<永保2(1082)年2月15日朝律師道場ニ入リ念仏シ行道スルニ、本尊ハ壇上ヨリ降下シテ、律師ニ先キ立チ共ニ行道シ玉フ。律師感涙ニ堪ヘズ。乾(いぬい=北西)ノ隅ニ躊躇ス。時ニ本尊左に顧ヘリ永観遅シト霊告アリー。…>(永観堂禅林寺略伝)
一日6万遍という気の遠くなるような念仏三昧の行道の最中の出来事。永観(ようかん)律師が、念仏を唱えながら阿弥陀如来のまわりをぐるぐる回っていたとき、驚いたことに如来が前に降り立ち、まるで律師を導くかのように行道されたのである。律師が思わず足を止めて茫然としていると、如来はうしろを振り返り「永観おそいぞ」と声をかけられたという。そのかたが永観堂におわす“みかえり阿弥陀”さまである。
http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.htm
この“顧(みかえり)弥陀”を拝したのは2004年秋、紅葉の夜(ライトアップ中)であった。リンクの像ではわかりにくいが、手元の『法然と浄土信仰』(読売新聞社刊・A4版)にある大写しのお顔を拝見すると、その唇から今にもやさしいお声が聞けるような温顔である。
http://www.eikando.or.jp/lightup.htm
http://www.eikando.or.jp/aki.htm
「永観堂 禅林寺」は浄土宗西山禅林寺派総本山で、宗祖はもちろん法然上人である。さきの「永観堂禅林寺略伝」にはこうある。
<吉水円光大師(法然上人)ノ選択集ヲ閲シ、頓(にわか)ニ浄教ニ帰依シ、大師ヲ師父トシ立テ、前一代に推尊ス。又派祖西山弥天国師(証空上人=法然上人の高弟)ヲ法兄トシ、後ニ斯ノ山ヲ国師ニ譲ル。>
つまり、源頼朝の帰依をうけた真言宗の学匠静遍僧都が法然上人の死後、その著『選択本願念仏集』にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の一代に推し、高弟西山証空上人に譲ることを法然上人墓前に誓われたことに由来するとある。(「永観堂 禅林寺」入場パンフレット)
http://www.eikando.or.jp/
法然上人は永観律師滅後22年の生誕だが、この“みかえり阿弥陀”は永観の懇望で平安末から鎌倉初期につくられていて、「施療院」もあった禅林寺で熱心な念仏行道に励んだ永観律師の存在を法然上人が知らなかったとは思えない。だとすれば、勝手な想像だが、法然上人はこの“みかえり阿弥陀”と対面されていてもおかしくない。前述の『法然と浄土信仰』にはA4一面に数珠を繰る「法然上人像」(隆信御影)があるが、そのお顔がどこか“みかえり阿弥陀”さまを想わせる。
禅林寺では、“みかえり”の意味を現代風に解釈している。
・自分たちより遅れる者たちを待つ姿勢
・自分自身の立場をかえりみる姿勢
・愛や情けをかける姿勢
・思いやり深く周囲をみつめる姿勢
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき
そして「真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心」とまとめている。
ロマン豊かな“みかえり阿弥陀”さまの出現に勇気付けられた中世の人びとが羨ましい。わが国の指導者たちも、たまには永観堂を訪ね、“みかえり如来”と対話してみてはいかがか。
一日6万遍という気の遠くなるような念仏三昧の行道の最中の出来事。永観(ようかん)律師が、念仏を唱えながら阿弥陀如来のまわりをぐるぐる回っていたとき、驚いたことに如来が前に降り立ち、まるで律師を導くかのように行道されたのである。律師が思わず足を止めて茫然としていると、如来はうしろを振り返り「永観おそいぞ」と声をかけられたという。そのかたが永観堂におわす“みかえり阿弥陀”さまである。
http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.htm
この“顧(みかえり)弥陀”を拝したのは2004年秋、紅葉の夜(ライトアップ中)であった。リンクの像ではわかりにくいが、手元の『法然と浄土信仰』(読売新聞社刊・A4版)にある大写しのお顔を拝見すると、その唇から今にもやさしいお声が聞けるような温顔である。
http://www.eikando.or.jp/lightup.htm
http://www.eikando.or.jp/aki.htm
「永観堂 禅林寺」は浄土宗西山禅林寺派総本山で、宗祖はもちろん法然上人である。さきの「永観堂禅林寺略伝」にはこうある。
<吉水円光大師(法然上人)ノ選択集ヲ閲シ、頓(にわか)ニ浄教ニ帰依シ、大師ヲ師父トシ立テ、前一代に推尊ス。又派祖西山弥天国師(証空上人=法然上人の高弟)ヲ法兄トシ、後ニ斯ノ山ヲ国師ニ譲ル。>
つまり、源頼朝の帰依をうけた真言宗の学匠静遍僧都が法然上人の死後、その著『選択本願念仏集』にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の一代に推し、高弟西山証空上人に譲ることを法然上人墓前に誓われたことに由来するとある。(「永観堂 禅林寺」入場パンフレット)
http://www.eikando.or.jp/
法然上人は永観律師滅後22年の生誕だが、この“みかえり阿弥陀”は永観の懇望で平安末から鎌倉初期につくられていて、「施療院」もあった禅林寺で熱心な念仏行道に励んだ永観律師の存在を法然上人が知らなかったとは思えない。だとすれば、勝手な想像だが、法然上人はこの“みかえり阿弥陀”と対面されていてもおかしくない。前述の『法然と浄土信仰』にはA4一面に数珠を繰る「法然上人像」(隆信御影)があるが、そのお顔がどこか“みかえり阿弥陀”さまを想わせる。
禅林寺では、“みかえり”の意味を現代風に解釈している。
・自分たちより遅れる者たちを待つ姿勢
・自分自身の立場をかえりみる姿勢
・愛や情けをかける姿勢
・思いやり深く周囲をみつめる姿勢
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき
そして「真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心」とまとめている。
ロマン豊かな“みかえり阿弥陀”さまの出現に勇気付けられた中世の人びとが羨ましい。わが国の指導者たちも、たまには永観堂を訪ね、“みかえり如来”と対話してみてはいかがか。