耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

子どもたちから消える“方言”~久間のボケ発言に触発されて

2007-07-06 08:51:45 | Weblog
 久間章生前防衛大臣は、「九州弁で『しようがない』」というのはすぐ口をついて出るんです」(7月4日『毎日新聞』社会面)と言って、あたかも通常の使用例とは異なるかのように弁明した。『大辞泉』では「“仕様がない”=①うまい方法がない。②始末におえない。」としているが、久間前大臣の郷里に程近い隣県で育った私の理解では、おおかた「仕方がない」(方言で「シカタアンミャーもしくはショーンアンミャー」)という意味だった。彼の詭弁に付き合うのはもう止めて、ついでに「方言」について考えてみることにした。 


 私が東京に住み始めたのは1964(昭和39)年6月、東京オリンピックの年だった。勤務先は全国造船労働組合本部事務所で、東京出身は役員2名と書記4名、他の執行部専従役員は各地にある造船所から選出派遣されていた。大阪の藤永田造船、名村造船、神戸の三菱造船(2名)、兵庫相生の播磨造船、岡山の三井玉野造船、広島の日立因島造船、IHI呉造船、それに長崎の佐世保造船である。だから普段の会話だけでなく、会議の場もほとんど各自「お国言葉」で通し、方言が気にならず楽だった。

 ひと月ほど後、初めての「お国帰り」で職場に挨拶に行くと上司の班長が、
「M君、うちの娘が山手線の電車ん中でアンタにおーた言うとったバイ。知っとったや」
という。
「いやー、おーた憶えはなかバッテン。いつのことやろか…」
「“ふとか声で佐世保弁丸出しでしゃべっとらしたけん、すぐ分かった”て言うとったぞ、ワッハッハッハ…」
 広くて人の多いあの東京で、偶然とは言えそんなことがあろうかと、言葉が「言霊」であることを実感させられた次第である。

 
 さて、私の手元にガリ版刷りの分厚い『方言誌・第十四輯』(國學院大學方言研究会・昭和10年6月25日発行)のコピーがある。ここに私の生地の方言が収録されているが、当時國學院大學2年だった従兄のO.Kが金田一京助教授らの指導のもと採集執筆したもので、学会でもそれなりの評価を受けたものらしい。これに目を通すと、瞬時に幼い頃にタイムスリップしてしまうが、2年ごとに開催される小・中学の同窓会があって、田舎に残った仲間が随分いるから「方言」がわが身から消え去るとは考えにくい。『方言誌』の「語法篇」から2、3例あげてみよう。

 ウットランナイ、カルヨイホキャー、シカタ(又はショーン)、アンミャー。
(売っていないのなら、借りるより外、仕方あるまい。)
 【筆者注】「ショーン、アンミャー」が久間が言う「しようがない」にあたる。

 アメバカイ、フットイタイドン、ヨーヨシテ、ヨーダケン、キショクノヨカ。ナガセモ、コイデアガローゴタッ。
(雨ばかり、降っていたのに、やっと、晴れたので、気持ちがよい。梅雨も、あけるらしい。)

 ノムノム、ハナシドンシュージャナカナタ、マァ、ユックラートオシンサイ。
(飲みながら、話しましょう、まぁ、ゆっくりなさいまし。)

 私の生地に近い老人たちなら今も生きた言葉として使っているかも知れないが、若い人たちに果たして通じるだろうか。『方言風土記』(すぎもとつとむ著/雄山閣)の「佐賀県」の項には“あるのに「ない」という異風者(いひゅうもん)”と見出しがついて、こう述べている。

 <佐賀のことばに、根性(こんじょう)もん、牛根性、いひゅうもん(異風者)などというのがある。この異風者は、頑固で融通のきかない人間のことをいうのであるが、佐賀県人全体がこの異風者の気質を、多かれすくなかれ持っているようである。
 佐賀のことばは、韻はすこぶる関東的であらっぽく、語気が激しい。ただi(イー)・u(ウー)の音が落ちやすく、朝鮮語的なひびきで、日本語としては珍しく耳にたつようである。…>

 著者はこの気質は、「武士道とは死ぬこととみつけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり」という『葉隠れ』の精神に由来するとみる。この見解に異をはさむつもりはないが、(鍋島藩の『葉隠』とは別に、私どもの「蓮池藩」(鍋島傍藩)には『蓮乃葉可久礼』というのがあって、従兄のO.Kは晩年その研究に没頭し、概要のみ残して逝ってしまった)蓮池藩に属する自分の言葉にはもっとやさしい「女性的」な情趣がこもっていたような気がする。

 「方言」は古里(ふるさと)そのものである。情報社会満開で日常から「方言」が消えていく。寂しい限りである。