夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3420 「独立」について
3421 「インデペンデント」
「自由」が他への過干渉のことだとすると、「独立」は他の「自由」に対する〈反抗〉か。この場合、「自由」と「独立」は、類義語ではない。反義語だ。
<子供の内は親のいうことばかり聞いておっても、段々一人前(いちにんまえ)になって来るとインデペンデントというものは自然に発達して来(ママ)る。
(夏目漱石『模倣と独立』)>
この「インデペンデント」は〈インデペンデンス〉が適当のようだ。「段々一人前(いちにんまえ)になって来る」と「インデペンデントというものは自然に発達して来る」は同義だろう。
<心の発達はそのインデペンデントという向上心なり、自由という感情から来るので、われわれもあなた方もこの方面に修養する必要がある。
(夏目漱石『模倣と独立』)>
この場合、「自由」と「「独立」は類義語になる。
「修養する必要がある」は、先の「自然に発達して来る」と矛盾するようだ。
<インデペンデントの資格を持っておって、それを抛(ほう)って置(ママ)くのは惜しいから、それをもっている人はそれを発達させて行(ママ)くのが、自己のため日本のため社会のために幸福である。こういうのです。
(夏目漱石『模倣と独立』)>
「資格」は意味不明。誰が「資格」を与えるのか。「惜しい」と思うのは「資格」を与えた人か。不明。「自己」と「日本」と「社会」を並べるのは奇妙だ。
<全国人民の間に一片の独立心あらざれば文明も我国の用を為さず、
(福澤諭吉『文明論之概略』「巻之六 第十章 自国の独立を論ず」)>
意味不明。
<彼らは、たとえ自由が世界中から完全に失われたとしても、みずからの精神においてそれを想像し、感じとり、さらにはそれを味わうだろう。そして隷従は、いくら装飾されたものであったとしても、彼らにとってはいかなる魅力もないものとなる。
(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』)>
Nは「模倣」と「隷従」を混同しているらしい。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3420 「独立」について
3422 傲慢
「独立」のS的意味は〈傲慢〉などかもしれない。普通は嫌がられる。
<しかしこういう風にインデペンデントの人というものは、恕すべく或時は貴(たっと)むべきものであるかも知(ママ)れないけれども、その代りインデペンデントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけならば、徒(いたずら)らにインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけで、成功はとても出来ないからである。
(夏目漱石『模倣と独立』)>
「背景」は、「あなたの考えには何等の背景もなかったし」(下二)というSの言葉に含まれたそれと同義だろう。プラスの価値の「インデペンデントの精神」の裏にマイナスの価値の「明治の精神」を想定せねばならないのかもしれない。つまり、「明治の精神」はSの言う「現代に生れた我々」に「弊害を与えるだけ」のものだろう。「だけ」は余計か。
<けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受取る時に躊躇(ちゅうちょ)するだろうと思ったのです。彼はそれ程独立心の強い男でした。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十三)>
「躊躇(ちゅうちょ)する」にしても結局「受取る」のなら、あまり「独立心の強い男」ではなさそうだ。むしろ、躊躇しない方が変わっている。この「独立心」は皮肉っぽい。
<客。僕は子供の時に讀まされたことがあるが、怪しからん本だ。ロビンソン・クルソオと云ふ男は、航海がしたいと云ふので、兩親が泣いて留めるのを聴かずに、家を飛び出す。不孝ではないか。夫から無人島に漂泊する。單身で、人の助を借らずに、物を食つたり、着物を着たり、家に住まつたりする樣になる。フライデエと云ふ黑ん坊を摑まへて、共同生活のやうな事を始める。そのうち舟に助けられて國へ歸る。その間、人の助を借らずに、自活したのを得意としてゐるらしい。そんな事がなんになるのか。人間は親があつての子である。先祖があつての子孫である。國家があつての臣民である。家族や國家を離れて生活したつて、そんな生活はなんの價値もない。その價値のない生活をしてゐる間、本國たる英國政府に對する、あらゆる義務を果さずにゐる。不忠ではないか。
(森鴎外『ロビンソン・クルソオ』)>
これは、森の意見ではない。森が想定している「客」のものだ。「客」は、〈反社会的〉と〈反国家的〉を混同しているらしい。あるいは、〈反政府的〉とも。
ちなみに、ロビンソン・クルーソーのモデルになったアレクサンダー・セルカークを、森は擁護しないかもしれない。『実録ロビンソン』(ルーズ)参照。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3420 「独立」について
3423 「オリヂナル」
「インデペンデント」と並んで「オリヂナル」という言葉が出てくる。
<日露戦争というものは甚(はなは)だオリヂナルなものであります。インデペンデントなものであります。あれをもう少し遣っておったならば負けたかも知(ママ)れない。宜(よ)い時に切り上げた。その代り沢山金は取れなかった。けれどもとにかく軍人がインデペンデントであるということはあれで証拠立てられている。西洋に対して日本が芸術においてもインデペンデントであるという事ももう証拠立てられて可(よ)い時である。日本は動(やや)もすれば恐(きょう)露病(ろびょう)に罹(かか)ったり、支那のような国までも恐れているけれども、私は軽蔑している。そんなに恐し(ママ)いものではないと思っている。
(夏目漱石『模倣と独立』)>
「戦争」について「オリヂナル」という言葉を用いるのは、「甚(はなは)だ」不適切だろう。しかも、戦術などに対する評言ではないから、意味不明。
「インデペンデント」と「オリヂナル」が同義語なら、夏目語の「独立」は〈独創〉の類語か。かなり無理がありそうだ。
「負けたかも知れない」のなら、「オリヂナル」も何もなかろう。
「金」は〈賠償金〉のこと。
「軍人」と並べるのなら、「芸術」は〈「芸術」家〉などが適当。「戦争」と「芸術」を並べるのは不適切。軍楽、戦争画、戦争文学、戦争映画などがある。国会前で、石田純一は「戦争は文化じゃない」と叫んだが、彼は『カウラ大脱走』という戦争ドラマに出ている。
「恐(きょう)露病(ろびょう)」は「当時自然主義を奉ずる者の間に、ロシア文学かぶれの風が強かったのを揶揄して言う」(岩波文庫『漱石文明論集』注解)ということだが、「恐」の意味がわからない。
「支那の国」は、〈近代の「支那の国」の「芸術」〉の略か。あるいは、〈「支那の国」の「軍人」〉の略か。他にも考えられるが、とにかく、意味不明。「軽蔑して」いるのは露西亜か、ロシア近代文学か、清国か。不明。
「恐しい」は意味不明。
<東京日比谷公園の国民大会は賠償金のないことなどを不満とする国家主義者の指導に始まったが、戦争による生活苦にあえぐ民衆は条約破棄を叫んで暴徒化し、内相官邸・警察署・交番・政府系新聞社を襲った。政府は戒厳令をしいて軍隊を出動させ鎮圧した。しかし、暴動は横浜・名古屋・大阪・神戸など各地に波及した。
(『日本史事典』「日比谷焼打ち事件」)>
「日比谷焼打ち事件」の暴徒は、「インデペンデント」あるいは「オリヂナル」か。
この事件は、「大正デモクラシーの都市民衆運動の起点となった」(『山川 日本史小辞典』「日比谷焼打事件」)という。
(3420終)