古稀寸前にこの世を去った父より五歳も長く生き延び、当分、お迎えは来そうもない毎日を送っていると、時に、父や母のことを想い出す。あの謹厳な父の素顔を覗きみるような話が一つある。立ち会った伯母らから、父のエピソードとしてよく聞かされたものだ。
誕生時の体重が一貫目(3.75キロ)を超え、県の「赤ん坊大会」で三位になったという私は、疳の強い児だったらしい。歩き立ちが出来るようになって間もなく、テーブルの縁で額を打って泣き切り、息が出来なくなった。母はかねて聞き覚えの養生法を思い出し、梅酢を口に含んで鼻から吹き込んだ。それが気管に入って逆療法になり、まったく息をしなくなった。すぐ医者を呼びに使いを出す。伯母や母たちは仏前に灯明を上げ、「ナマンダブ、ナマンダブ」と唱える。駆けつけた医者が「これは難しい」と、いったん匙を投げたが、鼻からブツブツと小さい泡が噴出しはじめ、「おやッ、助かるか知れんぞ!」と新たな手当をはじめたという。この間、五十を過ぎた父は、納戸で蒲団をかぶって泣いていたらしい。
小学低学年の頃、悪さをして、ステッキを振り上げ怒り狂った父に追い回された記憶もあるが、私にとって究極の父は、「蒲団をかぶって泣いてくれる」人だった。
幾度か紹介した作家・森敦さんのエッセイ集『天に送る手紙』(小学館ライブラリー)に「人生の神仏」という一文がある。ここで森敦さんは“父”を見事に語っている。
<戦後、このごろの小学生は男の子でも、女の子と同様に運針や炊事を習うと聞いて、わが耳を疑ったことがある。ところが、いまでは共稼ぎが普通になり、単身赴任も常識のようになって来た。とすれば、男の子に女の子と同様運針や炊事を習わせたのは達見と言わねばならぬ。これが家庭生活を豊かにし、ほとんどの子供たちに高等教育を受けさせ、国の水準をも高からしめる原因になった。当然、主婦は単に女性といわるべきものに還元するが、女性は必ずしも主婦ではない。その矛盾をまともに受けるのは子供ではあるまいか。なぜなら、子供は矛盾なきものとして、主婦のものとして、主人のものとしてあるべきものであるからである。
わたしは幸いにして、共稼ぎや単身赴任をしなければならない家庭に育たなかった。しかし、母は懇請されて女学校に勤めなければならなくなった。父は左様なことを好む人ではない。さりとて、のっぴきならぬことを強いて拒む人でもなかった。母の勤めは女学校であるから、定刻に出て定刻に帰る。それでも、時には会議があるらしく、遅くなるときがないではない。
そんなときは必ず夕食の用意をして置いてくれる。母には夜食が出るから、わたしたちは先にすませて、わたしは寝る。ふと目を覚ますと、父は机に向かって書物を読んでいる。お母さんはまだ、とわたしは訊く。父は答える。もう校門を出たところだ。見えるだろう。ふとまた目を覚まして、お母さんはまだと訊く。父は答える。もう電車に乗ってるよ。見えるだろう。ふとまた目を覚まして、お母さんはまだと訊く。父は答える。もうすぐだよ、電車を降りたから、見えるだろう。わたしはほんとうに眠る。ほんとうに眠って目を覚ますと、母はほんとうにいるのである。神仏はいつもそのようにして現れて来ると思うようになった。もしそのとき、ほんとうに母がいなかったとしたら、わたしは後々人生で、神仏を失ったかも知れない。>
当たり前のことだが、父と母が存在しなければ私はいない。私の存在はさらに、二人の祖父と二人の祖母へさかのぼり、未生の過去を遍歴する。不思議としか言いようのない「存在」の背後に、“神仏”がましますわけだ。父や母への思いが、神仏を見失わない手立てになっていることを、森さんは教えている。
誕生時の体重が一貫目(3.75キロ)を超え、県の「赤ん坊大会」で三位になったという私は、疳の強い児だったらしい。歩き立ちが出来るようになって間もなく、テーブルの縁で額を打って泣き切り、息が出来なくなった。母はかねて聞き覚えの養生法を思い出し、梅酢を口に含んで鼻から吹き込んだ。それが気管に入って逆療法になり、まったく息をしなくなった。すぐ医者を呼びに使いを出す。伯母や母たちは仏前に灯明を上げ、「ナマンダブ、ナマンダブ」と唱える。駆けつけた医者が「これは難しい」と、いったん匙を投げたが、鼻からブツブツと小さい泡が噴出しはじめ、「おやッ、助かるか知れんぞ!」と新たな手当をはじめたという。この間、五十を過ぎた父は、納戸で蒲団をかぶって泣いていたらしい。
小学低学年の頃、悪さをして、ステッキを振り上げ怒り狂った父に追い回された記憶もあるが、私にとって究極の父は、「蒲団をかぶって泣いてくれる」人だった。
幾度か紹介した作家・森敦さんのエッセイ集『天に送る手紙』(小学館ライブラリー)に「人生の神仏」という一文がある。ここで森敦さんは“父”を見事に語っている。
<戦後、このごろの小学生は男の子でも、女の子と同様に運針や炊事を習うと聞いて、わが耳を疑ったことがある。ところが、いまでは共稼ぎが普通になり、単身赴任も常識のようになって来た。とすれば、男の子に女の子と同様運針や炊事を習わせたのは達見と言わねばならぬ。これが家庭生活を豊かにし、ほとんどの子供たちに高等教育を受けさせ、国の水準をも高からしめる原因になった。当然、主婦は単に女性といわるべきものに還元するが、女性は必ずしも主婦ではない。その矛盾をまともに受けるのは子供ではあるまいか。なぜなら、子供は矛盾なきものとして、主婦のものとして、主人のものとしてあるべきものであるからである。
わたしは幸いにして、共稼ぎや単身赴任をしなければならない家庭に育たなかった。しかし、母は懇請されて女学校に勤めなければならなくなった。父は左様なことを好む人ではない。さりとて、のっぴきならぬことを強いて拒む人でもなかった。母の勤めは女学校であるから、定刻に出て定刻に帰る。それでも、時には会議があるらしく、遅くなるときがないではない。
そんなときは必ず夕食の用意をして置いてくれる。母には夜食が出るから、わたしたちは先にすませて、わたしは寝る。ふと目を覚ますと、父は机に向かって書物を読んでいる。お母さんはまだ、とわたしは訊く。父は答える。もう校門を出たところだ。見えるだろう。ふとまた目を覚まして、お母さんはまだと訊く。父は答える。もう電車に乗ってるよ。見えるだろう。ふとまた目を覚まして、お母さんはまだと訊く。父は答える。もうすぐだよ、電車を降りたから、見えるだろう。わたしはほんとうに眠る。ほんとうに眠って目を覚ますと、母はほんとうにいるのである。神仏はいつもそのようにして現れて来ると思うようになった。もしそのとき、ほんとうに母がいなかったとしたら、わたしは後々人生で、神仏を失ったかも知れない。>
当たり前のことだが、父と母が存在しなければ私はいない。私の存在はさらに、二人の祖父と二人の祖母へさかのぼり、未生の過去を遍歴する。不思議としか言いようのない「存在」の背後に、“神仏”がましますわけだ。父や母への思いが、神仏を見失わない手立てになっていることを、森さんは教えている。