河瀬直美監督の映画“[もがり]の森”はまだ見ていないが、同監督の『萌の朱雀』は同じ奈良の山村を舞台にしたいい映画だった。“[もがり]の森”はHNKハイビジョンで放映されたそうだが、わが家のテレビはこれを見るまでに進化していないので、映画館上映を待つしかない。
http://www.mogarinomori.com/
[もがり]とは葬送儀礼の一つとされている。(次を参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF
記事の所在が見つからないので正確なことが書けないが、「天皇が崩御すると皇太子はその死体に添い寝するしきたりがある」とどこかで読んだ記憶がある。多分、これも貴種族の伝統儀礼のひとつ[もがり]なのだろう。
ところで、前々回“方言”に関して書いたなかで従兄O.Kにふれたが、この従兄が『自分史第一部~父のことども』を遺している。そのなかにこんな記述があった。
<父は家族、親族の看護、熱願も空しく昭和7年5月21日午前十時19分に息を引き取った。57歳である。翌22日が友引のため葬儀は23日であったが、二晩の通夜の時、私は父の遺骸と蒲団の中で一緒に寝た。注射が沢山打たれていたせいか、死体はまだ温かかった。…>
従兄が旧制中学4年生、17歳の時である。彼が天皇家の[もがり]を知っていたとは思えないが、私はこれを読んで正直驚いた。現代の通夜は[もがり]の名残だそうだが、余程の事情がない限り、通夜の遺骸に添い寝する人はいないだろう。この従兄は、奔放な人生を送ってきた私などとは違って、生まれ育った環境にも恵まれ、その生涯を通しまさに「君子」だった。
私の父がなくなったのは1954年秋の彼岸まぢか、茹だるように暑い日が続いていた。私は19歳。通夜に「添い寝」など夢想だにしなかった。そればかりか父の葬儀では忘れられない辛い想い出がある。当時の粗末な火葬場は村内のほぼ中心山地にあって、遺体はそこまで一族が経営する陶磁器会社のトラックで搬送したが、荷台の棺桶に私が付き添うことを命じられた。家からおよそ20分、でこぼこ道を走るトラックの上で遺体の激しい腐臭に私はじっと耐えていた。その激しい腐臭が生と死の境界を強烈に印象付けたことが忘れられない。
幼い頃(5,6歳?)の葬儀で印象に残るのは、本家の伯父が座った状態で「座棺」に納められる様子である。その頃は土葬だったから、「座棺」が墓を掘るにも都合がよかったのだろう。もう一つ忘れられないのは、戦後間もなくの頃、墓地の阿弥陀堂まで葬列は続くが、葬列の途中で四人の担ぎ手が担いでいる棺桶の底が抜けて遺体が転げ落ちたことである。『ザ・葬式』(小杉哲平著/朝日新聞社)でも「柩の底」が抜けた話を載せているから、こういうことは珍しいことではなかったのかも知れない。
「棺桶や塔婆をつくって売る父母の家」に生まれた作家水上勉は『「般若心経」を読む』(PHP文庫)で書いている。忘れがたい文章だから引いておく。
<…その父が、棺をつくりながら、ひとりごとのようにいったのは、人は死ねば、みな三尺の棺に入ってしまい、土になるということである。あたりまえのことだけれど、このことは、じつは、つぎのことばがつけ足されて、私の心に喰い入った。
「一生を富裕にすごす人も、貧乏ですごす人も死ねば棺は三尺である。刑務所で悪い涜罪(とくざい)の生を終えた人も、大臣になって国のために働いた人もみな棺は同じである。しかも、寸法はきまっているから、財産をもって土界に入るわけにゆかない。せいぜい六文銭を手にして、数珠を手首にはめてもらうぐらいだろう」
死人は棺に入ると、すぐにさんまい谷へはこばれて穴の中に落とされる。この場合、父が穴掘りゆえ、誰の場合でも、スコップをつかって掘ったのだが、不思議なことに、さんまい谷の土は、1メートルくらい掘りすすむと、固い木の根につきあたって、掘りにくくなった。父はいった。
「見てみい。地面の中は、木の根がいっぱいや。根ェが新しい死人がうまると、そっちへゆきたくて這いまわっとる。もち焼き網みたいにこまかな縞をつくって、死人から死人へ、根の先をのばして網になっとる。これは、ぐるりに生えとる椿と百日紅(さるすべり)や。樹の花は、死人の肉が根から栄養になって、咲いとる」
さんま谷は、小高い丘陵であるが、そのまわりは、なるほど椿の林で、一本だけ、大きな百日紅があった。椿は真冬から春にかけて、真紅の五弁の花が咲きさかったし、百日紅は夏いっぱいを咲いて秋ぐちに散った。
「あの花は、うちのお婆かもしれん。こっちの花はお爺さまかもしれん。みんな花になって…咲いてござる」
そういった父は、ある日、穴を掘っていて、たくさんのしゃれこうべが出てきたものだから、それをさし出して私たちに見せてくれた。
「見てみい、これは、男か女かわからん。誰であったかわからんしゃれこうべやが、椿の根ェの下があげ底になっておって、肉が土になって、椿に吸われると、あとは、首だけになって、もち焼き網のようになった根の下にたまっとるのんや。しゃれこうべになってしまえば、生きとったころの名前もわからんし、財産もない。ただのしゃれこうべや」
そういってから、
「つとむよ、おぼえとけ。死んだら、みんなこれやど。肉ははやばやと花に化けよる。あとの骨も、また土になって花になりよる」>
水上勉という人は、極貧の中にいながら“諸行無常”の教えを受けつつ育った幸せな人だったと言わねばならない。
[もがり]は死者の墓地を意味するともいうが、昭和天皇の[もがり(墓地)]は東京・八王子の武蔵陵墓地にある。
武蔵陵墓地:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%99%B5%E5%A2%93%E5%9C%B0
ここは「風水説」にかなった自然環境で、中央線高尾駅から指呼の間にある。参道から奥まった広大な陵には、大正天皇、貞明皇后とともに上円下方墳形式で造営され、陵内は枝垂れ桜をはじめ種々の植栽がされていて散策にもってこいである。一般にも開放されているから、都内の喧騒からのがれ、東京駅から2時間あまりの「風水の地」を訪ねるのも一興だろう。(私が行ったときはまだ香淳皇后墓はなかった)
天皇家は、[もがり]などの習俗を遺す貴重な文化遺産継承者といえるのかも知れない。
http://www.mogarinomori.com/
[もがり]とは葬送儀礼の一つとされている。(次を参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF
記事の所在が見つからないので正確なことが書けないが、「天皇が崩御すると皇太子はその死体に添い寝するしきたりがある」とどこかで読んだ記憶がある。多分、これも貴種族の伝統儀礼のひとつ[もがり]なのだろう。
ところで、前々回“方言”に関して書いたなかで従兄O.Kにふれたが、この従兄が『自分史第一部~父のことども』を遺している。そのなかにこんな記述があった。
<父は家族、親族の看護、熱願も空しく昭和7年5月21日午前十時19分に息を引き取った。57歳である。翌22日が友引のため葬儀は23日であったが、二晩の通夜の時、私は父の遺骸と蒲団の中で一緒に寝た。注射が沢山打たれていたせいか、死体はまだ温かかった。…>
従兄が旧制中学4年生、17歳の時である。彼が天皇家の[もがり]を知っていたとは思えないが、私はこれを読んで正直驚いた。現代の通夜は[もがり]の名残だそうだが、余程の事情がない限り、通夜の遺骸に添い寝する人はいないだろう。この従兄は、奔放な人生を送ってきた私などとは違って、生まれ育った環境にも恵まれ、その生涯を通しまさに「君子」だった。
私の父がなくなったのは1954年秋の彼岸まぢか、茹だるように暑い日が続いていた。私は19歳。通夜に「添い寝」など夢想だにしなかった。そればかりか父の葬儀では忘れられない辛い想い出がある。当時の粗末な火葬場は村内のほぼ中心山地にあって、遺体はそこまで一族が経営する陶磁器会社のトラックで搬送したが、荷台の棺桶に私が付き添うことを命じられた。家からおよそ20分、でこぼこ道を走るトラックの上で遺体の激しい腐臭に私はじっと耐えていた。その激しい腐臭が生と死の境界を強烈に印象付けたことが忘れられない。
幼い頃(5,6歳?)の葬儀で印象に残るのは、本家の伯父が座った状態で「座棺」に納められる様子である。その頃は土葬だったから、「座棺」が墓を掘るにも都合がよかったのだろう。もう一つ忘れられないのは、戦後間もなくの頃、墓地の阿弥陀堂まで葬列は続くが、葬列の途中で四人の担ぎ手が担いでいる棺桶の底が抜けて遺体が転げ落ちたことである。『ザ・葬式』(小杉哲平著/朝日新聞社)でも「柩の底」が抜けた話を載せているから、こういうことは珍しいことではなかったのかも知れない。
「棺桶や塔婆をつくって売る父母の家」に生まれた作家水上勉は『「般若心経」を読む』(PHP文庫)で書いている。忘れがたい文章だから引いておく。
<…その父が、棺をつくりながら、ひとりごとのようにいったのは、人は死ねば、みな三尺の棺に入ってしまい、土になるということである。あたりまえのことだけれど、このことは、じつは、つぎのことばがつけ足されて、私の心に喰い入った。
「一生を富裕にすごす人も、貧乏ですごす人も死ねば棺は三尺である。刑務所で悪い涜罪(とくざい)の生を終えた人も、大臣になって国のために働いた人もみな棺は同じである。しかも、寸法はきまっているから、財産をもって土界に入るわけにゆかない。せいぜい六文銭を手にして、数珠を手首にはめてもらうぐらいだろう」
死人は棺に入ると、すぐにさんまい谷へはこばれて穴の中に落とされる。この場合、父が穴掘りゆえ、誰の場合でも、スコップをつかって掘ったのだが、不思議なことに、さんまい谷の土は、1メートルくらい掘りすすむと、固い木の根につきあたって、掘りにくくなった。父はいった。
「見てみい。地面の中は、木の根がいっぱいや。根ェが新しい死人がうまると、そっちへゆきたくて這いまわっとる。もち焼き網みたいにこまかな縞をつくって、死人から死人へ、根の先をのばして網になっとる。これは、ぐるりに生えとる椿と百日紅(さるすべり)や。樹の花は、死人の肉が根から栄養になって、咲いとる」
さんま谷は、小高い丘陵であるが、そのまわりは、なるほど椿の林で、一本だけ、大きな百日紅があった。椿は真冬から春にかけて、真紅の五弁の花が咲きさかったし、百日紅は夏いっぱいを咲いて秋ぐちに散った。
「あの花は、うちのお婆かもしれん。こっちの花はお爺さまかもしれん。みんな花になって…咲いてござる」
そういった父は、ある日、穴を掘っていて、たくさんのしゃれこうべが出てきたものだから、それをさし出して私たちに見せてくれた。
「見てみい、これは、男か女かわからん。誰であったかわからんしゃれこうべやが、椿の根ェの下があげ底になっておって、肉が土になって、椿に吸われると、あとは、首だけになって、もち焼き網のようになった根の下にたまっとるのんや。しゃれこうべになってしまえば、生きとったころの名前もわからんし、財産もない。ただのしゃれこうべや」
そういってから、
「つとむよ、おぼえとけ。死んだら、みんなこれやど。肉ははやばやと花に化けよる。あとの骨も、また土になって花になりよる」>
水上勉という人は、極貧の中にいながら“諸行無常”の教えを受けつつ育った幸せな人だったと言わねばならない。
[もがり]は死者の墓地を意味するともいうが、昭和天皇の[もがり(墓地)]は東京・八王子の武蔵陵墓地にある。
武蔵陵墓地:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%99%B5%E5%A2%93%E5%9C%B0
ここは「風水説」にかなった自然環境で、中央線高尾駅から指呼の間にある。参道から奥まった広大な陵には、大正天皇、貞明皇后とともに上円下方墳形式で造営され、陵内は枝垂れ桜をはじめ種々の植栽がされていて散策にもってこいである。一般にも開放されているから、都内の喧騒からのがれ、東京駅から2時間あまりの「風水の地」を訪ねるのも一興だろう。(私が行ったときはまだ香淳皇后墓はなかった)
天皇家は、[もがり]などの習俗を遺す貴重な文化遺産継承者といえるのかも知れない。