耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

孤高の人“竹林伸幸”~あなたに出会えてよかった!

2009-06-13 11:59:48 | Weblog
 畏友“竹林伸幸”さんが亡くなった。(それも一年半ほど前に!事情は後で述べる)

 “竹林伸幸”と言ってもご存知の方は少ないだろうが、関西を中心に、広島、長崎、沖縄では「反戦平和の闘士」としてその姿を目にされた人も多かろう。

 昨日、かつての組合運動仲間 I.Y 君から「竹林さんが亡くなったの知っとるネ?」と電話があった。「やっぱり、そうだったか」と、この一年有半、彼の消息が絶えていた理由を納得した。I.Y 君が「ネット検索で偶然知った」と言うので、“竹林伸幸”を検索するとトップの「関西共同行動ホームページ」2008年3月1日付、急報記事として竹林さんの死亡を知らせている。


 竹林さんは、精神の所在がどこか“種田山頭火”に似ていたような気がする。一本道をわき目もふらず歩き続けた孤高の人だった。四国・丸亀の旧家の出で、1966年、高松市の栗林公園会館で挙行された彼の結婚式に出席したのは、親族以外では私ぐらいだったろう。それだけに彼の訃報には感慨常ならぬものがある。

 出会いは東京オリンピックがあった1964年6月、私が佐世保重工労働組合から造船総連中央執行委員に選出された年である。その頃、佐世保重工本社は東京丸の内の「新丸ビル」9階にあったが、本社支部労働組合に赴任の挨拶に行った時の支部書記長が竹林さんだった。委員長はのちに香港所長を最後に退社し、今も交友のある大阪在住の Y さん。大卒ばかりの執行部で、ほとんどの人が管理職になったが、竹林さんは例外の道を歩んだ。その端緒を、拙著『労働組合は死んだ』(文芸社:1999刊)に私はこう書いている。多少長くなるが、彼の人生の岐路を知る手がかりとして、関連全文を記しておく。

 
 <京都大学経済学部を出た竹林伸幸は、4年前の74年8月行なわれた組合役員選挙で突然、委員長に立候補して組合員を愕かせた。愕いたのは組合員ばかりではない。執行部はもちろん会社も慌てた。学卒者が組合役員に立候補した例がなかったからである。
 彼はかつて東京本社にいた時、佐世保重工労働組合本社支部の書記長をしていた。64年夏季一時金交渉がねじれ組合がストに突入した時、彼らは初めてのストを東京ステーションホテルの一室に陣取って指揮していたが、この年造船総連中執になったばかりの私は、組合本部の要請で支部オルグに入り、二人の交友はそれ以来である。私が造船総連から職場復帰した70年に、偶然、彼も佐世保造船所勤務となり、彼が創設した[中国語同好会]のメンバーにも加わっていた。

 職場復帰してすぐの組合役員選挙に立候補した私は、思いがけない誹謗中傷に見舞われる。
 “香月(注:私のペンネーム)の嬶は中国人!”
 “香月は毛沢東主義者!”
 “赤色労働組合主義者に組合を渡すな!”
 職場で「赤攻撃」が組織的に登場したのはこの時がはじめてである。“嬶が中国人”というのは、私の妻が中国から帰還してまだ日が浅く、日本語が十分でなかったことからきていた。当時、中国の文革は終息しておらず、こうしたレッテルは穏健中道を「伝統」とする組織ではきわめて有効な礫(つぶて)であった。組合が労使癒着を強め、反執行部とみなす者への卑劣な攻撃を加えるなかで、[中国語同好会]を通じ竹林や元中国解放軍兵士の長谷部忠雄らとの親密な関係が深まっていた。それにしても、竹林が会社幹部への道を捨てて組合役員に転進しようとは想像できないことであった。

 無名の新人竹林の出現は、執行部に対し鬱屈した心情を抱いていた組合員に新鮮な驚きをもって迎えられた。職場では竹林旋風が巻き起こり、選挙戦は優勢に推移していく。国松委員長は狼狽し、会社は慌てた。しかし、所詮、会社の組織力に敵うはずはなく敗退する。陰謀詭計渦巻く中で、それでも竹林が獲得した得票率は45%にのぼった。翌年早々、彼は「大阪営業所勤務を命じる」との辞令を受ける。会社の意図が本人の組合活動封じにあるとみた私たちは、本人が組合の苦情処理委員会に救済を申し立てたところ却下されたのをうけ、『竹林不当配転に反対する会』を結成して裁判所に「地位保全仮処分申請」を行なったが、“疏明なきこと”を理由に却下され、彼は最後の陳述書に、
  連帯を求めて孤立を恐れず
  力尽きて倒れるとも
  闘わずして屈することを拒否す
 との言葉を残して大阪へ去っていったのである。>(著書では仮名を使っているが、竹林のみ本名に変えた)

 
 大阪転勤後も、会社との対決は長く烈しく続く。佐世保重工が“坪内寿夫”に乗っ取られ、悪名高い「社内研修」を拒否(私と彼の二人だった?)して解雇処分を受けこれを提訴、90年7月、「解雇撤回、自主退職」の和解が成立して佐世保重工を去っている。その後、中国語翻訳業などをしながら「反戦平和」運動に没頭していたわけだ。

 彼との付き合いには語りつくせぬ想い出があるが、もう時効として許してもらえるはずの彼を偲ぶエピソードを一つだけ書いておく。

 
 およそ5年前の2004年8月、「長崎(原爆の日)の前に“佐世保行動”(日蓮宗日本山僧侶等と米軍基地への示威行動)をやるので会えないか」と連絡があった。元中国解放軍兵士で現在中国語通訳をしているかつての同志 H さんに連絡、私の家で会うことにした。広島では宿賃がなく野宿したという彼は、今日泊るところもないといいながら、「所持金はこれだけや」とポケットから千円あまりのバラ銭をテーブルの上に投げ出した。これから長崎、沖縄へ行くというのにあきれた話である。私が1万円、H さんが5千円をカンパ、当日はわが家に泊る。私の連れ合いが「洗濯物があれば出してください」というと、背嚢からごっそり出して渡す。明朝出発に間に合うようにコインランドリーで洗濯・乾燥。連れ合いが「時間があれば新しいのを買って持たせたのに」とあとで言っていたわけは、およそ見当がつくことだろう。「着たきり雀」で「行き当たりバッタリ」が彼の行動スタイルだった。

 
 運動面では一致できなかったものの、私の知る限り、彼ほど“純粋”な言行一致の思想家はいなかった。それだけに3,4年前、前立腺ガンを告白した彼の健康が気がかりだった。竹林さんは西宮に住んでいて、共通の友人である大阪の Y さん(かつての東京支部委員長)とはとくに親密で、昨年私は、Y さんとこんなメールのやりとりをしている。

・2008年4月27日「Y さんのメール」
 <昨日、竹林君のメールアドレスにメール送信するも、送信したメールには返送されてこないので、メールアドレスは維持されていると思うので、暫らく返信を待ちながら、マンションの管理人に連絡をとれるかトライしてみるつもりです。>

・2008年4月28日「私の返信」
 <竹林さんの件、メール拝見しました。ぼくも気がかりですので、よろしくお願い致します。>

・2008年5月3日「Y さんのメール」
 <今日、西宮の東雲マンション(管理人室が無いと分かったので)B棟201号を訪ねたところ、居住者から「昨年末に引越しされました」と確認。元気であったようで、少し安心したところです。>

・2008年5月3日「私の返信」
 <竹林さんの件、ご苦労様でした。安堵いたしました。何かお力添えできることがあれば申し付けて下さい。>

 竹林さんの死去が昨年1月27日(もしくは28日)とされているから、このメールのやりとり時にはすでに亡くなっていたことになる。昨日、Y さんに電話して彼の死を知っていたかどうか確認したら、「まったく知らなかった」と驚愕していた。Y さんは前立腺ガンを発症して16年になるが、竹林さんには「ガン先輩」としていろいろアドバイスをしていたらしい。


 子供や奥さんからも見放されつつ孤高の「闘い」を続けた彼だが、最後は奥さんに買い物を依頼し、身内で告別式も行われたらしいから、もって瞑すべしだろう。
ここには引用しないが、ネットでは彼の最後のメッセージ『ブッシュ大統領への手紙』がある。彼の思想の集大成かも知れない。


 竹林さん、あなたに出会えてよかった。お別れは言えなかったが、安らかに眠ってほしい。
                              合掌

 


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