絹は1個の繭から800m~1,200mとれる天然繊維の中で唯一の長繊維です。あらゆる繊維のうちで一番上品で光沢があり、繊維が細くて長く強いので、地薄な羅(ら)や紗(しゃ)から、地厚な絨毯まで織れます。
繭から引き出した極細の糸を数本揃えた繰糸の状態の絹糸を生糸(きいと)と云い、生糸から膠質成分を除いて光沢や柔軟さを引き出した絹糸を練糸(ねりいと)と呼びます。
絹は古くから高級織物に用いられてきましたが、代表的な織物には錦・綾・羅・唐織・繻子(しゅす)・緞子(どんす)・金銀襴(らん)・羽二重・縮緬(ちりめん)・綸子(りんず)・お召・銘仙・大島などの和服地があり、綴錦(つづれにしき)・博多織などの帯地や、ブロケード・タフタなど広幅に織り出した洋服地もあります。
絹の利用が始まったのは5,000~6,000年前の中国です。4,700年以上も前の銭山漾(せんざんよう)遺跡からは平織の古代絹が、漢代初期の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)からは錦や綾、刺繍した精緻な高級絹織物が出土されています。
絹織物は中国の王侯・貴族の独占物として国外に出すことを禁じられていましたが、紀元前4~3世紀には中近東からヨーロッパ・北アフリカを結ぶ東西交易路を通じて、地中海諸国に伝わりました。この交易路がシルクロードです。
日本へは弥生時代前期に九州へもたらされた絹の断片が出土しており、古墳時代中期から経錦(たてにしき)、後期から綾の出土があり、飛鳥・奈良時代には西日本から律令制の租税のうちの調として納められました。
蜀江錦は中国の蜀(四川省)の産で、奈良の法隆寺・東京国立博物館・根津美術館で見ることが出来ますが、若い時に見た法隆寺の蜀江錦は1300年以上の時を経たものとはとても思えないもので感動しました。
錦・綾・羅は当時の代表的高級織物で、絹・絁 (あしぎぬ) が一般的な絹織物ですが、奈良正倉院には1200年前の天平年間に丹後地方から聖武天皇へ献上された絁が保存されています。
中世の宋からの織物の輸入は僅かで、古代の伝統を引き継いだ国産の阿波絹・美濃八丈・常陸絹・石見紬などが生まれました。近世初頭には明から新しい織物技術が伝来し、綸子・唐織・緞子が国産化されました。絹の撚糸法が伝わると京都縮緬を生んで各地に広まり、丹後縮緬・岐阜縮緬・長浜縮緬が織られます。
京都西陣の名は1466年(文正二年)の応仁の乱で山名崇全の陣が置かれたことに由来しますが、西陣で織物を生産していた秦氏ゆかりの綾織物職人たちが1513年(永正10年)足利氏の下で京都での絹織物生産の独占を許され、1548年(天文17年)に足利家の被官となり「西陣」の地位が確立しました。
徳川家康は天下を取ったのち西陣を手厚く庇護しました。江戸時代初期は中国産生糸の輸入利益がポルトガル・中国・オランダの外国商人たちに独占されていたため、幕府は1604年(慶長9年)京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間をつくらせ、輸入生糸の価格決定と一括購入を支配させました。
1620年(元和6年)二代将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇の女御となり、西陣は嫁入り衣裳をすべて受注しました。五代将軍綱吉の母桂昌院は西陣の出で、高級織物の注文が大奥から西陣に殺到します。「西陣」の織物は18世紀初頭の元禄~享保年間に、富裕な町人の圧倒的な支持を受けて最盛期を迎えました。
西陣が生んだものに友禅染めがあります。京友禅は扇師宮崎友禅斎の考案で、古風な有職模様や琳派模様など高度に様式化された文様を得意とし、刺繍や金箔を効果的に使った装飾を用いています。
友禅染めはまず下絵を描き、下絵の上に防染剤で正確に輪郭線を置き、染色後に模様の輪郭に糸目状の白い線が残るのが友禅染のもっとも大きな特徴とされます。輪郭線で囲まれた模様に染料を染め付けていくのが「色挿し」で、次に生地全体の地色を染める「地染め」を行います。「友禅流し」は水のきれいな川で糊や余分な染料を洗い落とす工程です。
幕府は寛永年間(1624年~1645年)から蚕の品質改良を進めました。蚕種の代表的産地であった結城藩領を天領とし、同じく天領の陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みました。これに対して仙台藩・尾張藩・加賀藩などの大藩や上野国や信濃国の小藩も、幕府の圧力に屈せず養蚕や織物に力を入れ、各地に生糸や絹織物の産地が形成されました。
しかし高級織物に使用する生糸は中国産に限られていたため金、銀の流出が甚だしく、1685年(貞享二年)幕府は輸入を制限します。それまで輸入生糸に限っていた西陣が国産の生糸を使用し始め、養蚕地帯は増産に追われました。
絹の産地は生絹織物と練絹織物により地域が大きく分かれます。生絹織物は日本海に面する北陸から東北地方で織られ、福井県・石川県などの羽二重・縮緬・塩瀬が代表です。練絹織物は銘仙・甲斐絹・お召などで、関東平野の山裾に広がる結城・足利・桐生・伊勢崎・秩父・八王子などで生産されました。
丹後国では古くから絹織物が織られていましたが、1720年(享保五年)峰山の佐平治が京都から技術を持ち帰り丹後縮緬が本格的に生産されます。峰山藩は縮緬の販売を京都の問屋に依頼しましたが、1730年(享保十五年)には京問屋が七軒に増えて、いかに急速に丹後縮緬の生産が増加したかが分かります。同年の西陣の大火で西陣の生産が落ちた影響もあったようです。
桐生は絹糸の集散地で古くから絹織物が織られていました。大火で焼け出された西陣の職人が桐生にも流れてきて、1738年(元文三年)に西陣から高機(たかはた)が導入されます。桐生の絹織物は飛躍的な発展を遂げ「東の西陣」と云われるまでになりました。
1743年に縮緬の生産方法が伝えられましたが、縮緬は糸に強い撚りをかけなければなりません。1783年(天命三年)に岩瀬吉兵衛が水車を動力として一度に多数の糸を撚る機械を考案し、桐生は絹織物の産地の地位を不動のものにしました。
絹の高級織物は時代とともに絢爛豪華なものとなり、江戸幕府は絹の衣服の規制を行います。最初の禁止令は1628年の御触書(おふれがき)で、農民の着物を麻・木綿・紙に限りました。1643年には江戸庶民の着物の色を制限し、江戸経済を支えた富裕な商人の内儀・娘たちの着物の紫と赤を禁じました。
1663年の奢侈禁止令では、白銀500目迄の着物は東福門院(和子)と明正女帝、白銀400目迄の着物は徳川将軍の御台所、白銀300目迄の着物は江戸城大奥の女性に限りました。
日本橋小舟町の商人石川六兵衛の内儀は禁令を無視し、常に紗綾・縮緬・綸子の類を着ていて、晴れがましい場所では緞子・綸子を着ました。五代将軍綱吉の上野への御成りの時に、黒門前に桟敷を架けて幕を打たせ緋縮緬の大振り袖を着せたお供の禿(かむろ)を連れ、御簾を巻かせて拝しました。綱吉の上意で石川夫婦は遠島を命じられます。
1683年の天和の奢多禁止令では江戸庶民の女性に金糸を用いた刺繍織物、総鹿の子絞りの着物の着用を厳禁し、小袖の値段は銀200目・金4両までとしました。1718年(享保3年)の「町触」の公布にあわせて、奉行所は町人の贅沢な下着まで監視し、1745年(延享2年)には違反した衣料を着た町人がいれば、その場で没収する指示が出されています。
我が国の養蚕業は明治時代に飛躍的に発展しましたが、清でも製糸業の近代化が進められました。日本最初の近代的製糸工場の富岡製糸場(1872年)と中国の寶昌糸廠の技術指導を行ったのは、同じフランス人技師ポール・ブリュナーでした。
生糸は明治・大正時代の主要な外貨獲得源となり、1888年(明治21年)には生糸が輸出総額の63.6%を占め、1909年(明治42年)に日本の生糸生産量は世界一になりました。生糸輸出で得た外貨で海外の近代産業技術を輸入しえた意味では、生糸は日本の近代産業の生みの親です。
国産の生糸の生産量は第二次世界大戦前には4万tで、戦後も1950年代には世界の生産の60%を占めていましたが、1967年(昭和42年)に輸出国から輸入国に転落しました。現在は僅か280tと日本の絹の衰退は劇的です。一方世界の生糸生産量は1951年の2万tから2012年には16万tに増加しました。1950年代には世界の20%だった中国の生産量が2012年には80%を占めています。
19世紀末にレーヨンが発明され、我が国では人絹と呼ばれて絹の分野を蚕食し、戦前から開発されていたナイロンも、戦後絹の生産を圧迫しました。特に婦人用ストッキングでは完全に絹を駆逐し、絹の光沢と風合いをもつ合成繊維は着物の分野にも進出してきます。
高級品のシルクは先進国で根強い需要があり、合成繊維の出現はあっても消費が伸びています。日本は絹の需要が一貫して減少し、1975年の2万8,000tから2012年には1万1,000tにまで激減しました。
戦後70年経った現在、和服を日常着とする女性はいなくなりました。日本旅館や料理屋の仲居さん、芸者やバーのホステスなど仕事で和服を着ている人たちはいますが、和服は成人式や卒業式、結婚式などの限られた場での晴れ着になってしまいました。世界中で民族衣装に代わってTシャツとジーパンが普及していますから、あまり活動的とは云えない和服が日常着でなくなったのは当然かも知れません。
格調の高い正装用の着物は絵羽模様で柄付けがされています。絵羽模様は反物を着物の形に仮縫いして下絵を描き、脇や衽と前身頃の縫い目、背縫いなどの縫い目で模様が繋がるように染め上げます。
おめでたい場所で着る礼装用の着物には七宝・橘・鳳凰・鶴・亀などの「吉祥模様」や、豪華で華やかな檜扇・宝舟・貝桶・御殿・薬玉などの「古典模様」が使われます。
黒留袖は既婚女性の正装で、生地は地模様の無い黒い縮緬で五つ紋をつけ、絵羽模様が腰より下の位置に置かれます。宮中では黒は使われないので参内する女性は色留袖です。振袖は未婚女性用の絵羽模様の正装ですが、花嫁衣装などは大振袖、成人式などは中振袖が多いようで小紋や無地もあります。
訪問着は既婚、未婚の別のない絵羽模様の正装で、肩から裾に流れるような模様が描かれていて、裾にだけ模様が入っている色留袖とは異なります。付け下げは訪問着を簡略化した略式礼装で、絵羽模様ではなく反物の状態のまま染め上げ、縫い上がりで訪問着と同じ位置に柄が来ます。
紬は色合いが渋く絹らしい光沢を持たない反物で、大島など粋で高価ですが正装には用いられません。元々はくず繭をつぶして真綿にし、真綿から紡ぎだしたのが紬糸で、紬糸は手で撚りをかけるため太さが均一ではありません。耐久性に非常に優れ、日常の衣類や野良着として数代に渡って着繋がれました。江戸時代に贅沢禁止令が出た折には、遠目には木綿に見える紬を木綿と言い張って富裕な町人たちが好んで着たと云われます。
足利銘仙は江戸時代中期からの平織物です。もともとは正常に糸をとれない「玉繭」や「屑繭」から採った太い糸を緯糸に用いた丈夫な平織物で、寝具などにも用いられます。江戸時代後半に庶民の間に広まり「銘仙」と呼ばれるようになりました。
明治から大正時代に経糸と緯糸を故意にずらした、色の境界がぼやけて見栄えのする銘仙が流行りました。明治中期の学習院の華族女学校では通学の服装が華美に過ぎたため、当時の院長乃木将軍が通学着を銘仙程度と定めたと云われます。
戦前の我が国の女性は日常着として着物を着ていましたが、戦時中の活動には和服は不向きで、男性は国民服を、女性も「婦人標準服」を着せられました。敗戦後空襲で家を焼かれずに済んだ女性たちは和服に戻り、中年以上の女性は1975年頃までは着物を着ていました。華道・茶道・琴など我が国の伝統的な女性の習い事が盛んだった頃は、若い人も着物を着る機会は多かったようです。
和服はきりっとした直線が目立ち、形で洋服に引けは取りません。強烈な日光の下では洋服の原色に負けますが、曇りの日や室内では和服の繊細な色合いが映えます。和服は豪華を極めた衣装です。我が国伝統の正装として永く着用し続け、広く世界に和服の美を伝えてほしいものです。