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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

2018-02-28 06:15:59 | 日記

絹は1個の繭から800m~1,200mとれる天然繊維の中で唯一の長繊維です。あらゆる繊維のうちで一番上品で光沢があり、繊維が細くて長く強いので、地薄な羅(ら)や紗(しゃ)から、地厚な絨毯まで織れます。

繭から引き出した極細の糸を数本揃えた繰糸の状態の絹糸を生糸(きいとと云い、生糸から膠質成分を除いて光沢や柔軟さを引き出した絹糸を練糸(ねりいと)と呼びます。

絹は古くから高級織物に用いられてきましたが、代表的な織物には錦・綾・羅・唐織・繻子(しゅす)・緞子(どんす)・金銀襴(らん)・羽二重・縮緬(ちりめん)・綸子(りんず)・お召・銘仙・大島などの和服地があり、綴錦(つづれにしき)・博多織などの帯地や、ブロケード・タフタなど広幅に織り出した洋服地もあります。

 

絹の利用が始まったのは5,000~6,000年前の中国です。4,700年以上も前の銭山漾(せんざんよう)遺跡からは平織の古代絹が、漢代初期の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)からは錦や綾、刺繍した精緻な高級絹織物が出土されています。

絹織物は中国の王侯・貴族の独占物として国外に出すことを禁じられていましたが、紀元前4~3世紀には中近東からヨーロッパ・北アフリカを結ぶ東西交易路を通じて、地中海諸国に伝わりました。この交易路がシルクロードです。

日本へは弥生時代前期に九州へもたらされた絹の断片が出土しており、古墳時代中期から経錦(たてにしき)、後期から綾の出土があり、飛鳥・奈良時代には西日本から律令制の租税のうちの調として納められました。

蜀江錦は中国の蜀(四川省)の産で、奈良の法隆寺・東京国立博物館・根津美術館で見ることが出来ますが、若い時に見た法隆寺の蜀江錦は1300年以上の時を経たものとはとても思えないもので感動しました。

 

錦・綾・羅は当時の代表的高級織物で、絹・絁 (あしぎぬ) が一般的な絹織物ですが、奈良正倉院には1200年前の天平年間に丹後地方から聖武天皇へ献上された絁が保存されています。

中世の宋からの織物の輸入は僅かで、古代の伝統を引き継いだ国産の阿波絹・美濃八丈・常陸絹・石見紬などが生まれました。近世初頭には明から新しい織物技術が伝来し、綸子・唐織・緞子が国産化されました。絹の撚糸法が伝わると京都縮緬を生んで各地に広まり、丹後縮緬・岐阜縮緬・長浜縮緬が織られます。

京都西陣の名は1466年(文正二年)の応仁の乱で山名崇全の陣が置かれたことに由来しますが、西陣で織物を生産していた秦氏ゆかりの綾織物職人たちが1513年(永正10年)足利氏の下で京都での絹織物生産の独占を許され、1548年(天文17年)に足利家の被官となり「西陣」の地位が確立しました。

徳川家康は天下を取ったのち西陣を手厚く庇護しました。江戸時代初期は中国産生糸の輸入利益がポルトガル・中国・オランダの外国商人たちに独占されていたため、幕府は1604年慶長9年)京都長崎の商人に糸割符仲間をつくらせ、輸入生糸の価格決定と一括購入を支配させました。

1620年(元和6年)二代将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇の女御となり、西陣は嫁入り衣裳をすべて受注しました。五代将軍綱吉の母桂昌院は西陣の出で、高級織物の注文が大奥から西陣に殺到します。「西陣」の織物は18世紀初頭の元禄~享保年間に、富裕な町人の圧倒的な支持を受けて最盛期を迎えました。

西陣が生んだものに友禅染めがあります。京友禅は扇師宮崎友禅斎の考案で、古風な有職模様や琳派模様など高度に様式化された文様を得意とし、刺繍や金箔を効果的に使った装飾を用いています。

友禅染めはまず下絵を描き、下絵の上に防染剤で正確に輪郭線を置き、染色後に模様の輪郭に糸目状の白い線が残るのが友禅染のもっとも大きな特徴とされます。輪郭線で囲まれた模様に染料を染め付けていくのが「色挿し」で、次に生地全体の地色を染める「地染め」を行います。「友禅流し」は水のきれいな川で糊や余分な染料を洗い落とす工程です。

幕府寛永年間(1624年~1645年)から蚕の品質改良を進めました。蚕種の代表的産地であった結城藩領を天領とし、同じく天領の陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みました。これに対して仙台藩尾張藩加賀藩などの大藩や上野国信濃国の小藩も、幕府の圧力に屈せず養蚕や織物に力を入れ、各に生糸や絹織物の産地が形成されました。

しかし高級織物に使用する生糸は中国産に限られていたため金、銀の流出が甚だしく、1685年(貞享二年)幕府は輸入を制限します。それまで輸入生糸に限っていた西陣が国産の生糸を使用し始め、養蚕地帯は増産に追われました。

絹の産地は生絹織物と練絹織物により地域が大きく分かれます。生絹織物は日本海に面する北陸から東北地方で織られ、福井県・石川県などの羽二重・縮緬・塩瀬が代表です。練絹織物は銘仙・甲斐絹・お召などで、関東平野の山裾に広がる結城・足利・桐生・伊勢崎・秩父・八王子などで生産されました。

丹後国では古くから絹織物が織られていましたが、1720年(享保五年)峰山の佐平治が京都から技術を持ち帰り丹後縮緬が本格的に生産されます。峰山藩は縮緬の販売を京都の問屋に依頼しましたが、1730年(享保十五年)には京問屋が七軒に増えて、いかに急速に丹後縮緬の生産が増加したかが分かります。同年の西陣の大火で西陣の生産が落ちた影響もあったようです。

桐生は絹糸の集散地で古くから絹織物が織られていました。大火で焼け出された西陣の職人が桐生にも流れてきて、1738年(元文三年)に西陣から高機(たかはた)が導入されます。桐生の絹織物は飛躍的な発展を遂げ「東の西陣」と云われるまでになりました。

1743年に縮緬の生産方法が伝えられましたが、縮緬は糸に強い撚りをかけなければなりません。1783年(天命三年)に岩瀬吉兵衛が水車を動力として一度に多数の糸を撚る機械を考案し、桐生は絹織物の産地の地位を不動のものにしました。

絹の高級織物は時代とともに絢爛豪華なものとなり、江戸幕府は絹の衣服の規制を行います。最初の禁止令は1628年の御触書(おふれがき)で、農民の着物を麻・木綿・紙に限りました。1643年には江戸庶民の着物の色を制限し、江戸経済を支えた富裕な商人の内儀・娘たちの着物の紫と赤を禁じました。

1663年の奢侈禁止令では、白銀500目迄の着物は東福門院(和子)と明正女帝、白銀400目迄の着物は徳川将軍の御台所、白銀300目迄の着物は江戸城大奥の女性に限りました。
日本橋小舟町の商人石川六兵衛の内儀は禁令を無視し、常に紗綾・縮緬・綸子の類を着ていて、晴れがましい場所では緞子・綸子を着ました。五代将軍綱吉の上野への御成りの時に、黒門前に桟敷を架けて幕を打たせ緋縮緬の大振り袖を着せたお供の禿(かむろ)を連れ、御簾を巻かせて拝しました。綱吉の上意で石川夫婦は遠島を命じられます。

1683年の天和の奢多禁止令では江戸庶民の女性に金糸を用いた刺繍織物、総鹿の子絞りの着物の着用を厳禁し、小袖の値段は銀200目・金4両までとしました。1718年享保3年)の「町触」の公布にあわせて、奉行所は町人の贅沢な下着まで監視し、1745年延享2年)には違反した衣料を着た町人がいれば、その場で没収する指示が出されています。

我が国の養蚕業は明治時代に飛躍的に発展しましたが、清でも製糸業の近代化が進められました。日本最初の近代的製糸工場富岡製糸場1872年)と中国の寶昌糸廠の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師ポール・ブリュナーでした。

生糸は明治・大正時代の主要な外貨獲得源となり、1888年(明治21年)には生糸が輸出総額の63.6%を占め、1909年(明治42年)に日本の生糸生産量は世界一になりました。生糸輸出で得た外貨で海外の近代産業技術を輸入しえた意味では、生糸は日本の近代産業の生みの親です。

国産の生糸の生産量は第二次世界大戦前には4万tで、戦後も1950年代には世界の生産の60%を占めていましたが、1967年(昭和42年)に輸出国から輸入国に転落しました。現在は僅か280tと日本の絹の衰退は劇的です。一方世界の生糸生産量は1951年の2万tから2012年には16万tに増加しました。1950年代には世界の20%だった中国の生産量が2012年には80%を占めています。

19世紀末にレーヨンが発明され、我が国では人絹と呼ばれて絹の分野を蚕食し、戦前から開発されていたナイロンも、戦後絹の生産を圧迫しました。特に婦人用ストッキングでは完全に絹を駆逐し、絹の光沢と風合いをもつ合成繊維は着物の分野にも進出してきます。

高級品のシルクは先進国で根強い需要があり、合成繊維の出現はあっても消費が伸びています。日本は絹の需要が一貫して減少し、1975年の2万8,000tから2012年には1万1,000tにまで激減しました。

戦後70年経った現在、和服を日常着とする女性はいなくなりました。日本旅館や料理屋の仲居さん、芸者やバーのホステスなど仕事で和服を着ている人たちはいますが、和服は成人式や卒業式、結婚式などの限られた場での晴れ着になってしまいました。世界中で民族衣装に代わってTシャツとジーパンが普及していますから、あまり活動的とは云えない和服が日常着でなくなったのは当然かも知れません。

格調の高い正装用の着物は絵羽模様で柄付けがされています。絵羽模様は反物を着物の形に仮縫いして下絵を描き、脇や衽と前身頃の縫い目、背縫いなどの縫い目で模様が繋がるように染め上げます。

おめでたい場所で着る礼装用の着物には七宝・橘・鳳凰・鶴・亀などの「吉祥模様」や、豪華で華やかな檜扇・宝舟・貝桶・御殿・薬玉などの「古典模様」が使われます。

留袖は既婚女性の正装で、生地は地模様の無い黒い縮緬で五つ紋をつけ、絵羽模様が腰より下の位置に置かれます。宮中では黒は使われないので参内する女性は色留袖です。振袖は未婚女性用の絵羽模様の正装ですが、花嫁衣装などは大振袖、成人式などは中振袖が多いようで小紋や無地もあります。

 

訪問着は既婚、未婚の別のない絵羽模様の正装で、肩から裾に流れるような模様が描かれていて、裾にだけ模様が入っている色留袖とは異なります。付け下げは訪問着を簡略化した略式礼装で、絵羽模様ではなく反物の状態のまま染め上げ、縫い上がりで訪問着と同じ位置に柄が来ます。

 

紬は色合いが渋く絹らしい光沢を持たない反物で、大島など粋で高価ですが正装には用いられません。元々はくず繭をつぶして真綿にし、真綿から紡ぎだしたのが紬糸で、紬糸は手で撚りをかけるため太さが均一ではありません。耐久性に非常に優れ、日常の衣類や野良着として数代に渡って着繋がれました。江戸時代贅沢禁止令が出た折には、遠目には木綿に見える紬を木綿と言い張って富裕な町人たちが好んで着たと云われます。

足利銘仙は江戸時代中期からの平織物です。もともとは正常に糸をとれない「玉繭」や「屑繭」から採った太い糸を緯糸に用いた丈夫な平織物で、寝具などにも用いられます。江戸時代後半に庶民の間に広まり「銘仙」と呼ばれるようになりました。

明治から大正時代に経糸と緯糸を故意にずらした、色の境界がぼやけて見栄えのする銘仙が流行りました。明治中期の学習院の華族女学校では通学の服装が華美に過ぎたため、当時の院長乃木将軍が通学着を銘仙程度と定めたと云われます。

戦前の我が国の女性は日常着として着物を着ていましたが、戦時中の活動には和服は不向きで、男性は国民服を、女性も「婦人標準服」を着せられました。敗戦後空襲で家を焼かれずに済んだ女性たちは和服に戻り、中年以上の女性は1975年頃までは着物を着ていました。華道・茶道・琴など我が国の伝統的な女性の習い事が盛んだった頃は、若い人も着物を着る機会は多かったようです。

和服はきりっとした直線が目立ち、形で洋服に引けは取りません。強烈な日光の下では洋服の原色に負けますが、曇りの日や室内では和服の繊細な色合いが映えます。和服は豪華を極めた衣装です。我が国伝統の正装として永く着用し続け、広く世界に和服の美を伝えてほしいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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国会待機

2018-02-21 06:25:58 | 日記

 

 

国会待機とは、国会議員からの質問に対する内閣の答えを作成するための中央省庁職員の居残りです。2016年に当時の国家公員制度担当大臣であった河野太郎氏が行った、通常国会中の4月と5月の国会待機の実態調査があります。

議員からの質問通告が出揃うのは平均で前日の20時41分、最も早い例が17時50分、最も遅い例は24時30分でした。通告を受けた質問について担当が確定するのが平均で22時40分、最も早い例で18時50分、最も遅い例は翌日の3時で、通告を受ける質問の数は1日平均49問、質問のない省もありますが最も多い省庁は122問でした。

勤務終了時刻を過ぎても質問通告が出揃うまで、省内全局に待機を掛けるのが10省庁、省庁が必要と判断する局のみ待機させるのが7省庁でした。通告状況に応じて待機する局を縮小または解除している省庁は13省庁で、すべての局に待機させ続けている省庁が4省庁、省庁としての指示がなくても各局の判断で待機体制を縮小している局が15局ありました。

待機して実際に答弁作成に携わった課は4月が30/42課、5月が25/39課で、待機人数に対して答弁作成に関わった人数の割合は4月44.5%、5月37.3%でした。翌日所管委員会がある日は4月に452人、5月に491人が待機しており、そのほかの日には237人が待機していました。国会待機がかかると帰宅できる時間はいつになるかまったく分かりません。

国会の日程の立て方、質問通告の締め切り時間、質問を受けた後の答弁の作成の仕方と上司の了承のもらい方等々、国会と霞が関の双方で仕事のやり方を改善する必要がありそうだと云うのが、国家公務員制度担当大臣としての河野氏のまとめでした。

通常国会は150日で、臨時国会は50~60日あります。年間の約6割の日々が中央省庁の国会待機日になります。30年前の文部省と厚生省の国会待機の事情は私も多少は窺い知っていますが、現在も当時とはまったく変わっていないようです。

国会で国政に関して内閣の見解をただす行為を質問と呼び、会議での口頭の質疑と、質問主意書を提出して文書で答弁を受ける2つの形式があります。国会での質疑については前日夕方に議員会館に各省庁の職員が呼ばれ、議員が職員と対面して質問内容を伝える形をとっています。質問内容に関連する局課が待機するのはもちろんのこと、質問内容の範囲の全容が分かるまでは全局課の職員が待機します。

質問主意書は両院議長に提出し議長の承認を受けた質問が内閣に送られ、内閣は7日以内に文書で答弁するものです。議院事務局への質問主意書の提出は時間の制限がないので国会開会中いつ提出されるか分からず、提出されればすぐに答弁の作成に着手しなければ答弁の期限に間に合いません。答弁書作成に関与する立場の全省庁の職員は、自分が担当すべき質問主意書が提出されていないことが確認できるまで連日待機を要求されます。

答弁作成が複数省庁にまたがる場合は、質問主意書の主題と最も関係が深いか答弁の重要な部分を担当する省庁が全体の取りまとめを行います。作成された答弁案は執筆した各省庁の法令担当課と内閣法制局で、2~3日かけて答弁の適確さ、現行法令との整合性、用語・用字などにわたる審査と修正を終え、内閣総務官室や与党国会対策委員長への内容を説明した後、閣議決定を経て提出議院の議長に答弁書が届けられます。

ひとたび答弁書の作成担当者になると、関係者は閣議請議手続きを終えるまで連日の深夜残業となり、その間他の業務はすべてストップします。答弁書作成者の負担が重くなる原因は7日以内と云う回答期限です。閣議は火・金の週2回に限られ、閣議への請議手続きは閣議の2営業日前の正午が期限とされているため、実際の回答期限は7日よりずっと短くなります。

答弁の作成のほかに大量の参考資料を用意し、細かく決められた形式に書類を整え、大臣以下の決裁をとる膨大な事務作業をこなさなければなりません。すべての業務に優先してどんなに迅速に対応しても、必ず連日深夜まで残業しないと間に合わないのです。

 

霞が関の職員だからと云って全員が終電まで働いているわけではありませんが、国家公務員総合職試験での採用職員は間違いなく重要かつ忙しいポストに就き、終電、タクシー帰り、泊まりは、当たり前のようです。
中央省庁の職員は予算編成作業の時期と国会対応の期間が特に忙しく、さまざまな対応に追われて職場に泊まり込むことになります。いちばん残業が多かったときは年間で50日ぐらい職場に泊まり込んだが、日付が変わっての深夜帰宅も50日ぐらいあったと云う打ち明け話もあります。タクシー代は自弁です。

超過勤務手当も残業した分出るわけではなく、一般職の場合休日出勤しても手当は付きません。超過勤務は土日を含めて月に280時間ということもあったが、その時の手当は18時間だったと云う話も聞こえてきます。
日本国憲法三権分立で立法機関は国会ですが、国会議員が提出する議員立法もあるものの、法案の多くは行政権を担う内閣から出されていて中央省庁の職員が作成しています。

内閣提出法案は原案の作成に始まり、内閣法制局の審査、閣議決定、国会審議を経て成立し公布されますが、法案の作成は5人から6人のプロジェクトチームで行われ、40歳前後のキャリア官僚が統括し、30歳台のキャリアが作成を指揮します。

法案作成は霞が関の官僚にとっては最も大きな仕事で、通称タコ部屋に朝から晩までこもり、半年以上かけて行われる過酷な作業です。タコ部屋労働とは主に戦前北海道労働者を長期間拘束して行われた、非人間的環境下における過酷な肉体労働を指します。使役された労働者をタコと呼び、タコを監禁した部屋をタコ部屋と呼びました。

似たような状況は九州炭鉱地帯にも見られました。現代の日本では労働基準法第5条によりタコ部屋労働は禁止されていますが、中央省庁には内部でタコ部屋と自嘲する超過酷な労働が存在するのです。

タコ部屋の若年職員は朝9時半頃にタコ部屋のソファで起床、午前中資料のまとめ、午後に関係省庁との調整や議事録の作成、20時を回る頃から修正作業の傍ら雑用をこなし、23時過ぎに自分が担当する条文の修正作業を終えてタコ部屋で休憩、3時から4時頃に条文修正案が出揃ってからソファ・簡易ベッドで眠り、家に帰るのは週に1、2度の生活が数か月続くと経験談が伝わっています。官僚にとって法案作成はやりがいのある仕事であることに間違はいなく、みんなが誇りを持っているからこそ勤まっていると云われます。

「霞が関国家公務員労働組合共闘会議」は霞が関の中央省庁に勤める4万5千人の国家公務員が、年間に総額132億円のサービス残業をしているとの試算を発表しています。これが実態なのでしょう。

国家公務員と地方公務員とは公務員であることに変わりはありませんが、地方公務員が労働基準法(労基法)の適用を受けるのに対し、国家公務員は労基法の適用を受けないことで、両者はまったく異なります。

国家公務員法附則第16条で、労基法並びにこれらの法律に基づいて発せられる命令は第2条の一般職には適用しないとされ、労働組合法 (昭和 24年法律第 174号), 労働関係調整法 (昭和21年法律第25号)、労働基準法(昭和22年法律第49号)の労働三法は、一般職国家公務員への適用が排除されています。

労働三法の中で最も早く制定されたのは労基法でした。労基法は元々、国、都道府県、市町村その他の公共団体すべてに全面適用されることになっていました。

昭和21年3月1日から施行された旧労組法(昭和20年法律第51号)4条1項で、警察官吏・消防職員・監獄に勤務する者については労働組合の結成・加入が禁止され、10月13日から施行された労調法38条で、非現業公務員は国家・地方を問わずすべて争議行為を禁止されました。

労調法で現業公務員の抜打争議も禁止されましたが、それ以外は民間企業の労働者と同様の権利が認められていて、昭和23年7月1日から施行された国公法(昭和22年法律第120号)も、この状況に基本的な変更を加えていません。

ところが1948年(昭和23年) 7月22日のマッカーサー書簡と、これを受けて制定された政令201号でこの状況が一変します。マッカーサー書簡は「日本の政府機関又はその従属団体に地位を有するものは、何人といえども争議行為をしてはならない」とし、政令201号も国又は地方公共団体の職員の地位にある者の争議行為を禁止しました。

マッカーサー書簡以前にGHQから示された国公法改正案では争議行為の禁止規定はあるものの、労動三法の適用除外規定はありませんでした。ところがマッカーサー書簡後にGHQから示された国公法改正案(昭和 23・7・23 付)では、附則17条で労組法・労調法・労基法・船員法ならびにこれらの法律の規定に基づいて発せられる法令が、一般職国家公務員には適用されないことにされていました。

昭和23年の国公法改正(国家公務員法の一部を改正する法律 昭和23年法律第222号)では、マッカーサー書簡の趣旨を明確にするために国公法附則16条で労組法・労基法等の適用を除外しました。

改正法では「国公法とは別に国家公務員の勤務条件を定める法律を制定施行するまでの間、労基法、船員法等の規定を準用する」とした附則3条1項が設けられ、同条2項で「前項の場合において必要な事項は、人事院規則で定める」 としました。しかしその後3条2項に云う人事院規則は制定されず、現在も、国家公務員については労基法の準用もなされていません。

中央省庁の一般職への労基法の適用を除外する我が国ですから当然なのかもしれませんが、国際労働機関ILO第52号・第132号条約のほか、ILOの労働者保護に関する条約のほとんどを我が国は批准していません。

国会待機への河野大臣の問題意識には一応敬意を表しますが、河野大臣の云う「ごまめの歯ぎしり」に終わっていては、調査をした意義はまったくないでしょう。質疑の通告を2日前に行う取り決めを励行し、質問主意書の答弁の期日を10日か14日に延ばせば、中央省庁の国会待機の負担は大幅に軽減されるのです。

我が国の議院内閣制では、議会が選出した首相が組閣した内閣が行政権を担い、内閣は議会に対して政治責任を負います。内閣の構成員は大部分が議員ですが、必ずしも各省庁の大臣が担当の行政に精通しているわけではなく、実質的に国の行政を担当しているのは大勢の国家公務員です。

我が国では国公法で禁止されていて国家公務員の労働争議がおこらないからと云って、戦後70年間国会待機について何等の改善もしてこなかった国会議員には、共に国政を担う立場の国家公務員に対するなんの配慮も見られません。

その配慮のなさは、すべての国民に対する思いやりのなさに通じるものです。中央省庁の職員がどんなに忙しくても、充分睡眠がとれるだけの実働時間の制限は、基本的人権に関する問題として人事院規則で定めるべきです。

国家公務員は世間の一部が誤解しているように、ただ、甘やかされているわけではありません。膨大なサービス残業を要する国会待機はまったく無駄が多く、ただでさえ忙しい中央省庁の行政を阻害しています。規則の改正をしないまでも、国会議員の側から適切な改善を図って然るべき課題でしょう。

 

 

 


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隅田川の橋

2018-02-14 06:13:07 | 日記

隅田川に架けられた最初の橋は、江戸時代の1594年(文禄3年)の千住大橋です。現在より200m上流の「渡裸(とら)川の渡し」のあった古い街道筋に架けられた橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋は大変な難工事だったようです。

隅田川の渡しでもっとも古いのは「橋場の渡し」で、835年(承和2年)の太宰官符に記録があり平安時代にすでに水路と陸路の要衡の地でした。明治時代には18か所の渡しがあったと云われますが、1964年(昭和39年)「佃の渡し」を最後に渡しはなくなります。

大橋の架橋後それまで「橋場の渡し」を経由していた佐倉街道奥州街道水戸街道の街道筋がこの橋を経由するようになりました。幕府は江戸の防備上、これ以外の橋の架橋を認めませんでしたが、1661年(寛文元年)の明暦の大火で避難路がなかったことから両国橋を架けました。元禄年間に新大橋永代橋、1774年(安永3年)に吾妻橋が架橋され、江戸時代の橋は5橋になりました。

千住大橋は6回の改架・改修が行われていますが、1594年の架橋から1885年(明治18年)までの300年間、台風による橋の流出はありませんでした。翌1886年に二重の太鼓橋の木橋に架け替えられ、1927年(昭和2年)に関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の鉄橋になりました。

千住大橋は国道4号が通っており、1973年(昭和48年)に交通量の増大で下流側に接して新橋が架けられ、現在、旧橋が下り方向、新橋が上り方向の2橋で構成されています。

旧橋は1927年(昭和2年)竣工の鋼タイドアーチ橋で、橋長 91.6m、幅員 24.2mです。新橋は1973年( 昭和48年)竣工の3径間連続鋼箱桁橋で橋長 502.5m、南千住交差点をオーバーパスする陸橋部が含まれています。

1872年(明治5年)に永代橋新大橋両国橋吾妻橋が明治政府の直轄橋梁に指定され、1874年(明治7年)厩橋、1903年(明治36年)相生橋が架橋されました。1913年(大正3年)に白鬚橋が架橋されます。

木造だった隅田川の橋は関東大震災で焼失して避難路が絶たれ、多数の焼死者を出しました。震災後は鉄橋が計画されて、内務省が隅田川六橋(永代橋・清洲橋蔵前橋駒形橋言問橋相生橋)を架け替え、東京市両国橋厩橋・吾妻橋を架け替えました。

戦前に架橋された永代橋・清洲橋・勝鬨橋(かちどきばし)は重要文化財に指定され、蔵前橋・厩橋・駒形橋・吾妻橋・白鬚橋・両国橋・言問橋が東京都選定歴史的建造物に指定されています。戦後の架橋は住大橋の新橋・水神大橋桜橋新大橋隅田川大橋・相生橋・中央大橋佃大橋です。

蔵前橋は関東大震災後の昭和2年に架けられた現在の橋が初代の橋です。江戸幕府の米蔵は大阪、京都二条、浅草御蔵の三つで、浅草御蔵の御蔵前が蔵前橋の名の起こりです。厩橋は「春日通り」、駒形橋は「浅草通り」、吾妻橋は「雷門通り」にあって江戸時代の最後に架橋された橋です。白髭橋は「明治通り」にあります。

言問橋は1928年(昭和3年)の竣工でゲルバー式鋼板桁、橋長236.8m、幅員22.0mです。「言問通り」に接しており、橋名は在原業平の「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」との歌に由来します。

国の重要文化財(建造物)に指定されている清洲橋・永代橋・勝鬨橋のうち、清洲橋と永代橋は関東大震災後の帝都復興事業のシンボルです。勝鬨橋はわが国で最大規模の跳開橋として、当時の最先端の技術を駆使して建設された橋です。

 

清洲橋は中央区日本橋中洲と江東区清澄1丁目を「清洲橋通り」で結びます。1928年(昭和3年)の竣工です。もとは「中州の渡し」の場所です。下流の永代橋と対をなす橋として「震災復興の華」と呼ばれた優美な吊り橋で、世界で最も美しいとされたライン川のケルンの吊り橋をモデルにしました。

男性美の永代橋に対して女性美の清洲橋と云われますが、近くで見ると構造的にはがっしりしています。隅田川の橋はライトアップされているものがあり、清洲橋のライトアップはピンクです。 

現在の永代橋は1926年(大正15年)の竣工で、中央区新川1丁目と江東区永代1丁目を「永代通り」で結びます。放物線状の大規模アーチ橋で、アーチは幅1.5m以上の鋼製でその裾はゆるやかな曲線でまとめられ、豪快であり優雅なデザインです。橋長185.2メートル、幅員22メートル、ケーソン工法など当時の日本では珍しい技術を採用した斬新な橋梁です。

初代の橋は1698年(元禄11年)五代将軍徳川綱吉の五十歳を祝って「永代橋」と名付けられました。橋の長さは110間(約200m)で橋の下を船が通るために、大潮のときでも3m以上の桁下が確保されていた巨大な木橋でした。「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と称される見晴らしの良い橋であったと云われています。

永代橋は数々の事件や事故の舞台になりました。1702年元禄15年)赤穂浪士が両国の吉良屋敷へ討ち入り、上野介の首を掲げて泉岳寺へ向い大川を渡ったのも永代橋です。

1807年(文化4年)には日本史上最大といわれる落橋事故が発生しました。江戸三大祭の一つ深川富岡八幡宮の祭礼が30年ぶりに開催され、久しぶりの祭礼に将軍家が船で繰り出して橋を通行止めにしましたが、通行止め解除後に大群衆が一斉に渡り始めて崩壊したのです。

後続の群衆が崩落に気づかずに押し寄せたため、前の人々は押し出されて次々に転落して死者・行方不明者は千人を超えました。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が欄干上で刀を振るって群衆を制止した逸話が残っています。

「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」の狂歌と、歌舞伎「八幡祭小望月賑」落語「永代橋」など、この事故を舞台とした数々の作品が残されています。

以後も度重なる流失事故があり架け替えは幾度も行われましたが、いつの時代にも永代橋は江戸の名物で、葛飾北斎の「絵本隅田川両岸一覧」安藤広重の「名所江戸百景」などには色々な姿が描かれています。

1897年明治30年)道路橋として日本初の鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋されました。鋼材を使用した橋でしたが床組が木造だったため、関東大震災では近隣からの飛び火で橋に持ち込まれた家財道具とともに延焼、多数の焼死者と溺死者を出し、1926年大正15年)に震災復興事業の第一号として現在の橋が架橋されています。

 

勝鬨橋は1940年(昭和15年)に竣工した築地と月島を晴海通りで結ぶ隅田川の最下流の橋で、国内唯一のシカゴ型双葉式跳開橋です。全長250mの中央部44mが跳ね上がり、最大70度まで左右に開き大型船が通行できます。

1905年明治38年)1月18日日露戦争における旅順陥落祝勝記念として築地と対岸の月島の間を結ぶ「勝鬨の渡し」が設置されました。埋め立てが完了した月島には石川島造船所の工場などが完成しており、多数の交通需要があったため1929年昭和4年)に架橋が決まりました。

当時は隅田川を航行する船舶が多く、陸運よりも水運を優先させて3,000t級の船舶の航行可能な可動橋として設計されました。勝鬨橋の工事は1933年に着工され1940年6月14日に完成して、東洋一の可動橋の評判を得ました。当時東京市に在職していた母方の伯父が、勝鬨橋の設計に携わって学位を取得しています。

 

戦後1947年(昭和22年)から1968年まで都電が通行していました。設置当初は1日に5回、1回20分程度橋を跳ね上げていましたが、1953年頃から船舶通航量の減少と道路交通量の増大で回数が減り、上流に佃大橋が建設された1964年以降は船舶通航が乾倉庫に限定されて、開閉回数は年間100回を下回るようになりました。

1967年には通航のための最後の開閉が行われ、その後は年に一度試験開閉が行われていましたが、1970年11月29日を最後に開閉が停止されました。1998年より夜間ライトアップが行われています。

勝鬨橋は両端部がアーチ橋で、中央部が上方に開く構造となっています。開く角度は最大70度で、70秒で全開になります。橋の可動部は片側だけで重量900tの橋本体と軸を挟んだ重量1,100tのカウンターウェイトで構成されていて、橋梁内部にある直流モーターとギアで動かすようになっています。

開閉部の合わせ目は運用当時から電動式のロックピン機構が備わり、現在もこのロックピンによって固定されているため、特殊車両の通行は重量40tまでに制限されています。

 

隅田川の花火大会は浅草(右岸)と向島(左岸)周辺の河川敷で、毎年7月最終土曜日に行われます。この花火大会は1732年大飢饉とコレラで、江戸に多くの死者が出たため八代将軍吉宗が大川端で催した「川施餓鬼」に遡ります。

1733年(享保18年)に幕府は前年にならって、川施餓鬼とあわせて慰霊と悪病退散を祈願する目的で両国の川開きの日に水神祭を実施し、花火を打ち上げたのが現在の花火大会のルーツです。

当時は20発前後の花火で最初期は鍵屋が打ち上げを担当しました。鍵屋の江戸創業は1659年で、7代目鍵屋の番頭(玉屋清吉)が暖簾分けで1808年に玉屋を創業し腕を競い合いました。

鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたので、観客はよいと思った業者の名を呼び、これが花火見物の「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来となりました。当時評判がよかったのは玉屋です。

玉屋は幕末期(1843年)に失火して町並みを半丁ほど焼失させ、江戸処払いを命じられて一代限りで断絶しました。一方の鍵屋は日本最古の花火会社「株式会社宗家花火鍵屋」として現存しています。同心円状に飛散する花火を明治期に普及させたのが鍵屋です。

両国の花火は明治維新第二次世界大戦などで度々中断しました。1961年から1977年までも交通事情の悪化や、隅田川の水質汚濁による悪臭により中断されましたが、1978年に「隅田川花火大会」と名称を変えて復活し毎年続けられています。

100万人近い人出があるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がります。私は屋形船で花火大会を観たことがありますが、まことに壮観でした。

 

隅田川沿いは八代将軍吉宗の命によって植えられた桜の名所で、桜橋から吾妻橋までの両岸に1,000本が咲き誇る都内屈指の桜の名所です。桜橋は台東区墨田区の提携事業で1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用の橋で、両岸の隅田公園を結ぶ役割を持ちます。X字形の特異な形で花見のシーズンには両岸の桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡ります。

 

隅田川には橋桁に遮られずに川が見渡せる橋がほかにもありますが、道路橋ではありませんが東武伊勢崎線隅田川橋梁も、橋桁に妨げられずに隅田川が眺められます。設計者は帝都復興院で永代橋清洲橋の橋梁群を手掛け、総武線隅田川橋梁にも関わった帝大教授の田中豊氏で、当時東武鉄道にいた父親が恩師の橋の施工責任者を務めました。

東武鉄橋は中路カンチレバーワーレントラスと呼ばれるトラス橋で、トラス橋は鉄骨で三角形を組み合わせる構造ですが、通常は列車が鉄橋の下側を通過する下路式です。東武鉄橋は線路がトラスの上3分の2の高さにある中路式でトラスの鉄骨が乗客の視界を遮らず、列車がゆっくり走行するのと相まって車窓から隅田川の景色を見渡せます。

 

橋の景観は橋の上を通ったのではまったく分かりません。隅田川の橋を見るのなら絶対のお勧めは水上バスです。手ごろな時間と手ごろな料金で、次から次へと迫ってくる橋を水上から眺めるのは大迫力で、それぞれに異なる形の橋の景観を心行くまで楽しめます。水上と地上とでこれほど眺めが違うかと思われる別天地です。一度は経験されることをお勧めします。

 

 


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黄金の国ジパング

2018-02-07 06:12:13 | 日記

マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、ジパングはカタイ中国大陸)の東の海上1500マイルに位置する島国で莫大な金を産出し、王の宮殿は金でできていると書かれています。

 モンゴルクビライが送ったジパング征服の軍は暴風で船団が壊滅し、生き残って島に取り残された兵士たちは、この島国で暮らすことを認められて住み着いたと云う記述もあり、「元寇の役」をかなり正確に伝えています。

平安時代末期の奥州は莫大なを産出していて、マルコ・ポーロのジパングの話は奥州藤原氏平泉中尊寺金色堂がモデルとされますが、果して日本は歴史的に見て黄金の国だったのでしょうか。

金は風化の結果で生まれた金塊や砂金が採集できたため、精錬が必要ななどよりも早くから人類が利用してきた金属です。展性・延性に優れ、1gあれば数㎡まで広げることができ、長さでは3,000mまで延ばすことができます。金は装飾品として利用された最古の金属で、貨幣としても流通してきました。

金は紀元前3000年代には使われ始め、古代エジプトのヒエログリフ(エジプト文字)には紀元前2600年頃から金についての記述が見られ、エジプトとヌビアは有数の金の産出地でした。最古の金属貨幣は紀元前670年頃にリディアアリュアッテス2世王により造られたエレクトロン貨で、天然の金銀合金に動物や人物を打刻しています。

中国では時代(紀元前16世紀~11世紀頃)にすでに装飾品として金が使われ、春秋戦国時代紀元前770年~221年)には貨幣や象嵌材料として使用されました。

日本での古代の金の製品としては、福岡県志賀島で発見された漢委奴国王印があります。古墳時代には奈良県東大寺山古墳出土の「中平」銘鉄剣や埼玉県稲荷山古墳出土の「辛亥」銘鉄剣などに、鉄地に金線を埋め込んだ金象嵌がみられます。

奈良時代までの日本は金を産出せず、朝鮮半島新羅高句麗から輸入されました。749年奥州で砂金が発見されたと云う百済王敬福の記述があり、8世紀後半からは逆に渤海・新羅などへ輸出され、遣唐使の滞在費用として砂金が持ち込まれて、後の「黄金の国」のイメージが作られました。

奥州藤原氏は前九年の役後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)まで、平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った豪族です。産金による経済力を背景にした平泉文化が栄え、中尊寺金色堂マルコ・ポーロが紹介した黄金の国のモデルになったとされます。

 

金は耐食性・導電性・低い電気抵抗などの優れた特性を持ち、20世紀になってから工業金属として様々な分野で使用されています。近年、廃棄された工業製品(携帯電話などの電子基板)を溶解し、金・リチウムなどの貴金属やレアメタルを回収するのを都市鉱山と呼んでいます。

金は自然金として得られることがほとんどです。金は火成岩中にも極微量に含まれますが採算が取れるほど固まって産出されるのはまれです。通常、石英炭酸塩、まれに硫化物の鉱脈の中に自然金として存在します。硫化物では黄鉄鉱黄銅鉱方鉛鉱閃亜鉛鉱硫砒鉄鉱輝安鉱磁硫鉄鉱などの鉱床に含まれています。鉱床は風化や浸食を受け、金は砂金として小川などに流れ出ます。

 金鉱山が経営的に成り立つには、平均して1,000 kgあたり0.5gの金を産出する必要があります。典型的な鉱山では露天掘りで1~5g/1,000 kg、通常の鉱山で3g/1,000 kg程度です。人間の目で見て金と分るには鉱脈型の鉱床で少なくとも30g/1,000 kg程度の濃度が必要です。

南アフリカ共和国1880年代から世界の金の3分の2を産出していましたが、2004年時点では3分の1まで比率が低下しました。2009年の金産出国ランキングでは1位が中国で320t、2位アメリカ223t、3位オーストラリア222t、4位南アフリカ共和国189t、5位ロシアの191tで世界の合計は2.450tです。

イギリスの貴金属調査会社トムソン・ロイターGFMS社の統計によれば、2014年末時点までに採掘され精製加工された金の総量は183,600tになります。主要各国の保有量はアメリカ8,134t、ドイツ3,413t、フランス2,541t、イタリア2,452t、スイス1,064t、日本765t、オランダ621t、中国600t、インド358tです。

我が国では戦国時代に甲斐の黒川金山湯之奥金山で、金山衆により採掘された金鉱石を精錬して金を生産していました。佐渡の金脈はまだ発見されておらず山の反対側で鶴子銀山が採掘されていました。

今昔物語集」の巻二十六・第十五話では「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」と佐渡で金が採れることを伝えています。11世紀後半には砂金などの形で佐渡で金が出ることが知られていたようです。

佐渡鉱山の歴史は1601年(慶長6年)に、相川の鶴子銀山で銀の採掘をしていた3人の山師が金銀鉱脈を発見したことに始まると伝えられます。1603年(慶長8年)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は佐渡を直ちに直轄領とし、甲斐の出身で金採掘に詳しい大久保長安を奉行として、最大鉱脈の青盤脈をはじめ露天掘りの道遊脈・大切脈・鳥越脈などの採掘を相次いで開始しました。

1600年代前半の最盛期には年間に金400kg、銀40t以上を産出して日本最大の金銀山となり、幕末まで約270年間にわたり計41tの金が採掘されて江戸幕府の財政基盤を支えました。

江戸時代中期からは産出量が衰退してしまい、1869年(明治2年)明治政府は西洋人技術者を送り込んで、1877年(明治10年)には洋式技術を用いた選鉱場と、日本金属鉱山では初めての洋式竪坑(たてこう)の大立竪坑が竣工しました。

1885年(明治18年)貨幣制度を金本位制へ移行するため、明治新政府は佐渡鉱山のさらなる増産を目指します。佐渡鉱山局長に大島高任を任じ、高任立坑の開削、ドイツ式の新技術による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを次々に行いました。その後生野鉱山などと共に1896年(明治29年)に三菱合資会社に払い下げられ、佐渡金山は急成長を遂げます。

明治後期には動力の電化など機械化を進め、佐渡の産金量は年間400kgを超える江戸時代最盛期並みに盛り返しました。三菱の近代的採鉱・選鉱技術は93年間に33tの金を産出し大きく貢献しました。

佐渡鉱山は日本最大級の金山としては歴史の幕を下ろしましたが、操業を休止したのはごく最近の1989年(平成元年)です。総計で金78t、銀2,300tを産出しました。現在は「史跡佐渡金山」として一般公開されており、世界遺産への登録を目指しています。

 玉山金山は陸前高田を産出した鉱山で、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にある「その金は掘れども尽きず」が玉山金山であるとされます。「陸奥の金」として日本で初めて金が発見された金山の1つで、天平の時代にもすでに砂金を産出していました。

その産金は奈良東大寺の大仏に使われたほか奥州藤原氏の黄金文化を支え、中尊寺金色堂にその膨大の産金量が見て取れます。藤原清衡が10万5千両の金をに贈り、朝廷に年々4貫目の金を朝貢して殿上人を羨望せしめたと云われます。平重盛が唐の育王山に寄贈した3千5百両の金も玉山産出です。

豊臣秀吉は玉山を直轄として金山奉行を配し、その後は伊達氏の所有となり伊達政宗以降三代の栄華の源となったほか、慶長遣欧使節に要した費用はすべて玉山の産金によるものと云われます。1673年頃からは次第に産金量が減りました。

和右ェ門坑は1611年に小野寺源太郎が3か月で140万両の金を掘り出したと云われており、玉山で最も多く金を産出した坑道です。1904年明治37年)に日本銀行副総裁の高橋是清日露戦争の軍資金として、欧米から8億円借入れた時に玉山金山を抵当にしています。

大葛鉱山(おおくぞこうざん)は秋田県大館市にあった鉱山で、主にを産出したため大葛金山とも呼びます。発見は708年とされ東大寺仏像鋳造に献金し、金閣寺造営にも献金したと云われます。

西伊豆の土肥金山は1577年(天正5年)に発見され、佐渡と並んで幕府直轄の金鉱山として採掘されました。ここで掘られた金40t、銀400tは葵定紋の千石船で江戸に運ばれ、慶長大判・小判の地金となっています。1970年(昭和45年)に廃坑になりましたが、資料館「黄金館」にはギネス認定の250kgの大金塊が常設展示されています。

 かつて日本国内に存在していた多くの金鉱山は江戸時代前期の寛永年間以降徐々に産出量が減って、大正昭和初期に東洋一の金山と云われた北海道鴻之舞金山も採算ベースに乗る金を掘り尽くし、1973年(昭和48年)に閉山しました。現在我が国では唯一菱刈鉱山が、1985年(昭和60年)から採掘されているのみです。

菱刈鉱山は鹿児島県北部にあります。1985年の出鉱開始以来2017年3月末現在までに230.2tと、佐渡の82.9t、鴻之舞の73.2tの3倍の金を産出しました。現在も年間6〜7tの金を産出しています。

菱刈鉱山の金鉱石は1tあたり30〜40gの金を含んでいます。世界の平均的な含有量は鉱石1tあたり3gなので、金の含有率が非常に高いのが特徴です。菱刈鉱山の坑道は標高265mの坑口から海抜マイナス50mまで、あわせて100㎞以上あり大型の鉱山用重機が自由に動ける大きさの坑道が網の目のように巡らされています。

金属鉱業事業団が江戸時代に産金地であった菱刈で昭和40年代より金鉱探査を行って、1981年(昭和56年)に鉱脈を発見しました。1985年から住友金属鉱山が採鉱しており、菱刈鉱山の産金量は年間国内産金量のほぼすべてを占めます。

菱刈の金埋蔵量は250tと推定され、これは国内の他の主要金山すべてを合計したものを上回る大規模なものです。1997年(平成9年)には鉱山の累計産金量が国内トップの83tとなり、2012年(平成24年)には新たな鉱脈も発見されました。

青森県の恐山では温泉沈殿物として金の異常濃集体が発見されています。金の含有量は鉱石1t当たり平均400g、場所によっては6,500gにも達しますが、この一帯は国定公園に指定されている上に、土壌には高濃度の砒素が含まれていて作業者の生命にも危険が及ぶため、商業目的の金の採掘は不可能です。砂金が恐山のお土産に売られています。

我が国の国土面積は378,000 km²で、世界の総陸地面積148,940,000 km2の0.25%に過ぎませんが、日本に「地上資源」ないし「都市鉱山」として存在する金は約6,800tあり、全世界の金の現有埋蔵量の16%に及ぶと云われます。この数字をもって現代の日本も、黄金の国ジパングと考えることが出来るかどうか、みなさんのお考えはいかがでしょう。

 

 


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