替え歌
ルージュのドンデン
あの人のママが言うのよ
「浮気はあなたのせいよ」
毎度あり~
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
~第二部と第三部の間
(12/12)「公平の眼」
SがKに〈静とSの恋物語〉を告白できなかった。なぜ? 決定的な理由は、Sの語る能力が不足していたことにある。また、Kに聞く能力が不足していたからでもある。ただし、作者はそうした文芸的表現を試みているわけではない。N自身に対話の能力が不足していて、しかもその自覚がなかったからだ。自覚がないどころか、屁理屈を捏ねていた。
<いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
〔5541 「自我とか自覚とか」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 5540 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
こういう粗雑な文を読んで不快にならない人を、私は私の読者として想定しない。
何が言いたいの? 〈こっちはそっちのわがままを大目に見てやってんだからさ、そっちもこっちのわがままを大目に見ろよな〉ってこと? 累進課税は公平? 不公平?
〈自分は「公平の眼を具し」ているぞ〉という驕慢と〈自分は「公平の眼を具し」たいな〉という希望を区別できてる? 「正義の観念」が万国共通なら、戦争は起きまい。むしろ「正義の観念」こそが戦争を正当化する。「自分の幸福のために自分の個性」が邪魔をすることは大いにあるよ。「個性を発展して」は日本語になっていない。「同時に」は意味不明。「その自由」の「そ」が指すのは〈「発展」させて「行く」〉かな。他人に自由を与える? 凄いことをのたまう。「疑わない」の真意は〈疑いたくない〉だろう。
変な日本語には要注意。今世紀の常識だろう?
Sは静に愛されたい。Kは静に愛されたい。では、二人で静を共有すべきかな。3P? 日替り定食? 日曜はダメよ、ダメ、ダメ。静にも自由を与えなければね。三人目ができちゃったんだ。Sを「先生」と呼ぶ彼。
ロシアの大統領はウクライナを属国にしたい。ウクライナの大統領は属国にされたくないばかりか、クリミアを奪還したい。
さて、「公平の眼」のあなた。あなたなら、どうする?
みんな違って、みんな殺し合ってもいいかな? 「いいとも」って言わなきゃ。
<自分は他の人の期待を満たすために生きているのではないという権利を認めるのであれば、他の人にもそれと同じ権利を認めなければなりません。他の人は私の期待を満たすために生きているわけではないのです。
(岸見一郎『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』)>
意味不明。「小徳川流」(『中庸』三十)みたいなこと? 当たり? 外れ?
<君と会ったその日から なんとなく幸せ
こんな気持ち 初めてなのさ
分けてあげたい この幸せを
(かまやつひろし作詞・作曲『なんとなくなんとなく』)>
幸せを分けてあげられる人は限られている。「公平」は無理。
<幸せって 何だっけ 何だっけ
ポン酢醤油のあるうちさ
(作者不詳)>
もう、笑うしかない。
(『夏目漱石を読むという虚栄』「第二部と第三部の間」終)
夏目漱石を読むという虚栄
~第二部と第三部の間
(11/12)「その人」
星新一は、しばしば唐突にソ系語を用いる。わざとやっているのだろう。
『こころ』の冒頭の文に含まれた「その人」について、「唐突にソ系の言葉が出てくると、面食らう」と、私は書いた。〔2112 「その人」と「常に」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
面食らわない人を、私は私の読者として想定しないことにする。想定したら、説明することが多すぎて収拾が付かなくなるからだ。
To Sherlock Holmes she is always THE woman. I have seldom heard him mention her under any name.
――ARTHUR CONAN DOYLE“.A SCANDAL IN BOHEMIA”
『その男、ゾルバ』の原題は“Zorba,the Greek”だが、この邦題はいかがなものか。
『ピーナッツ』の“It was a dark and stormy night.”を、谷川俊太郎は「それは暗い嵐の夜だった」(1965.07.12)と訳したり、「暗い嵐の夜だった」(1965.07.14)と訳したりしている。英和辞典では後者が正しいとされる。だが、私は英和辞典を信用しない。なぜなら、後者の訳では、日本語として不十分だからだ。勿論、前者の訳は妙だ。でも、妙でいいのだ。
ホラーの『IT』を『それ』とは訳せない。『あいつ』が適当だろうが、無理に訳す必要もなかろう。
「そら、二位一体という様なことになる」(『三四郎』七)の「そら」は悪用。〔5253 「露悪家」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 5250 - ヒルネボウ (goo.ne.jp) 共有されていないはずの概念を、あたかも共有されているかのように装っている。
高校の英文法の時間に”It is spring”を「それは春です」と訳してしばらく立たされた。思い出すと、今も怒りがこみ上げる。授業の後、同級生が寄ってきて、「あんなことも知らないなんて、がっかりしたぞ」と憎々しげに言い捨てて去った。まるで私が彼を騙したみたいだ。私には、私なりの言い分というか疑問があったが、誰も聞いてくれそうにないので、黙っていた。
外来語が大量に入ってきた幕末以降の日本語の揺れ、歪み、多義性、曖昧さ、そういうことに鈍感な人を、私は私の読者として想定しない。
外来語の中には、中国語も含まれる。その一例が〈恋愛〉だ。
<中国ではロプシャイトの「英華字典」(一八六六-六九)に既に見えるが、日本では明治初年(一八六六)以来、英語loveの訳語として「愛恋」「恋慕」などとともに用いられ、やがて明治二〇年代から「恋愛」が優勢になった。
(『日本国語大辞典』「恋愛」)>
明治以降、物語のない、あるいは典拠不明の漢語が大量に生み出されていた。生んだのは文豪たちだろう。漢文の訓読という悪習のせいで、日本のインテリは、日本語とも中国語ともつかない、変な作文をして気取っていた。『平家物語』なんて、ひどいものだ。
<*国文学読本諸論(1890)〈芳賀矢一〉五「更に之を平易明暢なる和漢混交文とし」(『日本国語大辞典』「和漢混淆文・和漢混交文」)>
<*「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す(1888)〈志賀重昴〉「想ふに採長補短てふは折衷比較的にして、其説ふる処偏に古色を帯び、転た快活果敢ならざる者に似たり」(『日本国語大辞典』「採長補短」)>
さらに漢文体というトリック。
<『平家物語』二で、平重盛が父清盛の暴挙をいさめて言ったことば「悲しき哉、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷盧八万の頂よりも猶高き父の恩、忽ちに忘れんとす。痛ましき哉、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御為には已に不忠の逆臣ともなりぬべし。進退是窮まれり。是非いかにも弁え難し」を、頼山陽が『日本外史』を著すとき、「出典」のように漢文で言いかえたもの。
(『成語林 故事ことわざ慣用句』「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」より)>
「言いかえ」じゃないよ。ほぼ捏造。
ちなみに、『清盛』(NHK)でこの文句を呟く重盛は、疲れきって弱っているようだった。「いさめて」いるような強さはない。実際は弱っていたのだろう。
(続)
夏目漱石を読むという虚栄
~第二部と第三部の間
(10/12)家畜人の美学
〈ある人に心の恋人がいた。彼の友人が、そのことを知らずに、彼女に恋をして、彼女には告白しないで、ある人に告白した。ある人は衝撃を受けた。その衝撃とは、これこれしかじか〉というような物語があるのか。ないのなら、想像できない。どこにもない物語を想像できる人は、さっさと小説を執筆しなさいって。
『こころ』の作者は恋物語を描けなかった。他の作品から借りてもよさそうなのに、そんなこともしない。なぜだろう。Nにとって「恋」はありふれた物語や歌などに出てくる言葉とは意味が違うからだ。それは、彼の体験とか妄想などのタイトルみたいなものだ。こうした真相を隠蔽するために、作者は七転八倒している。〔2340 被愛願望〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2340 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
Nは、『吾輩は猫である』から『明暗』まで「恋」の物語を仄めかし続けるが、まったく要領を得ない。語りたくないのではなかろう。夏目語の「恋」は、普通の意味での恋とは違うらしい。だから、語れるとか語れないとか、語りたいとか語りたくないとか、そういうこととは違うはずだ。
Nが隠蔽している何かを、物語を介してではなく、「同情の糸」(上七)によって感知した人は夏目宗徒になる。〔2253 見捨てられそう〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2250 - ヒルネボウ (goo.ne.jp) そんな「糸」さえないのにNを称賛する人はインチキだ。夏目宗徒はNの文章が難解であることをよく知っている。だからこそ、自分の読解力を自慢できるのだ。インチキどもは、そのことに気づかない。連中は野次馬でしかない。彼らの戯言が私の心を蝕む。大半の日本人の心が蝕まれてきたことだろう。
私が批判したいのは、夏目宗徒ではない。彼らはNの霊魂と通信できるらしいから、そんな人を相手にするのは、私にはとても無理だ。批判どころか、排除すら不可能だ。こうしたタイプの人は、信仰の対象が何であれ、何パーセントかはいるものだろう。人間は変な生物なのだ。どうにもならない。凝っては思案に能わず。
私の排除の対象は、インチキな連中の利口ぶった戯言だ。
Nの用いた多くの文言は何かを隠蔽している。すべての文言がそうなのかもしれない。文芸的隠喩とは違う。Nは、隠蔽するしかない何かを自分にとって都合のいいように誤解してもらいたくて、「意味」を捻じ曲げ、文芸っぽく偽装している。また、そのために小説家に擬態した。Nの仕事なんて、その程度のものだ。
では、なぜ、その程度の仕事で虚名を得ることができているのか。
忖度は家畜人の美学だからだ。
証拠はあるか。ない。
だから、もやもやが収まらない。
(続)
夏目漱石を読むという虚栄
~第二部と第三部の間
(8/12)「想像して見て」
まだ、もやもやする。
「僕が君の位置に立っているとすれば」なんてことを言う人は、逆に〈君が僕の位置に立っているとすれば〉なんてことを言いかねない。
<彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像して見(ママ)て下さい。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十六)>
〔2422 「恋の行く手」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2420 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
「私を想像して」は意味不明。したがって、この私には何も想像できない。
作者は、Sを「想像して」いない。行き詰まったのだ。想像できなくなって、意味不明の「私を想像して見て」によって防衛し、自分には想像できない物語を読者が忖度してくれるように仕向けている。丸投げだよ。〔6223 困難な‐恋愛小説 〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 6220 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
ここで、あなたが〈「私」の気持ち「を想像して」〉と補填したとしよう。そして、Sの気持ちを立派に想像できたとしよう。そのとき、あなたは〈語り手Sより自分の方が日本語の使い手として達者だ〉と自負したことになる。では、さらに、〈文豪より自分の方が日本語の使い手として達者だ〉と自負できるのか。できるのなら、あなたは超文豪で、『こころ』以上の名作をすでに執筆しているはずだ。
〈自分はSより上で、Nより下だ〉と思う人は、Nに誑されたのだ。責任はNにだけあるのではない。誑かされる方にも責任がある。
<Kの話が一通り済んだ時、私は何とも云う事が出来ませんでした。此方(こっち)も彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか。私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も云えなかったのです。又云う気にならなかったのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十六)>
作者は「何事も」書くことができなかったのだろう。「同じ意味の自白」を想像することが、作者にはできない。Kの「切ない恋」について想像することができないからだ。作者は、Sの恋の物語が描けないので、Kの恋の物語で代用しようとしたが、それさえも描けず、墓穴を掘っている。そうだという証拠はないが、そうではないという証拠もなかろう。ありもしない物語を「想像して見て」と、作者は読者に強要しているわけだ。
「切ない恋」と「殆ど信仰に近い愛」(下十四)は「同じ意味」か。〔2353 「信仰に近い愛」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2350 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
「自白」あるいは「打ち明けずにいる方」というのは、二者択一のようだが、違う。二者択一なら、「自白」あるいは〈作り話〉だろう。Sは作り話さえ思いつかなかった。いや、思いつかなかったのは作者だろう。「自白」の中身が、作者には想像できない。あるいは、想像したくなかった。語られるSが苦悩しているのではない。語り手Sが苦労しているのでもない。作者が苦悶しているのだ。Nは文芸に見せかけて自他を韜晦している。夏目宗徒は、こうした誤魔化しを卓越した才能の表れか何かと勘違いしている。
「云う気にならなかった」という文は、「云え」る場合にしか意味がない。つまり、「云えなかった」という場合には無意味だ。
作者は、恋について考えたくなかった。Kの恋、Sの恋。それらだけではない。どんな恋についても、考えたくなかった。Nに恋愛体験がなかったからかもしれない。だが、どんな事柄にせよ、体験がなくても想像するのが創作家の仕事だろう。
『こころ』の核心であるはずの〈静とSの恋物語〉は語られない。〈少女静と学生Sは愛し合っていた〉という物語はない。「恋」という文字があるだけで、恋の物語はない。恋の雰囲気さえない。そのことに気づかない人は読みが浅過ぎる。
(9/12)とんでもない誤読
なぜ、私はだらだらと書き続けているのか。
今の私が知ったかぶりを読者として想定しているからだ。
「受け入れる事」(下二)が意味不明だということ。これが説明できるようになるまで、私は四苦八苦していた。〔2142 「受け入れる事」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2140 - ヒルネボウ (goo.ne.jp) そのときまで、私は思わせぶりなだけで意味不明のNの言葉を「受け入れる事」のできる人、〈自分には、少なくとも自分だけにはできる〉と信じている人、すなわち夏目宗徒を、読者として想定していた。
しかし、彼らを相手にするのは諦めることにした。無理だとわかったからだ。彼らに日本語は、私が日本語だと思っている言葉は、通じない。そのことを確信した。だから、諦めることができた。
再び、私は諦めたい。知ったかぶりを読者として想定することを諦めたい。
夏目宗徒は、〈「受け入れる事」のできる人〉は選民か何かだと考えている。その考えには一理ある。一方、知ったかぶりは、〈「受け入れる事」は容易だ〉と勘違いしている。高卒程度の日本語の知識と凡庸な想像力さえあれば〈「受け入れる事」は容易だ〉と勘違いしている。とんでもない誤読だ。彼らは、文豪の苦悩や狂気や隠蔽などについて想像することができない。こんな人を読者として想定していたら、きりがない。伝えなければならないことが膨大にある。しかも、伝えたことさえ、彼らは誤解し、あるいは忘失する。面倒くさい。息苦しいほどだ。だから、私は彼らを切り捨てたい。そのために、今、書いている。
Nのスタイルに対して、良くも悪くも〈普通じゃないな〉と思わない人に、何を言っても無駄だ。〈独特の名文〉とも思わず、〈奇妙な悪文〉とも思わず、Nのスタイルをそこらのわかりやすいだけで無益で無害な通俗作家のスタイルと区別できないような人を相手にするのは、時間と労力の無駄遣いだ。
<「では、社長のつごうを聞いてみますから、どんなことかおっしゃって下さい」
「では、話そう。まちがえるといけないから、メモを取ってくれ、いいか。わたしはな、社長の大学時代の親友の妹の初恋の相手のおやじだ。そう言えば、わかるはずだ」
受付けの女性は妙な顔をしながら、いちおう社長に電話連絡をした。
(星新一『あるシステム』*)>
「妙な顔」をするのが普通だろう。ところが、知ったかぶりは〈「受付けの女性」は頭が悪い〉と思う。そして、「初恋」の物語を連想して悦に入る。私は、こうした知ったかぶりを、私の読者として想定したくないのだ。
夏目宗徒みたいな捻くれ者の場合だと、「妙な顔」をしつつも、〈「初恋」には深い意味があるのだろう〉と考え、その意味を妄想する。こういう連中を私の読者として想定することは、困難だ。想定したくないのではなくて、想定できない。一方、知ったかぶりの連想なんか、簡単に忖度できる。そんなのに構っていたら、きりがない。だから、私の読者として想定したくないのだ。
同じ〈妙〉でも、奇妙と絶妙は違う。私はNのスタイルを奇妙だと思う。夏目宗徒は『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などを軽妙、『草枕』などを巧妙、『こころ』などを絶妙と買い被るのだろう。どうでもいい。重要な問題は、〈妙と思うか否か〉だ。〔1111 〈意味〉の意味〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 1110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
連想が自慢で妙な表現を妙だと思うセンスのない君達よ。今、私は、君達に理解してもらいたくて書いているのではないよ。君達を排除するために書いているのだ。散れ。
*星新一『ご依頼の件』(新潮文庫)所収。
(続)