「石見(いわみ)銀山」(島根県太田市)が世界遺産に登録された。
(参照:http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200707060189.html)
ご同慶の至りである。『毎日新聞』のコラム「発信箱」で中村秀明記者が書いている。多少長くなるが引用する。
<ニュージーランドで2日まで開かれたユネスコの世界遺産委員会では、島根県・石見銀山の逆転登録のほかに、二つの驚きがあった。
一つは、豪州・シドニーのオペラハウスの登録。巨大な貝殻か帆船を思わす独創的な外観を持ち、「人類の創造的な才能を表現する傑作」と認められたが、73年完成で歴史は浅い。もう一つは、オマーンのアラビアオリックス保護区の登録抹消。初の取り消しだった。希少動物の生息地なのに、オマーン政府が資源開発のため、10分の1に縮小したせいだ。
世界遺産は800カ所を超えて曲がり角を迎え、単に歴史の厚みや壮大さ、珍しさを備えたものばかりではなくなってきた。二つの驚きは、登録はゴールではなく、価値を守るには経済的な利益に背を向ける覚悟もいることを教えている。…
逆転の石見銀山も、これからが本当の試練だ。旅行会社から駐車場確保やガイドの予約が殺到しているが、そんな商魂とは一線を画し、経済効果に踊らされない頑固さもいる。白川郷や知床では、観光需要が住民生活への支障、交通渋滞など負の面を生んでいる。
「世界遺産」を商業的な成功へのパスポートと受け止めれば、もの珍しい観光地の一つとして消費されるだろう。世界遺産登録は、売り込む特権ではなく、守る義務を負ったのだ。>
「世界遺産」についてこれ以上の論評の余地はなかろう。とかく“話題”に飛びつく人が群がる世相ではあるが、わが国の金・銀・銅山には“金掘大工(坑夫)”とその家族たちの苛酷で哀しい現実が存在したことを忘れてはなるまい。3月21日の本ブログ『“アスベスト問題”はこれから』(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070321)でもとりあげたが、天保期(1830~43)に佐渡奉行であった川路聖謀(なりあきら)は、その日記『島根のすさみ』に記す。
<当国には25歳に相成男は賀の祝ひあり。厄年と申候にはあらす。以前は金掘大工に30をこえ候もの稀也。よって25歳になれば、並みものの60位のこころへにて歳のいわいいたし候由、昔は金ほり計也しか、今は一国なへてなす事と成りしと御目付役のもの申聞候。>
“金掘大工”の寿命はせいぜい25過ぎた頃で、夫を亡くした若妻たちは4人、5人の男に嫁(とつ)いだとの記録が、わが国のみか外国でも残っている。
磯部欣三著『佐渡金山』(中公新書・1992年初版)の目次劈頭は「廃墟の文化史」で、全編がその視点で編まれている。もっとも、本書の底本が『佐渡金山の底辺』(1961年刊)だから、表題に「底辺」がなくても中味には「苦界」が描かれているわけである。『佐渡金山』を長編小説『海鳴』にした作家の津村節子は、本書の解説で述べている。
<…相川を歩いていると、わずか四キロ四方の狭い町に、死がぎっしり詰まっていることを感じさせられる。相川は、ある意味では大きな墓場みたいだ、と磯部さんが言われたことがあるが、そうした町を案内し、死者たちのことを教えてくれたのが磯部さんなのだ。>
「佐渡金山の歴史」:http://www.sadokankou.gr.jp/sado100/100/rekishi/index.html
『佐渡金山』は、「お墓や、過去帳に記されたいろいろな戒(法)名を、注意して調べたわけではない。が、金銀山周辺の裏山を歩いたころ、いくつかはメモしておいた。」という文章で始まる。著者は子墓の多いことに驚き、さらに「転」の一字が入るいくつもの戒名を発見し、過去帳と照合して哀しい秘話を知る。
徳川家康がさしむけた佐渡奉行の大久保長安は、佐渡だけでなく石見(島根)、伊豆(静岡)の銀山代官も兼ねていたというから、鉱山の実情は似たり寄ったりだったとみてよかろう。「金掘大工」の唄は本当に物悲しい。
大工、大工と
名はよいけれど
住むは山奥
穴の中
娘ようきけ
大工の[かかあ](女偏に鼻)は
岩がどんとくりゃ
若後家よ
竪坑三千尺
下れば地獄
死ねば廃坑の
土となる
大工するちゅて
親怨めるな
親は大工の
子は生まぬ
二度と来まいぞ
金山地獄
来れば帰れる
あてもない
「佐渡金銀山」も世界遺産登録を目指して運動を始めているという。
http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/kingin/index.html
“石見銀山”が認定を得たのなら「佐渡金銀山」が認定されても決しておかしくはない。ただ、当初にあげた中村秀明記者が指摘するように、世界遺産の登録が「商業的」に利用され、観光業を潤すだけではあまりにも空しい気がする。
『佐渡金山』の著者磯辺欣三氏は、佐渡の歴史を調べながらつぶやく。
<文献というものにつくづく飽きて、そのひとに会いたい、対話したいという衝動に走ることがある。記述を補強したい思いもあるが、前のほうに興味が加速するのだ。文献というものが頼りなくて、空しくて、よく墓地に出かけた。そのひとの墓石、形態、戒名と向かいあって、空しい対話をする。空しいが、対話したような気持ちになって、安らいで帰ってくる。…>
佐渡奉行の大久保長安が猿楽師大夫の子で、能役者だったことや、能楽を大成させた「世阿弥」が流されてきたこともあって、佐渡はいまも能が盛んであり、一時期殷賑を極めた土地だけにその他の芸能文化にも花が咲いた。それらの遺産のなかには本土で廃れたものもあり貴重な財産であろう。
だが、磯部氏を「空しく」するものの存在と遊離した「華の文化遺産」は意味をなすまい。その「空しさ」を眼前に展示することは容易なことではなかろうが、少なくとも、「苦界」に生きた人々が「世界遺産」のなかにしっかり組み込まれるような、そんな願いを佐渡に届けたい。
(参照:http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200707060189.html)
ご同慶の至りである。『毎日新聞』のコラム「発信箱」で中村秀明記者が書いている。多少長くなるが引用する。
<ニュージーランドで2日まで開かれたユネスコの世界遺産委員会では、島根県・石見銀山の逆転登録のほかに、二つの驚きがあった。
一つは、豪州・シドニーのオペラハウスの登録。巨大な貝殻か帆船を思わす独創的な外観を持ち、「人類の創造的な才能を表現する傑作」と認められたが、73年完成で歴史は浅い。もう一つは、オマーンのアラビアオリックス保護区の登録抹消。初の取り消しだった。希少動物の生息地なのに、オマーン政府が資源開発のため、10分の1に縮小したせいだ。
世界遺産は800カ所を超えて曲がり角を迎え、単に歴史の厚みや壮大さ、珍しさを備えたものばかりではなくなってきた。二つの驚きは、登録はゴールではなく、価値を守るには経済的な利益に背を向ける覚悟もいることを教えている。…
逆転の石見銀山も、これからが本当の試練だ。旅行会社から駐車場確保やガイドの予約が殺到しているが、そんな商魂とは一線を画し、経済効果に踊らされない頑固さもいる。白川郷や知床では、観光需要が住民生活への支障、交通渋滞など負の面を生んでいる。
「世界遺産」を商業的な成功へのパスポートと受け止めれば、もの珍しい観光地の一つとして消費されるだろう。世界遺産登録は、売り込む特権ではなく、守る義務を負ったのだ。>
「世界遺産」についてこれ以上の論評の余地はなかろう。とかく“話題”に飛びつく人が群がる世相ではあるが、わが国の金・銀・銅山には“金掘大工(坑夫)”とその家族たちの苛酷で哀しい現実が存在したことを忘れてはなるまい。3月21日の本ブログ『“アスベスト問題”はこれから』(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070321)でもとりあげたが、天保期(1830~43)に佐渡奉行であった川路聖謀(なりあきら)は、その日記『島根のすさみ』に記す。
<当国には25歳に相成男は賀の祝ひあり。厄年と申候にはあらす。以前は金掘大工に30をこえ候もの稀也。よって25歳になれば、並みものの60位のこころへにて歳のいわいいたし候由、昔は金ほり計也しか、今は一国なへてなす事と成りしと御目付役のもの申聞候。>
“金掘大工”の寿命はせいぜい25過ぎた頃で、夫を亡くした若妻たちは4人、5人の男に嫁(とつ)いだとの記録が、わが国のみか外国でも残っている。
磯部欣三著『佐渡金山』(中公新書・1992年初版)の目次劈頭は「廃墟の文化史」で、全編がその視点で編まれている。もっとも、本書の底本が『佐渡金山の底辺』(1961年刊)だから、表題に「底辺」がなくても中味には「苦界」が描かれているわけである。『佐渡金山』を長編小説『海鳴』にした作家の津村節子は、本書の解説で述べている。
<…相川を歩いていると、わずか四キロ四方の狭い町に、死がぎっしり詰まっていることを感じさせられる。相川は、ある意味では大きな墓場みたいだ、と磯部さんが言われたことがあるが、そうした町を案内し、死者たちのことを教えてくれたのが磯部さんなのだ。>
「佐渡金山の歴史」:http://www.sadokankou.gr.jp/sado100/100/rekishi/index.html
『佐渡金山』は、「お墓や、過去帳に記されたいろいろな戒(法)名を、注意して調べたわけではない。が、金銀山周辺の裏山を歩いたころ、いくつかはメモしておいた。」という文章で始まる。著者は子墓の多いことに驚き、さらに「転」の一字が入るいくつもの戒名を発見し、過去帳と照合して哀しい秘話を知る。
徳川家康がさしむけた佐渡奉行の大久保長安は、佐渡だけでなく石見(島根)、伊豆(静岡)の銀山代官も兼ねていたというから、鉱山の実情は似たり寄ったりだったとみてよかろう。「金掘大工」の唄は本当に物悲しい。
大工、大工と
名はよいけれど
住むは山奥
穴の中
娘ようきけ
大工の[かかあ](女偏に鼻)は
岩がどんとくりゃ
若後家よ
竪坑三千尺
下れば地獄
死ねば廃坑の
土となる
大工するちゅて
親怨めるな
親は大工の
子は生まぬ
二度と来まいぞ
金山地獄
来れば帰れる
あてもない
「佐渡金銀山」も世界遺産登録を目指して運動を始めているという。
http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/kingin/index.html
“石見銀山”が認定を得たのなら「佐渡金銀山」が認定されても決しておかしくはない。ただ、当初にあげた中村秀明記者が指摘するように、世界遺産の登録が「商業的」に利用され、観光業を潤すだけではあまりにも空しい気がする。
『佐渡金山』の著者磯辺欣三氏は、佐渡の歴史を調べながらつぶやく。
<文献というものにつくづく飽きて、そのひとに会いたい、対話したいという衝動に走ることがある。記述を補強したい思いもあるが、前のほうに興味が加速するのだ。文献というものが頼りなくて、空しくて、よく墓地に出かけた。そのひとの墓石、形態、戒名と向かいあって、空しい対話をする。空しいが、対話したような気持ちになって、安らいで帰ってくる。…>
佐渡奉行の大久保長安が猿楽師大夫の子で、能役者だったことや、能楽を大成させた「世阿弥」が流されてきたこともあって、佐渡はいまも能が盛んであり、一時期殷賑を極めた土地だけにその他の芸能文化にも花が咲いた。それらの遺産のなかには本土で廃れたものもあり貴重な財産であろう。
だが、磯部氏を「空しく」するものの存在と遊離した「華の文化遺産」は意味をなすまい。その「空しさ」を眼前に展示することは容易なことではなかろうが、少なくとも、「苦界」に生きた人々が「世界遺産」のなかにしっかり組み込まれるような、そんな願いを佐渡に届けたい。