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夏目漱石を読むという虚栄 ~第二部と第三部の間 (8/12)「想像して見て」 (9/12)とんでもない誤読

2024-01-02 00:27:10 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

     ~第二部と第三部の間

(8/12)「想像して見て」

まだ、もやもやする。

「僕が君の位置に立っているとすれば」なんてことを言う人は、逆に〈君が僕の位置に立っているとすれば〉なんてことを言いかねない。

 

<彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像して見(ママ)て下さい。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十六)>

 

〔2422 「恋の行く手」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2420 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

「私を想像して」は意味不明。したがって、この私には何も想像できない。

作者は、Sを「想像して」いない。行き詰まったのだ。想像できなくなって、意味不明の「私を想像して見て」によって防衛し、自分には想像できない物語を読者が忖度してくれるように仕向けている。丸投げだよ。〔6223 困難な‐恋愛小説 〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 6220 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

ここで、あなたが〈「私」の気持ち「を想像して」〉と補填したとしよう。そして、Sの気持ちを立派に想像できたとしよう。そのとき、あなたは〈語り手Sより自分の方が日本語の使い手として達者だ〉と自負したことになる。では、さらに、〈文豪より自分の方が日本語の使い手として達者だ〉と自負できるのか。できるのなら、あなたは超文豪で、『こころ』以上の名作をすでに執筆しているはずだ。

〈自分はSより上で、Nより下だ〉と思う人は、Nに誑されたのだ。責任はNにだけあるのではない。誑かされる方にも責任がある。

 

<Kの話が一通り済んだ時、私は何とも云う事が出来ませんでした。此方(こっち)も彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか。私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も云えなかったのです。又云う気にならなかったのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十六)>

 

作者は「何事も」書くことができなかったのだろう。「同じ意味の自白」を想像することが、作者にはできない。Kの「切ない恋」について想像することができないからだ。作者は、Sの恋の物語が描けないので、Kの恋の物語で代用しようとしたが、それさえも描けず、墓穴を掘っている。そうだという証拠はないが、そうではないという証拠もなかろう。ありもしない物語を「想像して見て」と、作者は読者に強要しているわけだ。

「切ない恋」と「殆ど信仰に近い愛」(下十四)は「同じ意味」か。〔2353 「信仰に近い愛」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2350 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

「自白」あるいは「打ち明けずにいる方」というのは、二者択一のようだが、違う。二者択一なら、「自白」あるいは〈作り話〉だろう。Sは作り話さえ思いつかなかった。いや、思いつかなかったのは作者だろう。「自白」の中身が、作者には想像できない。あるいは、想像したくなかった。語られるSが苦悩しているのではない。語り手Sが苦労しているのでもない。作者が苦悶しているのだ。Nは文芸に見せかけて自他を韜晦している。夏目宗徒は、こうした誤魔化しを卓越した才能の表れか何かと勘違いしている。

「云う気にならなかった」という文は、「云え」る場合にしか意味がない。つまり、「云えなかった」という場合には無意味だ。

作者は、恋について考えたくなかった。Kの恋、Sの恋。それらだけではない。どんな恋についても、考えたくなかった。Nに恋愛体験がなかったからかもしれない。だが、どんな事柄にせよ、体験がなくても想像するのが創作家の仕事だろう。

『こころ』の核心であるはずの〈静とSの恋物語〉は語られない。〈少女静と学生Sは愛し合っていた〉という物語はない。「恋」という文字があるだけで、恋の物語はない。恋の雰囲気さえない。そのことに気づかない人は読みが浅過ぎる。

 

(9/12)とんでもない誤読

なぜ、私はだらだらと書き続けているのか。

今の私が知ったかぶりを読者として想定しているからだ。

「受け入れる事」(下二)が意味不明だということ。これが説明できるようになるまで、私は四苦八苦していた。〔2142 「受け入れる事」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 2140 - ヒルネボウ (goo.ne.jp) そのときまで、私は思わせぶりなだけで意味不明のNの言葉を「受け入れる事」のできる人、〈自分には、少なくとも自分だけにはできる〉と信じている人、すなわち夏目宗徒を、読者として想定していた。

しかし、彼らを相手にするのは諦めることにした。無理だとわかったからだ。彼らに日本語は、私が日本語だと思っている言葉は、通じない。そのことを確信した。だから、諦めることができた。

再び、私は諦めたい。知ったかぶりを読者として想定することを諦めたい。

夏目宗徒は、〈「受け入れる事」のできる人〉は選民か何かだと考えている。その考えには一理ある。一方、知ったかぶりは、〈「受け入れる事」は容易だ〉と勘違いしている。高卒程度の日本語の知識と凡庸な想像力さえあれば〈「受け入れる事」は容易だ〉と勘違いしている。とんでもない誤読だ。彼らは、文豪の苦悩や狂気や隠蔽などについて想像することができない。こんな人を読者として想定していたら、きりがない。伝えなければならないことが膨大にある。しかも、伝えたことさえ、彼らは誤解し、あるいは忘失する。面倒くさい。息苦しいほどだ。だから、私は彼らを切り捨てたい。そのために、今、書いている。

Nのスタイルに対して、良くも悪くも〈普通じゃないな〉と思わない人に、何を言っても無駄だ。〈独特の名文〉とも思わず、〈奇妙な悪文〉とも思わず、Nのスタイルをそこらのわかりやすいだけで無益で無害な通俗作家のスタイルと区別できないような人を相手にするのは、時間と労力の無駄遣いだ。

 

<「では、社長のつごうを聞いてみますから、どんなことかおっしゃって下さい」

「では、話そう。まちがえるといけないから、メモを取ってくれ、いいか。わたしはな、社長の大学時代の親友の妹の初恋の相手のおやじだ。そう言えば、わかるはずだ」

受付けの女性は妙な顔をしながら、いちおう社長に電話連絡をした。

(星新一『あるシステム』*)>

「妙な顔」をするのが普通だろう。ところが、知ったかぶりは〈「受付けの女性」は頭が悪い〉と思う。そして、「初恋」の物語を連想して悦に入る。私は、こうした知ったかぶりを、私の読者として想定したくないのだ。

夏目宗徒みたいな捻くれ者の場合だと、「妙な顔」をしつつも、〈「初恋」には深い意味があるのだろう〉と考え、その意味を妄想する。こういう連中を私の読者として想定することは、困難だ。想定したくないのではなくて、想定できない。一方、知ったかぶりの連想なんか、簡単に忖度できる。そんなのに構っていたら、きりがない。だから、私の読者として想定したくないのだ。

同じ〈妙〉でも、奇妙と絶妙は違う。私はNのスタイルを奇妙だと思う。夏目宗徒は『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などを軽妙、『草枕』などを巧妙、『こころ』などを絶妙と買い被るのだろう。どうでもいい。重要な問題は、〈妙と思うか否か〉だ。〔1111 〈意味〉の意味〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 1110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

連想が自慢で妙な表現を妙だと思うセンスのない君達よ。今、私は、君達に理解してもらいたくて書いているのではないよ。君達を排除するために書いているのだ。散れ。

 

*星新一『ご依頼の件』(新潮文庫)所収。

(続)

 


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