天下人ならぬ田舎人

いつも故郷を想い、心は永遠に田舎人が、今伝えたいことを伝えます。

サマーフェスティバル

2006-08-26 16:21:18 | 日記・エッセイ・コラム

横浜市泉区の青少年指導委員として4月より活動を始め、5月よりサマーフェスティバルの企画(実行委員会)を担当してきて、そのサマーフェスティバルが8月19日に無事終了しました。今はホッとしています。

サマーフェスティバルは、「お祭り」で、模擬店あり、小中学校の生徒による企画あり、踊りあり、抽選会あり、花火ありですが、すべて実行委員会が主導で、準備、運営をします。模擬店はテキヤを入れず、食材や器具すべて準備し、子供会のお母さん方に手伝ってもらい、調理したものを販売します。模擬店の種類は、焼きそば、焼き鳥、フランクフルト、生ビール、ジュース、かき氷、ポップコーン、綿菓子、ヨーヨー、おもちゃです。焼きそばは1000食、焼き鳥は3000本、フランクフルトは700食用意しましたが、完売しました。

19日の当日は朝7時に娘たちが通う小学校のグラウンドに集合し、テント張りや舞台作り、調理するための機材を各商店から借り受け、トラックで運び、午後一番で食材を調達しました。サマーフェスティバルは午後2時半スタートですが、それには何とか間に合い、それ以降は、生ビールや氷の補充で、6時ぐらいまではグラウンドと商店街をいったりきたりのパシリに徹しました。

午後8時からはお楽しみ抽選会で、午後9時からは打ち上げ花火などを行い、サマーフェスティバル終了は午後9時半です。それから、後片付けをし、青少年指導委員と協力していただいた体育指導委員とで、打ち上げを行いました。それでもまだまだ仕事は終わりません。花火やファイヤをを実施したこともあり、実行委員会による、小学校周辺の見回りを行い、すべての作業が終了したのは日が変わり、午前0時半のことです。当日は猛暑だったこともあり、作業から開放されたときはもうくたくたでした。

5月から、地域の商店にサマーフェスティバル協賛の協力のお願いをすることから始め、食材の注文、機材の借用のお願い、プログラムの作成、子供会のお母さんたちに説明会を実施、小中学校の生徒に出し物の企画をいっしょに検討する、当日と当日までに何をしなければいけないのか、それの資料作りなど、ほぼ毎週のように何らかの準備を行ってきました。まったく大変でしたの一言に尽きます。

私は、今年1年目でしたので、わけがわからず動いていたところもありましたが、改善すればもっと効率的に作業ができることもわかりましたので、来年に向けて、他の実行委員の方と改善に取り組んでいく所存です。それにしても、青少年指導委員会がこれだけのことを実施している地域は他にあるのでしょうか。どなたかの報告を待っています。


デラウェア収穫

2006-08-15 14:10:35 | 日記・エッセイ・コラム

実家のデラウェア(ぶどう)収穫を手伝うために、お盆休みを利用して、一人山形(南陽市赤湯)にやってきました。

初日は、ぶどうを詰める箱作りで終了してしまいました。300箱作ったでしょうか。生産量は約800貫(約3200Kg)なので、全部出荷するためには2キロ箱を1600箱必要になります。また、8月中におおよそ出荷するので、1日約50箱出荷しなければなりません。

2日目以降は、箱つくりとデラウェア収穫を手伝いました。ぶどうの収穫といっても、実っているぶどうをなんでもかんでも収穫すればよいというものではありません。色づきのよい房を選んで収穫していきます。収穫したデラウェアは、重さを量り、同じ大きさの房に仕分けして、きれいに箱詰めしていきます。ひもで結わえたら、デラウェアの出来具合(品質)と大きさを示すスタンプを箱に押します。

上記の作業が終わったら、集荷場に運びますが、赤湯のぶどう園の特徴として、急な斜面にあることです。1日50箱を出荷するのに手作業で集荷場まで運んでいたら仕事になりません。車も途中までしか行けませんので、収穫したぶどうを運ぶために、モノラック(農作物を運ぶモノレールのようなもの。急勾配でも安全に走行する)を使用します。

8月9日から3日間でしたが、多少の手伝いができたと思います。大変でしたが、農家の出の血が騒いだような、気持ちのよい3日間でした。

おやじは、「あと何年ぶどう作りができるかわからない」と言っています。後継者がいなく、今までぶどう園であったところが荒地になっているところがいくつか見受けられます。残念でなりません。明治から続くぶどう生産地であり、種無しぶどうの発祥地であり、山形県の約7割のデラウェアを生産している生産地であるのに、年々縮小していくしかないのでしょうか。白竜湖の周辺に広がるぶどう園のさまは、目を見張るすばらしい光景ですが、いつまでも同じ景色が続くことを祈ります。

左の写真から

①実家のぶどう園から赤湯の街を見渡したところです。自宅の敷地内にぶどう園を持つ農家はほとんどありません。

②おいしそうでしょう。両親の作るデラウェアは何度も品評会で賞を受賞しています。

③ぶどう園の風景です。向こうにいるのはお袋です。お袋の体調が良かったので一緒に収穫の作業をしました。

④トンボがぶどう園の周りを飛び回っていました。トンボの存在が一時の清涼感を与えてくれます。

⑤昼寝しながら、真上に見えたぶどうを、携帯電話のカメラで取った写真です。昼寝も農作業する上で大事なことです。

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一人山形に帰省する

2006-08-15 10:39:00 | 日記・エッセイ・コラム

一ヶ月前、実家に電話したら、おやじが出て、「お袋の体調が良くない」と言い、8月に入って電話したら、ぶどうの収穫をむかえて、「一人で忙しくやっている」と言う。実家には長男夫婦もいますが、どちらも仕事を持っていて、農業はやっていません。おやじは弱音を吐く人ではありませんが、電話で話す口調からは、少し疲れているように思われました。私の兄は休みの日は農業を手伝いますが、それでも収穫が追いつかないはずです。ここは、『自分が夏休みを利用して、ぶどうの収穫の手伝いにいこう』と決意しました。妻や子供たちは理解してくれて素直に送り出してくれました。結婚して、一人で帰省するのは初めてです。家族で帰省しても良かったのですが、子供の面倒が見れないことと、ぶどうの収穫が最大の目的のため、妻と子供たちは妻の実家に預けました。

実家への帰省は、8月8日に、妻の実家(武蔵村山市)から車で帰省しました。約6,7時間の運転です。新青梅街道から外環道経由で東北自動車道に入りました。浦和料金所を通過すると、この道が田舎に続いていると思うと、わくわくするような気持ちになります。

東北自動車道の飯坂ICで降りて、福島から国道13号線に入り、約2000mものトンネルをいくつも抜けて、米沢に向かいます。そして、米沢盆地に入り、運転しながら赤湯方面を見ると、丘陵に連なるぶどう畑と烏帽子山公園(桜の名所でもある)と懐かしい景色とともに広い空が見えてきました。『空ってこんなに広かったかな』。横浜に住んでいると、建物に遮られて、空も狭く見えていたのでしょう。高校まで過ごしたはずなのに、そんなことを忘れていたようです。

実家に着いたら、お袋が出迎えてくれました。おやじから寝込んでいるとも聞いていたので、元気な姿を見て一安心です。お袋も息子が帰ってくることを励みに元気になったかな。とりあえず、明日から3日間、ぶどうの収穫が待っています。がんばろう。(この続きは、別のブログで紹介します)


さらばカブトムシ

2006-08-05 13:26:00 | 日記・エッセイ・コラム

2年前の秋(2004年10月)のことです。庭先のアサガオの花も咲き終え、タネも採って、鉢を片付けようと、鉢の土をひっくり返したら、「なんだこれは」と驚いてしまいました。カブトムシの幼虫が10匹以上いるではありませんか。虫が嫌いで驚いたのではありません。住宅街の庭先のアサガオの鉢に卵を産むものかと驚いてしまったのです。

このカブトムシの幼虫をどうしたものかと思案した挙句、米ぬかを混ぜて、もう一度鉢の土の中に戻してしまいました。そうして翌年3月(2005年3月)に、その年のアサガオを植える準備のために、鉢が必要で、鉢の土をひっくり返したら、昨年秋より成長しているではありませんか。ただし、このままにしても食べる餌がないため、これ以上成長できるのか、心配になってきました。

さてどうするか。「こうなったら自分がカブトムシの幼虫を育て、カブトムシになるまで面倒をみるか」と一念発起し、インターネットでカブトムシの幼虫の育て方を調べ、家で飼うことにしました。飼い方として、ペットボトル1本に1匹の幼虫を入れる(幼虫同士がけんかすることを避けるため)ので、とても10匹以上もの幼虫は飼えないと思い、4匹のみ飼うことにし、残りの幼虫は近くの雑木林の土の中に埋めました。

春先にカブトムシ飼育用のクヌギを探すのは大変でしたが、何とか入手し、ペットボトルに黒い厚紙を貼り、クヌギを詰め、幼虫を埋めました。後は適度な湿り気を保つために、霧吹きで水を与えました。ただし、本当にこんな方法で育つのか、半信半疑でしたが、昨年夏(2005年7月)に3匹のカブトムシが育ちました。そのうち2匹(どちらもメス)は雑木林に放し、1匹はいつのまにかペットボトルから抜け出して飛び立ってしまいました。

残る1匹はカブトムシに育ったのかどうかわからず(まれに幼虫の期間が2年になる場合もあるようですが)、よう室(さなぎから成虫するための部屋)を壊してしまうと、死んでしまうようで、冬まではそのままにしておきました。その年の12月(2005年12月)にペットボトルからクヌギを取り出すと、幼虫がより大きく成長していました。この幼虫は成長が足りないと判断してもう一年幼虫でいようと思ったのでしょう。

そして、今年の6月に、よう室ができ、さなぎになって動いている様子が、ペットボトルの外から見えるようになって、後は成虫になるだけだと楽しみにしていました。

ある日、会社から帰ると、玄関に置いてあったペットボトルの上の部分が盛り上がっていて、穴が見える状態になっていました。このとき、「これは、成虫(カブトムシ)になって、いつのまにかペットボトルから飛び出していったかな。2年も育ててやったのに、挨拶もしないで行っちゃった」と思い、ちょっぴりうれしくて、さびしい気持ちでした。

ところが、本日、カブトムシ幼虫の飼育に使ったペットボトルを整理しようと、クヌギを取り出したら、なんとさなぎの状態で死んでいました。これは悲しかったです。カブトムシになって、巣立ったと思っていたら、死んでいたのです。原因はわかりません。よう室が壊れ、うまく脱皮することができなかったのか不明です。生き物を飼うと、こういった悲しい出来事に遭遇してしまいます。しかたないことですが。

飼育するきっかけを与えてくれた幼虫たちよ。決して楽ではなかったけれど、こんな自分でも育てのまねごとができ、うれしかったよ。さらばカブトムシ。