耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“[もがり]”考~父の遺骸に添い寝した従兄

2007-07-10 08:34:28 | Weblog
 河瀬直美監督の映画“[もがり]の森”はまだ見ていないが、同監督の『萌の朱雀』は同じ奈良の山村を舞台にしたいい映画だった。“[もがり]の森”はHNKハイビジョンで放映されたそうだが、わが家のテレビはこれを見るまでに進化していないので、映画館上映を待つしかない。

 http://www.mogarinomori.com/

 [もがり]とは葬送儀礼の一つとされている。(次を参照)

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF

 記事の所在が見つからないので正確なことが書けないが、「天皇が崩御すると皇太子はその死体に添い寝するしきたりがある」とどこかで読んだ記憶がある。多分、これも貴種族の伝統儀礼のひとつ[もがり]なのだろう。

 ところで、前々回“方言”に関して書いたなかで従兄O.Kにふれたが、この従兄が『自分史第一部~父のことども』を遺している。そのなかにこんな記述があった。

 <父は家族、親族の看護、熱願も空しく昭和7年5月21日午前十時19分に息を引き取った。57歳である。翌22日が友引のため葬儀は23日であったが、二晩の通夜の時、私は父の遺骸と蒲団の中で一緒に寝た。注射が沢山打たれていたせいか、死体はまだ温かかった。…>

 従兄が旧制中学4年生、17歳の時である。彼が天皇家の[もがり]を知っていたとは思えないが、私はこれを読んで正直驚いた。現代の通夜は[もがり]の名残だそうだが、余程の事情がない限り、通夜の遺骸に添い寝する人はいないだろう。この従兄は、奔放な人生を送ってきた私などとは違って、生まれ育った環境にも恵まれ、その生涯を通しまさに「君子」だった。

 
 私の父がなくなったのは1954年秋の彼岸まぢか、茹だるように暑い日が続いていた。私は19歳。通夜に「添い寝」など夢想だにしなかった。そればかりか父の葬儀では忘れられない辛い想い出がある。当時の粗末な火葬場は村内のほぼ中心山地にあって、遺体はそこまで一族が経営する陶磁器会社のトラックで搬送したが、荷台の棺桶に私が付き添うことを命じられた。家からおよそ20分、でこぼこ道を走るトラックの上で遺体の激しい腐臭に私はじっと耐えていた。その激しい腐臭が生と死の境界を強烈に印象付けたことが忘れられない。

 幼い頃(5,6歳?)の葬儀で印象に残るのは、本家の伯父が座った状態で「座棺」に納められる様子である。その頃は土葬だったから、「座棺」が墓を掘るにも都合がよかったのだろう。もう一つ忘れられないのは、戦後間もなくの頃、墓地の阿弥陀堂まで葬列は続くが、葬列の途中で四人の担ぎ手が担いでいる棺桶の底が抜けて遺体が転げ落ちたことである。『ザ・葬式』(小杉哲平著/朝日新聞社)でも「柩の底」が抜けた話を載せているから、こういうことは珍しいことではなかったのかも知れない。

 「棺桶や塔婆をつくって売る父母の家」に生まれた作家水上勉は『「般若心経」を読む』(PHP文庫)で書いている。忘れがたい文章だから引いておく。

 <…その父が、棺をつくりながら、ひとりごとのようにいったのは、人は死ねば、みな三尺の棺に入ってしまい、土になるということである。あたりまえのことだけれど、このことは、じつは、つぎのことばがつけ足されて、私の心に喰い入った。

「一生を富裕にすごす人も、貧乏ですごす人も死ねば棺は三尺である。刑務所で悪い涜罪(とくざい)の生を終えた人も、大臣になって国のために働いた人もみな棺は同じである。しかも、寸法はきまっているから、財産をもって土界に入るわけにゆかない。せいぜい六文銭を手にして、数珠を手首にはめてもらうぐらいだろう」

 死人は棺に入ると、すぐにさんまい谷へはこばれて穴の中に落とされる。この場合、父が穴掘りゆえ、誰の場合でも、スコップをつかって掘ったのだが、不思議なことに、さんまい谷の土は、1メートルくらい掘りすすむと、固い木の根につきあたって、掘りにくくなった。父はいった。

「見てみい。地面の中は、木の根がいっぱいや。根ェが新しい死人がうまると、そっちへゆきたくて這いまわっとる。もち焼き網みたいにこまかな縞をつくって、死人から死人へ、根の先をのばして網になっとる。これは、ぐるりに生えとる椿と百日紅(さるすべり)や。樹の花は、死人の肉が根から栄養になって、咲いとる」

 さんま谷は、小高い丘陵であるが、そのまわりは、なるほど椿の林で、一本だけ、大きな百日紅があった。椿は真冬から春にかけて、真紅の五弁の花が咲きさかったし、百日紅は夏いっぱいを咲いて秋ぐちに散った。

「あの花は、うちのお婆かもしれん。こっちの花はお爺さまかもしれん。みんな花になって…咲いてござる」

 そういった父は、ある日、穴を掘っていて、たくさんのしゃれこうべが出てきたものだから、それをさし出して私たちに見せてくれた。

「見てみい、これは、男か女かわからん。誰であったかわからんしゃれこうべやが、椿の根ェの下があげ底になっておって、肉が土になって、椿に吸われると、あとは、首だけになって、もち焼き網のようになった根の下にたまっとるのんや。しゃれこうべになってしまえば、生きとったころの名前もわからんし、財産もない。ただのしゃれこうべや」

 そういってから、

「つとむよ、おぼえとけ。死んだら、みんなこれやど。肉ははやばやと花に化けよる。あとの骨も、また土になって花になりよる」>

 水上勉という人は、極貧の中にいながら“諸行無常”の教えを受けつつ育った幸せな人だったと言わねばならない。


 [もがり]は死者の墓地を意味するともいうが、昭和天皇の[もがり(墓地)]は東京・八王子の武蔵陵墓地にある。

 武蔵陵墓地:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%99%B5%E5%A2%93%E5%9C%B0

 ここは「風水説」にかなった自然環境で、中央線高尾駅から指呼の間にある。参道から奥まった広大な陵には、大正天皇、貞明皇后とともに上円下方墳形式で造営され、陵内は枝垂れ桜をはじめ種々の植栽がされていて散策にもってこいである。一般にも開放されているから、都内の喧騒からのがれ、東京駅から2時間あまりの「風水の地」を訪ねるのも一興だろう。(私が行ったときはまだ香淳皇后墓はなかった)

 天皇家は、[もがり]などの習俗を遺す貴重な文化遺産継承者といえるのかも知れない。


 

“石見銀山”が世界遺産なら“佐渡金山”も…

2007-07-08 08:38:29 | Weblog
 「石見(いわみ)銀山」(島根県太田市)が世界遺産に登録された。

(参照:http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200707060189.html

 ご同慶の至りである。『毎日新聞』のコラム「発信箱」で中村秀明記者が書いている。多少長くなるが引用する。

 <ニュージーランドで2日まで開かれたユネスコの世界遺産委員会では、島根県・石見銀山の逆転登録のほかに、二つの驚きがあった。
 一つは、豪州・シドニーのオペラハウスの登録。巨大な貝殻か帆船を思わす独創的な外観を持ち、「人類の創造的な才能を表現する傑作」と認められたが、73年完成で歴史は浅い。もう一つは、オマーンのアラビアオリックス保護区の登録抹消。初の取り消しだった。希少動物の生息地なのに、オマーン政府が資源開発のため、10分の1に縮小したせいだ。
 
 世界遺産は800カ所を超えて曲がり角を迎え、単に歴史の厚みや壮大さ、珍しさを備えたものばかりではなくなってきた。二つの驚きは、登録はゴールではなく、価値を守るには経済的な利益に背を向ける覚悟もいることを教えている。…
 逆転の石見銀山も、これからが本当の試練だ。旅行会社から駐車場確保やガイドの予約が殺到しているが、そんな商魂とは一線を画し、経済効果に踊らされない頑固さもいる。白川郷や知床では、観光需要が住民生活への支障、交通渋滞など負の面を生んでいる。
 
 「世界遺産」を商業的な成功へのパスポートと受け止めれば、もの珍しい観光地の一つとして消費されるだろう。世界遺産登録は、売り込む特権ではなく、守る義務を負ったのだ。>

 「世界遺産」についてこれ以上の論評の余地はなかろう。とかく“話題”に飛びつく人が群がる世相ではあるが、わが国の金・銀・銅山には“金掘大工(坑夫)”とその家族たちの苛酷で哀しい現実が存在したことを忘れてはなるまい。3月21日の本ブログ『“アスベスト問題”はこれから』(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070321)でもとりあげたが、天保期(1830~43)に佐渡奉行であった川路聖謀(なりあきら)は、その日記『島根のすさみ』に記す。

 <当国には25歳に相成男は賀の祝ひあり。厄年と申候にはあらす。以前は金掘大工に30をこえ候もの稀也。よって25歳になれば、並みものの60位のこころへにて歳のいわいいたし候由、昔は金ほり計也しか、今は一国なへてなす事と成りしと御目付役のもの申聞候。>

 “金掘大工”の寿命はせいぜい25過ぎた頃で、夫を亡くした若妻たちは4人、5人の男に嫁(とつ)いだとの記録が、わが国のみか外国でも残っている。


 磯部欣三著『佐渡金山』(中公新書・1992年初版)の目次劈頭は「廃墟の文化史」で、全編がその視点で編まれている。もっとも、本書の底本が『佐渡金山の底辺』(1961年刊)だから、表題に「底辺」がなくても中味には「苦界」が描かれているわけである。『佐渡金山』を長編小説『海鳴』にした作家の津村節子は、本書の解説で述べている。

 <…相川を歩いていると、わずか四キロ四方の狭い町に、死がぎっしり詰まっていることを感じさせられる。相川は、ある意味では大きな墓場みたいだ、と磯部さんが言われたことがあるが、そうした町を案内し、死者たちのことを教えてくれたのが磯部さんなのだ。>

 「佐渡金山の歴史」:http://www.sadokankou.gr.jp/sado100/100/rekishi/index.html
 
 『佐渡金山』は、「お墓や、過去帳に記されたいろいろな戒(法)名を、注意して調べたわけではない。が、金銀山周辺の裏山を歩いたころ、いくつかはメモしておいた。」という文章で始まる。著者は子墓の多いことに驚き、さらに「転」の一字が入るいくつもの戒名を発見し、過去帳と照合して哀しい秘話を知る。
 徳川家康がさしむけた佐渡奉行の大久保長安は、佐渡だけでなく石見(島根)、伊豆(静岡)の銀山代官も兼ねていたというから、鉱山の実情は似たり寄ったりだったとみてよかろう。「金掘大工」の唄は本当に物悲しい。

 大工、大工と
 名はよいけれど
 住むは山奥
 穴の中

 娘ようきけ
 大工の[かかあ](女偏に鼻)は
 岩がどんとくりゃ
 若後家よ

 竪坑三千尺
 下れば地獄
 死ねば廃坑の
 土となる

 大工するちゅて
 親怨めるな
 親は大工の
 子は生まぬ

 二度と来まいぞ
 金山地獄
 来れば帰れる
 あてもない

 
 「佐渡金銀山」も世界遺産登録を目指して運動を始めているという。

 http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/kingin/index.html 

 “石見銀山”が認定を得たのなら「佐渡金銀山」が認定されても決しておかしくはない。ただ、当初にあげた中村秀明記者が指摘するように、世界遺産の登録が「商業的」に利用され、観光業を潤すだけではあまりにも空しい気がする。
 『佐渡金山』の著者磯辺欣三氏は、佐渡の歴史を調べながらつぶやく。

 <文献というものにつくづく飽きて、そのひとに会いたい、対話したいという衝動に走ることがある。記述を補強したい思いもあるが、前のほうに興味が加速するのだ。文献というものが頼りなくて、空しくて、よく墓地に出かけた。そのひとの墓石、形態、戒名と向かいあって、空しい対話をする。空しいが、対話したような気持ちになって、安らいで帰ってくる。…>

 佐渡奉行の大久保長安が猿楽師大夫の子で、能役者だったことや、能楽を大成させた「世阿弥」が流されてきたこともあって、佐渡はいまも能が盛んであり、一時期殷賑を極めた土地だけにその他の芸能文化にも花が咲いた。それらの遺産のなかには本土で廃れたものもあり貴重な財産であろう。

 だが、磯部氏を「空しく」するものの存在と遊離した「華の文化遺産」は意味をなすまい。その「空しさ」を眼前に展示することは容易なことではなかろうが、少なくとも、「苦界」に生きた人々が「世界遺産」のなかにしっかり組み込まれるような、そんな願いを佐渡に届けたい。

子どもたちから消える“方言”~久間のボケ発言に触発されて

2007-07-06 08:51:45 | Weblog
 久間章生前防衛大臣は、「九州弁で『しようがない』」というのはすぐ口をついて出るんです」(7月4日『毎日新聞』社会面)と言って、あたかも通常の使用例とは異なるかのように弁明した。『大辞泉』では「“仕様がない”=①うまい方法がない。②始末におえない。」としているが、久間前大臣の郷里に程近い隣県で育った私の理解では、おおかた「仕方がない」(方言で「シカタアンミャーもしくはショーンアンミャー」)という意味だった。彼の詭弁に付き合うのはもう止めて、ついでに「方言」について考えてみることにした。 


 私が東京に住み始めたのは1964(昭和39)年6月、東京オリンピックの年だった。勤務先は全国造船労働組合本部事務所で、東京出身は役員2名と書記4名、他の執行部専従役員は各地にある造船所から選出派遣されていた。大阪の藤永田造船、名村造船、神戸の三菱造船(2名)、兵庫相生の播磨造船、岡山の三井玉野造船、広島の日立因島造船、IHI呉造船、それに長崎の佐世保造船である。だから普段の会話だけでなく、会議の場もほとんど各自「お国言葉」で通し、方言が気にならず楽だった。

 ひと月ほど後、初めての「お国帰り」で職場に挨拶に行くと上司の班長が、
「M君、うちの娘が山手線の電車ん中でアンタにおーた言うとったバイ。知っとったや」
という。
「いやー、おーた憶えはなかバッテン。いつのことやろか…」
「“ふとか声で佐世保弁丸出しでしゃべっとらしたけん、すぐ分かった”て言うとったぞ、ワッハッハッハ…」
 広くて人の多いあの東京で、偶然とは言えそんなことがあろうかと、言葉が「言霊」であることを実感させられた次第である。

 
 さて、私の手元にガリ版刷りの分厚い『方言誌・第十四輯』(國學院大學方言研究会・昭和10年6月25日発行)のコピーがある。ここに私の生地の方言が収録されているが、当時國學院大學2年だった従兄のO.Kが金田一京助教授らの指導のもと採集執筆したもので、学会でもそれなりの評価を受けたものらしい。これに目を通すと、瞬時に幼い頃にタイムスリップしてしまうが、2年ごとに開催される小・中学の同窓会があって、田舎に残った仲間が随分いるから「方言」がわが身から消え去るとは考えにくい。『方言誌』の「語法篇」から2、3例あげてみよう。

 ウットランナイ、カルヨイホキャー、シカタ(又はショーン)、アンミャー。
(売っていないのなら、借りるより外、仕方あるまい。)
 【筆者注】「ショーン、アンミャー」が久間が言う「しようがない」にあたる。

 アメバカイ、フットイタイドン、ヨーヨシテ、ヨーダケン、キショクノヨカ。ナガセモ、コイデアガローゴタッ。
(雨ばかり、降っていたのに、やっと、晴れたので、気持ちがよい。梅雨も、あけるらしい。)

 ノムノム、ハナシドンシュージャナカナタ、マァ、ユックラートオシンサイ。
(飲みながら、話しましょう、まぁ、ゆっくりなさいまし。)

 私の生地に近い老人たちなら今も生きた言葉として使っているかも知れないが、若い人たちに果たして通じるだろうか。『方言風土記』(すぎもとつとむ著/雄山閣)の「佐賀県」の項には“あるのに「ない」という異風者(いひゅうもん)”と見出しがついて、こう述べている。

 <佐賀のことばに、根性(こんじょう)もん、牛根性、いひゅうもん(異風者)などというのがある。この異風者は、頑固で融通のきかない人間のことをいうのであるが、佐賀県人全体がこの異風者の気質を、多かれすくなかれ持っているようである。
 佐賀のことばは、韻はすこぶる関東的であらっぽく、語気が激しい。ただi(イー)・u(ウー)の音が落ちやすく、朝鮮語的なひびきで、日本語としては珍しく耳にたつようである。…>

 著者はこの気質は、「武士道とは死ぬこととみつけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり」という『葉隠れ』の精神に由来するとみる。この見解に異をはさむつもりはないが、(鍋島藩の『葉隠』とは別に、私どもの「蓮池藩」(鍋島傍藩)には『蓮乃葉可久礼』というのがあって、従兄のO.Kは晩年その研究に没頭し、概要のみ残して逝ってしまった)蓮池藩に属する自分の言葉にはもっとやさしい「女性的」な情趣がこもっていたような気がする。

 「方言」は古里(ふるさと)そのものである。情報社会満開で日常から「方言」が消えていく。寂しい限りである。

“小人の過(あやま)ちや必ず文(かざ)る”~『論語・子帳第十九』

2007-07-04 11:15:06 | Weblog
 暴言を吐いた久間防衛大臣が辞任した。当然のことである。本来なら、首相が「引導」を渡すべきだが、柳沢大臣の舌禍事件や故松岡大臣の裏金問題同様、宰相としての矜持を保てない安部首相にはそれができなかった。それにしても、久間章生という人物は人間の資質に欠けている。報道によれば、辞任の最大の根拠は「参議院選挙への悪影響」で、「原爆投下容認」発言への真摯な反省ではなかった。

 “子夏曰はく、小人の過(あやま)ちや必ず文(かざ)る”~『論語・子帳第十九』
 (君子は過ちがあれば必ず速やかに改めるけれども、小人は過ちがあるとこれを改めることを憚って、必ずこれを文(かざ)って自ら欺き人をあざむくものである)

 首相をはじめこの内閣には「小人」しかいないと言わざるを得ない。「原爆投下容認」発言がどれほど重いものか『東京新聞』の次の記事を見たら分かろう。

 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007070490080417.html

 後任に女性防衛大臣が指名された。これも多分に「参議院選挙」対策めいていて鬱陶しいこと甚だしい。
(この女性についての参考記事:http://www.asyura2.com/07/senkyo37/msg/819.html

 鬱陶しいこの季節に鬱陶しい話ばかりのなかで、こんな唄を想いだし、ひとり静かに唄ってみた。


『わらべ唄』   
      ~これはこの世のことならず 賽の河原のものがたり

一つや二つや三つや四つ
十にも足らはぬ幼(おさな)子が
親の手元(たもと)を離れては
賽の河原に集りて
昼のみ時の間には
大石積んでは塔を築(つ)き
夜のみ時の間には
小石を積んでは塚を築き

一重積んでは父のため
二重積んでは母のため
三重積んでは西を向き
しきみほどなる手を合わせ


 もう一段、“民”のために小石を積んでみようか。

“綸言(りんげん)汗の如し”~許せない久間発言

2007-07-02 13:49:45 | Weblog
 陳舜臣著『仙薬と鯨』(中央公論社)にこんな話が載っている。

 <…清の乾隆(けんりゅう)十年(1745)、黄公望の『富春山居図』が皇室のコレクションにはいり、乾隆帝はそこに字をいっぱい書き入れた。いわゆる「賛」である。ところが、じつはこれは模写されたものだったのだ。翌年、ほんものが皇室の御府にはいった。…
 
 ー 綸言(天子のことば)汗の如し。

 ということばがある。出た汗はもう体内に戻らないように、天子がいったん口にしたことばは、取り消しができないことなのだ。
 摸本を真本とまちがえて、皇帝は賛をいれたのに、真本があらわれた。どうすればよいのか? 乾隆帝は侍臣の梁詩正という者に、真本に賛をいれさせた。それは、
 ー 旧蔵のものは真蹟で、これは贋だが、画格が秀潤なので、並存してもよかろう。
 という文章であった。
 清代では、『富春山居図』は、公式には摸本のほうがほんものとされ、真本が摸本とされたのである。…>

 こうして「綸言」に縛られた皇帝はメンツを保ったのである。

 
 さて、先の柳沢厚労相の「女性は産む機械」という暴言が忘れられかけようとしているこの時期に、久間防衛大臣の「原爆投下やむなし」というとんでもない発言があった。長崎は怒りに震えている。
 
 長崎では十年前にはじめた核廃絶を訴える「高校生一万人署名運動」が今年は国内外から28万人の署名を集め、選ばれた「平和大使」7人が国連にこれを届けようとしているが、(参照:http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070702/03.shtml)久間大臣は若い彼らに顔向けできないだろう。摸本を真本と言いつくろった乾隆帝は辛うじてメンツを保ちえたが、久間発言はまさに「綸言汗の如し」で今さら「撤回」などできようはずはない。とぼけた弁解などせず早々と辞職すべきだ。

 常識でもあろうが、佐藤一斎も『言志録(慎言五則)』で言っている。

 <人は最も当(まさ)に口を慎むべし。口の職はニ用を兼ぬ。言語を出(いだ)し、飲食を納(い)るる是なり。言語を慎しまざれば、以て禍を速(まね)くに足り、飲食を慎しまざれば、以て病を致すに足る。諺に云う、禍は口より出で、病は口より入ると。>

 現政権は「前代未聞の低劣な政府」であると断定するのはやすいが、これがわが国の「民度」を表わすものだとすれば、わが身を愧じるしかなくなる。1962年5月7日第40回国会衆議院外務委員会において、私が尊敬する故河上丈太郎先生は『原爆の唯一の被害国の任務』として当時の池田総理に質問している。一部抜粋して読んでみよう。


 <…私は、世界の核兵器の問題について、最大の責任者はどこかというと、これはアメリカだと考えます。アメリカが核兵器を作り、日本にこれを実験したわけでございます。…
 私はヤソ教なんでありまして、非常に宗教的な表現を使いますけれども、最近アメリカから多数のキリスト教徒、クェーカーの人が来ますし、あるいはこの間クリスチャン・サイエンス・モニターの記者も来たのであります。あるいはまた、この次の選挙にデモクラットから上院に立候補しようとしている人、最近そういう人が多い。その際、私は、アメリカの人に向かって、この核兵器を作った責任をアメリカが反省することがこの問題を解決する端緒だ、こう言うている。

 この間出ましたバートランド・ラッセルの書かれた本でありますが、「人間は将来を持つか」という書物の劈頭にあたりまして、シェークスピア時代の作家の言葉を引用しております。その言葉は、戦争を最初に発明した人はのろわれよ、こういう言葉をバートランド・ラッセルはこの本の扉に出しておる。この本の中において、核兵器を作った科学者を非難しております。…

 今度の核実験の再開については、アメリカで初めてと言ってよいくらい反対のデモンストレーションが起っている。…ホワイト・ハウスにデモンストレーションがあって、ケネディ大統領の小さなお嬢さんが奥さんに、お父さんはどんな悪いことをしたのかと尋ねたと伝えているのであります。…

 ユダヤ民族は神が第一の選民としたけれども、第二の選民はわが日本民族だ、原爆の犠牲を通じて日本民族は平和のために大きな使命を持っておる民族である。…単にそればかりではない。もう一つの大きな事由というのは、日本が平和憲法を持っておるということです。これは世界に類例のない一つの憲法です。原爆も世界に類例がない。平和憲法も世界に類例がないことです。偶然でありましょうか。私はそうは思わない。原爆によって犠牲をこうむり、平和憲法を持っている。この二つの大きな柱こそ、日本民族が世界の平和をもたらす大きな力である。私はこう解釈しておる。…

 この二つの事実こそ、日本が平和をもたらすために神から与えられたミッションであると私は信じている。…(拍手)>


 なんと誠心、純粋な言葉だろうか。久間発言がいかに愚かであるかを教えてくれる。いまこそ「平和の使徒」だった河上丈太郎先生の精神を国会に蘇らせねばならないと思う。