路」(コロネード)を越え、凱旋門(テメノス門)にたどり着く。


 「それにしても、なんで『熱中道路』って言うのかしらね? ローマの人って熱中しやすかったのかしら?」


 疲れを一気に倍増させる、オバサマの声が聞こえてきた。オバサマの頭も暑さでレッドゾーンに入ってしまったようだ。
 とにかく、これを越えれば昼食だ。



 列柱道路をひたすら歩く。







 この門を越えるとレストランが見えてくる。

 

サバイバルツアー・イン・ペトラ①

2005年09月04日 06時24分21秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ラジャブ(7月)30日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

左側に見えるのがオベリスクの墓。形状からそういう名前がついている。

 映画『インディ・ジョーンズ』のロケ地として有名なのがペトラだ。‎
 ペトラはヨルダン最大の遺跡であり、世界でも最大級の遺跡である。‎
‎ 従って、すべてを回ろうとすると一日では足りない。にもかかわらず、行ける人は一日で行けるところまで行こうというのが今回のツアーである。‎



‎ さて遺跡の敷地内に入ると、なだらかな下り坂が延々と続く。左にオベリスクの墓などを見ながら、15分ほど進むとようやく、「シク(地峡)」という、ペトラへの本格的な入口に‎たどり着く。‎



‎ ガイドブックなどを見ると、幅が1~2mくらいしか無いような本当に狭い通路を1キ‎ロ以上歩くような勘違いをされやすい。‎
‎ 実際は、結構幅広い部分も多く、それほどの圧迫感は無い。確かに両サイドはすごい絶壁だけど。‎



‎ ペトラには、かつてナバテア人が住んでおり、彼らの使ったナバテア文字がアラビア文字の原型とも言われる。


 そこで、ナバテア文字がどこかに書かれていないか注意しながら進む。‎


‎ 「あ、この石の上に刻まれているのはナバテア文字じゃないか!?」


‎…と思ったら、アラビア語の落書きだった。その近くには英語の落書きなどもしてある。‎紛らわしいことするんじゃない! というより、貴重な遺跡に落書きしてはいけない。‎



 ペトラの発掘は現在でも続いており、シクの中でも続々と新しい遺物(変な表現)が発見されている。‎
‎ 例えば、ラクダを連れた隊商のレリーフとかね(写真参照)。‎



‎ ところどころにアロウザ女神の祭壇なるものが見られる。アロウザ女神は、ジャーヒリヤ時代(イスラム以前の時代)のアラビア半島で信仰されていた3女神のひとり、アル=ウッザーのことである。‎



 ちなみに後の二人はアッラートとマナート。アッラートの方はシリアのパルミラにも伝わり、像が発見されている(パルミラ博物館収蔵)。‎



‎ ジャーヒリヤ時代、3女神はアッラーの娘などとも言われており、『聖クルアーン』の中では、アッラーがそのことを戒めている。‎



第16章:蜜蜂章、第57節
‎ またかれらは、アッラーには女児があると言う。何ともったいないことよ。自分たちには自分の願うもの(男児)があるというのに。




第17章:夜の旅章、第40節
‎ (多神教徒よ)主は男児をあなたがたに授け、(御自分は)天使の中から女児を取られたとするのか。‎
本当にあなたがたは由々しき言葉を口にする者である。
‎‎



その他、ローマ時代の導水管とかダムの跡だとかを見ながら歩くうちにシクが終わり、‎目の前にエル=ハズネが現れる。‎
‎ なんとなくゴールしたような気分になるが、これからがハードな遺跡めぐり本番なのであった。‎
 

アラブ名物「あなたのお名前の入った砂絵」の真実

2005年09月01日 05時47分52秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ラジャブ(7月)27日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

謎の動物がへばりついた巨大砂絵。これは持って帰れん。

「砂絵(サンドアート)の本場はぺトラです」と添乗員さんがバスの中で説明した。‎


‎ 「本場」とか「元祖」とか「本家」などというものは得てして、関係者の自己申告であ‎ることが多いので、今回もぺトラの関係者がそう言っているんだろうなあと予想される。‎



‎ おそらく、チュニジアで聞けば「チュニジアが砂絵の元祖」であり、モロッコで聞けば‎「モロッコが砂絵の本家」なのだろう。‎



‎ あらためて、砂絵の説明をしておくと、瓶の中にさまざまな色の砂を少しずつ入れ、細い棒で上から形を整えて絵を作っていくというアートである(文章で書くとかえってわかりづらいか)。‎



 ぺトラは広大な遺跡であり、さまざまな色の岩石がある。これらを削った砂で作られた、‎赤と茶色を基調とした砂絵が「本場の砂絵」とのこと。‎



 もっとも、遺跡保護のために、近年ではぺトラ敷地内の岩を削られることが禁止され、‎やむなく着色した砂などを使っているそうだから、あまり「本場だ」と威張れなくなっている。‎



 さて、「本場」ぺトラ遺跡内の砂絵屋でも、「砂絵にあなたのお名前を入れます」という、‎よくあるサービスをやっていた(愛知万博のヨルダン・パビリオンでもやっていた。6月27‎日の記事参照)。‎



 今回のツアーでも多くの方が「あなたのお名前の入った砂絵」を注文していたけど、おそらくほとんどの人が「当然、砂を積み重ねて名前を書いてくれるんだよなあ」と思っているのではないだろうか?‎


‎ ふっふっふっ、残念ながら違うのだよ。



 実は、砂絵を作る前に瓶の内側からマジックなどで名前を書いてしまうのだ。下の写真を見てもらうとよくわかると思う。‎

 なお、店の砂絵師(って言うのかな?)にストレートに聞いたところ、「砂絵で名前を書くのは無理なので、マジックで書いている」とのこと。‎
‎ まあ、瓶の内側にマジックで名前を書くのもなかなかの技術だとは思うけど、注文する人はそういう技術を期待しているのではないのではないかな?‎
 いや、別に営業妨害するつもりは無いけど。

 
 なにはともあれ、「あなたのお名前の入った砂絵」を注文する人は、そのことをよくご理解いただいた上でご購入ください。余計なお世話か。‎
 

 でも砂絵の技術自体がすばらしいことは変わらないよね。‎