耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

ある“活動家”への手紙

2007-07-14 10:09:21 | Weblog
 Hさんへ

 丁重な拙著への感想を頂戴し、ありがたく厚くお礼申しあげます。
 今なお真摯な運動を続けておられる貴兄たちに比べれば、なんとも“ヤワ”な自分が恥ずかしいばかりです。気持ちだけでも、多少とも“尖鋭”なものを抱き続けたいと思っています。

 昨年(1999)末、悪名高い経営者で知られた「坪内寿夫」が死にました。彼を“労働者の敵”と切り捨てることは簡単でしたが、その敵に塩を送り続け、労働者を裏切った組合幹部は断じて許せない、それが執筆の動機でした。しかし、書いていくうちに、どうしても“労働とは何か”を問わずにおれませんでした。もちろん、私の現在の力量では“群盲象を評する”のたとえどおり、その内実を正しく表現できたとは思えません。課題を持ち越した状態で、いずれ改めてテーマを絞ってとり上げてみたいと思っております。

 古来、栄枯盛衰は世の習い、“栄えれば枯れる”が道理で、わが国は繁栄の絶頂を過ぎ明らかに枯れかかっていると言えないでしょうか。大局的には地球そのものがそうだと言えますが、わが国の枯渇の状況が深刻なのは、政治・経済の局面だけでなく、人倫そのものが衰微していることにあるといえます。

 現代は、第三の産業革命の時代にはいったといい、IT(情報技術)の画期的な進展がその中心を担っているといわれています。その方面の知識に乏しい私には論評の限りではありませんが、生産物を媒介しない架空の取引によって成立している市場や社会、いわゆるバーチャルな世界が第三の革命の実態ではないかと受け止めています。そのような社会で、労働者総体としてどのような理念をもって対処するか、きわめて課題は大きく、重いといえそうです。

 拙著の中で私は、「労働組合が労働者の立場に立った生産性理論を構築しえなかった」と書きましたが、“労働”について語る時、技能や技術のあり方をしっかり見つめつつ、利潤追求に狂奔する企業の立場からの生産性理論に支配される現状を脱し、人間にとっての根源的な“豊かさ”を規定し、自己規制的なその“豊かさ”に見合った労働のあり方を考えるべきではないかと思ったからです。

 先に述べましたように人倫が極度に衰微しつつあるわが国で、“豊かさ”の指標を真摯に論議できる土壌があるとは思えませんが、環境問題を基軸とした人口、食料、化石燃料など、少なくともこれから20年、50年のスパンで考え、労働者にとっての“労働”の未来を問い直すべきではないでしょうか。

 評論家の弁になってお恥ずかしい限りですが、とどのつまり「いかに闘うか」にかかっていると言うしかありません。自分に何ができるかを問いつつ、貴兄のご健闘を祈ってやみません。
                                  草々
 2000年1月23日
                               M.Gより

 
 Hさんは、旧N鶴見造船所に勤務する少数派組合の活動家。最後は組合員3名となり、会社の不当労働行為を最高裁まで争って勝利した豪の者だ。拙著を持って訪ねた時は、神奈川県勤労者医療生協港町診療所の事務局長をしていた。この手紙を出して2ヵ月後、私は病に倒れ帰省した。

 7年後、参議院選挙がはじまり繁栄の中の「貧困」が一つの争点になっている。つまり、これまでの「豊かさ」が完全に反転し、生きるものたちに「息苦しさ」を感じさせはじめたのだ。「格差拡大」で少数の富者たちが闊歩する反面、「貧困階級」が増大した。元を辿れば、国民が選んだ政府によって生じた貧困。しかも、この「貧困」は生活の面だけでなく「思想の貧困」「運動の貧困」にも及んでいる。

 Nさんへの手紙を想い出したのは、“栄えれば枯れる”の反転期がいつ頃だったのか、そして多くの人々が、奥深いバーチャルな闇の世界へ誘導されていく不安を抱き、道に迷いはじめたのはいつの頃だったのかをもう一度確認したかったためである。

 “窮すれば濫す”と言うが、一方では“窮すれば通ず”とも言う。この参議院選挙を国民が“濫する”ことのないよう願うばかりである。