夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」「人間に対するこの覚悟」
3430 「己れ」について
3431 『プライドと偏見』
「覚悟」宣言の「己れ」は、漠然としすぎている。プラスの価値の漢語では、〈自負・自尊・自信〉などが思い浮かぶ。マイナスなら、〈利己・我利・私心〉など。
<玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我(が)は愛を八つ裂(ざき)にする。面当(つらあて)はいくらもある。貧乏は恋を乾(ひ)干(ぼし)にする。富貴(ふうき)は恋を贅沢(ぜいたく)にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏み付ける。尖(とが)る錐(きり)に自分の股(もも)を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己が尤(もっと)も価(あたい)ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我も立てば、虚栄の市にわが命さえ屠(ほふ)る。逆(さか)しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は我(プライド)! 我(プライド)! と叫ぶ。――藤尾は俯向ながら下唇(したくちびる)を噛んだ。
(夏目漱石『虞美人草』十二)>
何やら大変なことになっているらしいが、意味不明。
〈我(が)〉はマイナスの価値で用いられることが多い。〈我を殺す・我を立てる・我を張る〉などと、「ひとりよがり」(『広辞苑』「我」)といった意味で用いられる。当然、〈無我〉はプラスの価値になる。〈無我夢中〉など。
『虞美人草』の語り手は、「プライド」をマイナスの価値で用いている。カタカナ語の「プライド」は、昭和までマイナスの価値で用いられていたようだ。古い日本人は、〈自慢は傲慢〉と考えたようだ。そうした雰囲気が少しずつ変わってきた。今井美樹の『PRIDE』(布袋寅安泰作詞・作曲)は、〈プライド〉の価値をマイナスからプラスに変えた。
『細雪』(谷崎潤一郎)の原典である『自負と偏見』(オースティン)は、『高慢と偏見』とも訳されている。どちらが正しい訳だろう。映画の邦題は『プライドと偏見』(ライト監督)になっている。配給会社は、「自負」か、「高慢」か、決めかねたらしい。
<田舎の中産階級一家の娘たちの結婚問題をめぐって、社交や恋愛にからまる男の自負心や女の偏見など、さまざまな心理のもつれが織りなすあやを繊細的確な筆致で描く。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「自負と偏見」)>
男は女に「偏見」を捨てさせようとする。その過程で、男の「高慢」が「自負」へと洗練される。女は、彼の「高慢」の本体が「自負」であることを薄々感じ取っていたが、明確に自覚してはいなかった。感じ取ることができたのは、愛の力による。
Nの小説の男たちは傲慢だ。その裏に高貴な精神を透視するよう、作者は読者に求めているのかもしれない。
「夏目漱石(そうせき)は「則天去私」の作品例として、この作品を推している」(『ニッポニカ』「自負と偏見」榎本太)という。「則天去私」の出典は不明。「私」を「私心」(『日本国語大辞典』「則天去私」)と解釈するのが定説らしい。「私心」は「己れ」の同義語か。「創作上、作家の小主観を挟まない無私の芸術を意味したものだとする見方もある」(『広辞苑』「則天去私」)とか。何が何やら。もう、いや。
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3430 「己れ」について
3432 利己主義と利他主義
「己れ」は「our own egoistical selves」(”KOKORO“)と英訳されている。「利己心」と同じような意味の英語か。
<さらに倫理学説として普遍化されれば、各人が自己の利益だけを追求する結果、主張者の利益にならないという現実の矛盾に陥り、普遍的な格率とはなりにくい。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「利己主義」杖下隆英)>
「各人」は、どうでもいい。「利己主義」の「主張者」ではなく実践者を、人々はハブにする。だから、「結果」として当人は損をすることになる。普通にものを考えられる人なら、利己主義者ではないように振舞うものだ。こんなことを書く必要があるのか?
<さらに、各人が自分のことをまったく考えず、他人のためばかりを考えれば、自己完成の努力を怠り、また他人に深情けをかけることになって、かえって迷惑を及ぼすことにもなるから、規範的にも普遍的格率とはなりにくい。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「利他主義」杖下隆英)>
「他人のためばかりを考えれば」臓器提供などをやって、すぐに死んでしまう。生きている人の生き方の基本は利己的に決まっている。〈捨身飼虎〉だって、虎に会う前に捨身の機会がいくらでもありそうなものだ。
<代助は昔の人が、頭脳が不明瞭(ふめいりょう)な所から、実は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の為と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、その結果遂に相手を、自分の思う通りに動かし得たのを羨(うらや)ましく思った。
(夏目漱石『それから』十三)>
「昔の人」は、かつての代助でもある。
<それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神の御前にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまた、その神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』「九 ジョバンニの切符」)>
利他主義者を装う「わたくし」は「家庭(かてい)教師(きょうし)」で、「この方たち」は彼の生徒。彼は生徒たちに対する愛憎などを自他に対して隠蔽している。作者は隠蔽工作に加担している。
『タイタニック』(キャメロン監督)参照。
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3433 許容使役
「覚悟」宣言の全文。
<「かつてはその人の膝(ひざ)の前に跪(ひざま)ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥(しり)ぞけたいと思うのです。私は今より一層淋(さび)しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れ(ママ)に充(み)ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟を有(も)っている先生に対して、云うべき言葉を知らなかった。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十四)>
〈「かつてはその人の膝(ひざ)の前に跪(ひざま)ずいた」には、〈「今度はその人」を跪かせる〉といった含意がある。「その人」は唐突。「その人の膝(ひざ)の前に跪(ひざま)ずいた」という部分は、「遺書」では「彼の前に跪(ひざ)まずく事を敢(あえ)てした」(下二十二)となっている。「彼」はKだ。青年Sは、いやいやながらKに従った。だから、やがて悔しくなった。ただし、「遺書」の語り手Sは、そのようには語らない。〈Sの「記憶」がSの「足」をKの「頭」に「載せさせ」る〉は意味不明。「させようとする」のなら、まだ「載せ」ていない。
「覚悟」は〈諦念と呪詛〉などが適当だろう。
<「花子は風で帽子を飛ばしてしまった」とか「花子は交通事故で息子を死なせてしまった」といったタイプの使役構文の場合も、何もしないことを行為として捉えて、「飛ばした」や「死なせた」という表現を用いていると考えられます。
主体が何もしないことによって結果を引き起こす場合は、「許容使役構文」と呼ばれます。より正確に言うなら、「ある事態が生じることを抑止する力のある人がその抑止力を行使せず、その結果その事態が生じた」という場合です。
(西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』における西村の発言)>
本文の「載せ」は許容使役のようだ。ただし、本人の「記憶」は、「風」や「交通事故」とは性質が違う。「記憶」が本人から独立したDとなり、外部にあるようなら、許容使役だろう。「跪(ひざま)ずいた」は、〈「跪(ひざま)ず」かさせられて「いた」〉などの不当な略だろう。Dによる使役の印象を隠蔽しようとして、Sの言葉はぎこちなくなったようだ。
「未来の侮辱」をSに加えるのはPだ。だから、「今の尊敬」は芝居だ。つまり、Sの空想するPは、Sの慈愛か何かと自分の「尊敬」を交換しようとしている。Sは慈愛などを与えられないから、PはやがてSを恨むようになる。そういう息苦しい話だ。
「自分を我慢し」は意味不明。「我慢したい」の含意は〈「今」は「我慢し」ていない〉だ。
「己れ」とは〈「自分」の気分〉のことだろう。つまり、〈「我慢し」なければならないのに、できないでいるときの「自分」の気分〉など。
Sは、〈私は被愛願望の充足を期待しないぞ〉と、Dを脅しているらしい。
(3430終)