ヒルネボウ

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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 25 五月雨館

2021-11-13 16:57:14 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

               25 五月雨館

孤独を愛する男女だけが五月雨館の会員になれる。会員たちは話をしない。顔見知りでも挨拶をしない。目が合わせることもない。目が合えば、反射的に逸らす。足音は厚い絨毯が吸い込んでくれる。咳をしただけでロボットに連れ出される。

椅子と椅子の間には、どかっと物が置いてある。鉢植えの観葉植物、難破船の船首、等身大の人魚の彫像、錆びた榴弾砲、抱いて乗ると楽しい浮き袋の鰐、レコード抜きのジュークボックス、摩耗したタイヤなど。

孤立と孤独は違う。孤立者には厳しい義務が課される。あるいは、異星人が憑依する。孤独者は自由だ。五月雨館の人々は、自分が自由であることを確かめるために、ここで憩う。

元刑事は会員になれない。館に入ることはおろか、門前に佇むことさえできない。その理由を、彼は知らない。知りたいとも思わない。彼は館の向かいに部屋を借り、出入りする人々を観察してきた、何日も、何か月も。やがて一人の男に関心を抱くようになる。そいつが箱のような本を携えていたからだ。あるいは、本のような箱。彼を、元刑事は容疑者と呼んだ。誰かを容疑者と呼びたくてならなかった。

箱の中に何が入っているのか。刃物か。拳銃か。毒薬か。本の中に何が書かれているのか。社会秩序を軽んじる哲学か。現生人類を減らす技術か。受験勉強を怠る物語か。

容疑者は生き抜くために必要不可欠だ。容疑者、あるいは餌食。

元刑事は、ときどき、古い夢を思い出す。黒い沼があり、そこに彼は浸かっていた。何かが沼を跳び越える。彼はそこから出られない。泥が水飴のように粘る。怒りと苦しみと恐れなどがごっちゃになって、彼を動けなくさせている。鰐は自分の上を越えて行く物体に向って跳ねた。餌食があるから跳ねることができた。鰐は何かに噛みついた。その瞬間、たとえようもない心地よさを覚えた。最初で最後の体験。その未明の屈辱と快楽を、彼は忘れられない。最高の快楽と最低の屈辱。

再び跳ねるために、元刑事は容疑者を尾行し続けた。何日も、何か月も。容疑者に不審な点はなかった。だが、そのせいで元刑事の好奇心は燃え上がった。誰にだって不審な点はあるものだ。ところが、あいつにはそれがない。おかしい。後ろめたいことがなくても秘密めかすのが紳士淑女のマナーだろう。

夏が終わろうとする頃、元刑事は容疑者が女と歩いているのを目撃した。驚くべきことだ。孤独を愛するはずの男が人と歩くとは。しかも、相手は女だ。

容疑者は彼女と別れた後、裏通りに入った。高い部屋の窓に明かりが点いたとき、彼は小さく呻いた。元刑事だからこそ聞き取れたのだ。その声は言葉のようであり、名前のようでもあった。その名前には聞き覚えがあった、何となく。名前ならば、だが。

容疑者を睨みながら街路樹に凭れ、元刑事は懐の手帳を探った。金曜日の夜のことだ。下風が襟を立てた。

(終)

 


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