gooブログはじめました!

歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ガダルカナル島の戦い

2020-08-20 06:31:10 | 日記

「ガダルカナル島の戦い」は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)年8月から半年に渡って日本軍連合国軍が繰り広げた西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島争奪戦です。1943年2月日本軍がガ島から撤退し連合国軍は対日反攻作戦の第一歩で勝利しました。

ラバウルはニューブリテン島にあります

1941年12月真珠湾攻撃、マレー半島上陸作戦、フィリピン航空撃滅戦で始まった太平洋戦争は予想以上に日本軍に有利に展開し、1942年に入ると米豪分断作戦としてニューギニアポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)、ニューカレドニアフィジーサモアの攻略作戦(FS作戦)が策定され、ミッドウェー攻略作戦(MI作戦)後の7月に予定されました。

ミッドウェーは北西ハワイ諸島の端にある環礁ですが、6月4日に行われたミッドウェー海戦では暗号を米軍に解読され待ち伏せされた連合艦隊が、主力空母4隻を失う惨敗を喫し、MI作戦、FS作戦も中止せざるを得なくなりました。

しかし日本海軍は米豪分断を諦めず、ニューブリテン島のラバウル以南に基地航空隊を進出させるため、ガ島に飛行場を建設1942年8月5日に滑走路の第1期工事が完了しました。

ミッドウェー海戦に勝利して意気が上り、対日反攻作戦の第一段階として海軍のキング大将がサンタクルーズ諸島、ツラギ、その周辺島嶼の占領、陸軍マッカーサー大将がラバウル攻略を主張していましたが、海軍案にまとまり7月2日ウォッチタワー作戦が発令されました。

作戦開始日は8月1日の予定でしたが、7月4日に米軍偵察機が日本軍のガ島飛行場建設を発見したことから延期され、飛行場占領を最優先に8月7日早朝アメリカ海兵隊主体の10,900名がガ島テナル川東岸に上陸しました。大本営は連合国軍の反攻を1943年と想定していたので完全な奇襲になりました。

ルンガ川東岸の第11設営隊1,350名は敵兵力の把握も出来ないまま駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯が占領されました。第13設営隊長岡村徳長少佐は1,200人の設営隊員をルンガ川西岸地区に移動してルンガ川橋梁を破壊し、同日夕方第11設営隊隊長門前鼎大佐が数十名の部下と加わって、ルンガより4km西方にあるマタニカウ川西岸に防衛線を敷きます。

日本海軍はラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17計53機)と第8艦隊重巡5、軽巡2、駆逐艦1)で反撃し、陸軍のグアム島にいた一木支隊、パラオ諸島にいた川口支隊をガ島に投入することになりました。

7日と8日の攻撃で25航戦は34機を失う大被害を出しましたが、米空母が進出している貴重な情報を得、8日夜第8艦隊は連合国軍艦隊と第一次ソロモン海戦がおきます。

重巡4隻を撃沈、1隻を大破する大戦果を挙げましたが、本来の目的であった米輸送船団攻撃の意図が第8艦隊には徹底しておらず、凱歌を挙げて米輸送船団への攻撃を行わずに戦闘範囲から離脱し、離脱後警戒を解いたところで重巡加古が米潜水艦の雷撃で沈没しました。揚陸作業を中断して輸送船団を一旦退避させていた連合国軍は重火器を含む大量の物資の揚陸に成功し、後のガ島の戦いの帰趨が決定的になります。

一木清直大佐率いる一木支隊の第1梯団は駆逐艦6隻に分乗して18日にガ島のタイボ岬に上陸しましたが、実質は1個大隊の戦力しかありませんでした。大本営は当初連合国軍の本格的上陸と考えましたが、上空からの偵察で輸送船団を発見できず、一木支隊に届いたのは「連合軍兵力は2,000名、上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」と云う誤認情報でした。

19日第5海兵連隊のL中隊がマタニカウ川を渡河しましたが、日本軍は激しく抗戦して日本の狙撃兵に米軍の指揮官が次々と倒されます。日本軍の退路を遮断するためにI中隊がククムから西のコクンボナに上陸し、日本軍は後退しますが海兵隊にも追撃する余力はありませんでした。

ガ島に上陸した一木支隊は一路西を目指します。一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵の防御陣地があるとは想定しておらず、他方海兵隊は19日に倒した日本軍斥候階級章から、タイボ岬に上陸したのが陸軍部隊であることを知って20日夕刻までに防備を固めていました。

20日夕方イル川を越えて先行した一木支隊の将校斥候34名中31名が戦死し、2時間後に生還した兵から報告を受けた一木大佐は各中隊に即攻撃を命じました。9時頃尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ銃砲撃を受け、立ち往生しているところに支隊本部が合流します。

10時半一木隊長はイル川渡河を決めましたが、強力な砲兵に援護された機関銃座を前に100名余の損害を出し攻撃を一旦停止します。敵兵力が10,900人の大軍であることを知らない一木大佐は、1時間後に再び白兵攻撃を命じ200名を越す損害を出しました。

翌21日夜明けとともに敵機が上空を舞い、海兵隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つ迂回攻撃を仕掛け、午後からは戦車を投入したため一木支隊は壊滅しました。8月25日までに生きてタイボ岬まで戻ったのは916名中126名でした。

一木支隊の行動概要図

戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられていたため、一木支隊の残存兵は飢餓に悩まされました。輸送船で横須賀第5特別陸戦隊とともに送り込まれた一木支隊第2梯団は20日のイル川渡河戦には間に合っていません。

米軍が占領後「ヘンダーソン」と名付けた飛行場が20日から機能し始め、後に空母エンタープライズサラトガワスプの艦載機も、母艦が損傷して使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃しました。

20日に敵機動部隊を発見した連合艦隊は川口支隊の船団輸送を中止し、トラック島の機動部隊(空母翔鶴、瑞鶴、龍驤)に出撃を命じ、23日から24日に第二次ソロモン海戦が戦われます。

日米両軍とも空母戦力に大きな被害を出しましたが、米軍は護衛空母ロング・アイランドがヘンダーソン飛行場への航空機の送り込みに成功して基地航空隊の動きが活発化、一木支隊第2梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失いショートランド泊地へ退避、川口支隊の輸送は駆逐艦と舟艇になりました。

9月7日までに川口支隊と一木支隊の第2梯団がガ島に上陸しますが「出迎えた一木先遣隊の生き残りは、痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって食うものをと手を出し、米をやるとナマのままかじる状態」でした。10月中旬に上陸した第2師団も「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」の兵に迎えられ、最後に上陸した第38師団も同様の経験を語っています。

川口支隊はヘンダーソン飛行場の背後に迂回して飛行場を攻撃する作戦を立てましたが、険しい山岳地形の密林を工兵部隊がつるはしとスコップで開いた啓開路では、重火器や砲弾の運搬は不可能でした。

12日午後8時に米軍陣地に総攻撃を行う手はずでしたが、夕方までに攻撃位置に着けたのは一部で、第一次総攻撃が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてです。

60隻の小型舟艇に分乗してガ島に向かった川口支隊の別働隊1,000名は、空襲や故障でばらばらになって、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着き、総攻撃には間に合いませんでした。

川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火で前進を阻まれて戦いに至らず、中央隊の青葉大隊の一部が国生大隊と合流して米軍の第一線を突破し、1個中隊がヘンダーソン飛行場南端を確保しましたが混戦のすえ敗走します。

この戦闘で激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけで、川口支隊の戦死者・行方不明者は700名、再起を期してアウステン山からマタニカウ川西岸に5,000名が留まりましたが食料・弾薬の不足が深刻化し、ガ島は「餓島」の様相を呈します。23日から27日の間に米軍はマタニカウ川東岸に駐屯する川口部隊に逆上陸を含む6度の攻撃をかけますが、多数の損害を出し後退しました。

10月初旬百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガ島へ進出し、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸して飛行場を占領すべく、第2師団が派遣されました。海軍は戦艦、巡洋艦のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃で支援し、米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴、瑞鶴)がガダルカナル島北方海域に進出しました。

10月中旬に日本軍はガ島に増援の歩兵と武器、食糧を送り込みますが、米海兵隊はヘンダーソンとは別に小規模の戦闘機用の滑走路を完成させていて、日本軍はそれを知らずガ島周辺の制空権を確保できませんでした。

10月26日の南太平洋海戦で日本軍は多数の航空機搭乗員を失いましたが、敵空母1隻を撃沈、同1隻中破の戦果を挙げ、一時的には米艦隊が展開する空母が無くなります。この報告で第38師団1万名の輸送が決りました。

11月10日第38師団先遣隊が上陸し14日に主力の輸送が開始され、制海権の確保と飛行場砲撃のために戦艦2隻を含む第11戦隊が派遣され、第三次ソロモン海戦が起きます。

日本海軍は戦艦2隻を失い、飛行場の砲撃も効果を挙げえず、輸送船団は米軍機の空襲で11隻中6隻が沈没、1隻が中破離脱し、強行突入した4隻は岸辺に乗り上げたのち攻撃を受けてすべて炎上、揚陸した兵器・弾薬・食糧も焼失しました。

最終的に揚陸された兵力は2,000名、少量の弾薬と食糧4日分でした。ガ島の兵力は数字上3万名に達しましたが、伝染病や餓死寸前の兵が大半で戦闘可能兵員は8,000名程度でした。

低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦による「鼠輸送」も3か月間に10数隻が撃沈され、潜水艦による輸送まで試みられましたが、搭載力が小さく成功しても効果は微々たるものでした。

ガ島ではほとんどの部隊で陣地を「守る」のは立つこともできない傷病兵で、何とか歩ける兵が食糧の搬送に当たり、やっと手に入れた米を担いだまま体力を失って絶命する兵もいれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵も現れたと云われます。餓島の悲惨な状況は報道班員の手記や新聞記事で当時から結構国民に知られていました。

12月31日の御前会議でガ島からの撤退が決り、1943年2月1日から7日に撤兵が行われ、身動きの出来ない傷病兵のやむを得ない「自決」か「処分」が大規模に行われました。ガ島だけでなく、1941年東條英機陸相が示達した戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」が、第二次世界大戦中多くの軍人の玉砕や民間人の自決を決定づけたのは確かでしょう。

日本軍のガ島上陸総兵力は31,404名、撤退できたのは10,652名、それ以前に負傷し後送されたのが740名で、戦闘での戦死者は5,000名で、15,000名は餓死か戦病死と推定されています。米軍の損害は戦死1,598名、戦傷4,709名でした。

太平洋戦争の攻守が逆転したのは、空母4隻を失ったミッドウェー海戦と云うのが定説ですが、実はそれに先立つ珊瑚海海戦がミッドウェーの敗戦に大きな影響を与えています。

珊瑚海海戦はMO作戦の一環で、空母の機動部隊をソロモン諸島の東側から、陸軍の攻略部隊をラバウルから珊瑚海に侵入させ、これを阻止しようとした米軍が空母2隻の機動部隊を送りこみ、史上初の空母機動部隊同士の決戦が行われました。
5月7日両軍とも索敵の不手際で日本軍は米軍のタンカーネオショー」を空母と間違えて攻撃、米軍は攻略部隊の護衛についた小型空母祥鳳翔鶴型航空母艦と間違えて攻撃し、撃沈しました。日本軍は敵空母2隻に薄暮攻撃をかけましたが戦果は挙げられず、帰還したのは27機中6機でした。
翌8日は両軍ともほぼ同時刻に索敵機が敵空母を発見、両軍の攻撃部隊は途中ですれ違いましたが互いに無視して敵空母攻撃に向かいます。瑞鶴がスコールに隠れたため米機の攻撃は翔鶴に集中、翔鶴は中破して北へ離脱、瑞鶴は無傷でしたが艦載機の損耗が激しく、敵空母2隻を撃沈したと誤認して北へ離脱しました。レキシントンとヨークタウンは中破で、レキシントンは漏れ出たガソリンに引火・炎上したため、米駆逐艦に雷撃処分されます。

炎上する米空母レキシントン

日本側発表の戦果は「サラトガ型・ヨークタウン型空母各1隻撃沈・戦艦2隻撃沈破、わがほう小型空母1沈没、飛行機31機未帰還」で、大本営発表はこの海戦から戦果の水増しが始まります。

過大戦果の発表や自軍損害の秘匿は連合軍側も同じで、米海軍省は「日本艦艇撃沈確実25隻、撃沈おおむね確実5隻、撃沈やや確実4隻」と発表しています。

実際の損害は連合国軍が空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスの沈没、空母ヨークタウンの損傷、航空機69機の喪失で、日本軍は空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島の損傷、航空機97機の喪失でした。

瑞鶴は無傷でしたが艦載機を喪失し、翔鶴は修理に3か月が必要で、両艦ともミッドウェー作戦に参加できず、第一航空艦隊は三分の一の戦力を失ってミッドウェー作戦に臨むことになりました。

連合艦隊の総力を挙げたミッドウェー海戦の損害は、正規空母の赤城加賀蒼龍飛龍と重巡三隈の沈没。重巡最上、駆逐艦荒潮損傷、艦載機289機喪失でした。米軍は空母ヨークタウン、駆逐艦ハムマンの沈没、基地航空隊を含めて約150機を喪失しました。

6月10日の大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機撃墜。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」で、18日に「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正しましたが、空母4隻を失った事実は長く厳重に秘匿されました。

第二次世界大戦の我が国の戦没者は310万人です。軍人軍属の戦没者は230万人ですが、その過半数は戦死ではなく餓死です。ガ島でなくても熱帯のジャングルで食糧の調達ができず、補給もされず、餓死者と栄養失調で体力を消耗しマラリア、アメーバ赤痢などで死んだ病死者数が、戦死者数を上回ったのです。これが大東亜戦争の現実です。

餓島で敗北を喫した後の1943年2月9日の大本営発表は「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」でした。

列強諸国の帝国主義の最終結末として我が国が太平洋戦争に突入した歴史の必然性を私は必ずしも否定しませんが、「負ける戦いは何としても避ける」と云う孫子の兵法の神髄を実践する余地はあったと考える立場です。大本営発表には、日本国民を総力戦に引き込み310万の犠牲者を出しながら、真実を伝えなかった責任が問われるべきでしょう。

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 支那事変 | トップ | 零戦 »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事